和議の席で清盛は黒龍の逆鱗を欠けた三種の神器の代わりとして献上した。
望美がそれを砕くことで黒龍が―――そして、白龍と溶けた応龍が空に舞い戻り、京の龍脈は修復された。
それはこの上ない和平の象徴となったけれど、清盛は滲み、消えてしまった。
和議の前、静かに笑っていたあの人は、それを知っていたのだろうか。
……胸に、凝る思いがある。
望美はそっと、目を閉じた。
「え……?」
和議の後も、望美は桜姫として平家に残ることにした。
だが、幼馴染二人は還したい。
そう言うと、伝承に詳しい弁慶がそれらしい記述を見つけてきた。
曰く、白龍の神子は神泉苑で龍を召喚したのだという。
「応龍をなさしめたあなたになら、龍は応えてくれるでしょう」
……という言葉を頼りに、望美たちは神泉苑に向かう。
果たして応龍は現れ、将臣らを元の世界に還した上で、望美に質問を突きつけた。
「私の、望み……?」
応龍は神泉苑の水面の上、うねるようにその身を浮かばせ、望美に真向かっている。
大きくて慈愛深き龍眼が頷くように瞬いた。
―――神子のこれからの願いを叶えたい
それがあの日聞いた声と不思議に重なる。
望美は首を傾げた。
将臣と譲は現代へと還っていった。もう、望みは叶えられている。
「もう言ったけど……?」
―――あなた自身の望みを、聞いていない。
龍は静かに問いかける。すべてを知る眼で。
望美は詰まってしまった。
(私自身の、望み……)
咄嗟に過ってしまったのは、自分のせいで喪った多くの命だった。
喪われた兵たち。お別れも言えないまま消えてしまった清盛様。
そして……。
望美は一瞬振り返ってしまう。ついてきていた経正がふと顔をあげた。
(桜姫……?)
望美は逡巡し、絞り出すように囁いた。
「……少し、考えさせて」
承諾するように応龍の眼が優しく細められ、その姿は再び空に溶けた。
神泉苑はいつもの佇まいを取り戻す。
「桜姫、龍は一体何と……?」
「……私の願いごとが何なのか……月が一巡りするまで、待ってくれるらしいわ」
近づいてきた経正に、肩を竦めるように望美は笑ってみせた。
このとき。
列席していたり、物陰で見ていたたくさんの観客によって、このお伽話は瞬く間に京を駆け巡った。
―――その日から、望美は思わぬ災難に見舞われることになった。
☆
「……何、これ………」
「あなたへの賄賂ですね」
邸に残っていた惟盛は噂を聞いていたから、こうなるのは当たり前のように思う。
「捨てておしまいなさい」
バッサリと斬り捨てた。
「こ、惟盛殿?」
惟盛はフン、と鼻を鳴らした。
殿上していないから、内裏の騒ぎがどれほどのものかは知らないが、想像はつく。
山積みのあれこれがいい証拠だ。
だがそんな欲ぼけたことに桜姫を付き合わせるつもりなど平家には―――少なくとも惟盛にはないのだった。
惟盛の痛烈な台詞にどうかえしていいものか困ってしまった望美の耳に、笑いを含んだ新しい声が届いた。
「ふふ、惟盛殿。そのような言い方、桜姫が困ってしまってますよ」
「経正さん!……そ、その箱、は……」
自分の声に嬉しそうに振り向いて、その瞬間、顔を強張らせた望美に、申し訳なさそうに経正は頷いた。
「…お察しの通りです。申し訳ございません」
「はあ……やっぱり。いえ……経正さんのせいじゃないんですよ…」
つくづくと望美は反省した。龍に何を言われたかなんて、邸に帰ってからこっそりと言うべきだった。
どうにも応龍によって人が二人消えた神秘と、望美の言葉が相俟って、望美が願えばどんな望みも思いのままに叶うような期待をいだかせてしまったものらしいのだ。
噂が広まってからというもの、度を超えた贈り物攻撃に望美はほとほと疲れていた。
気遣うように経正が望美の肩を叩く。
「そんなに難しく考えなくても…桜姫」
「そうですよ、……何なら願いなんて、龍ではなく私に言ってくれてもいいんですから」
惟盛が扇の向こうで、こっそりと呟いた。
思わぬ台詞に二人の視線が集中し、惟盛はうろたえる。
「なっ、なんですか、二人して……!」
いち早く衝撃から立ち直ったのは経正だった。にっこりと望美に微笑みかける。
「あ、いえ…そうですね。私も同じです。あなたの望みを叶えたいのは龍だけではないのですから……何かあるなら、是非私にも」
その言葉に望美はきゅっと衣を握り締めた。
望み――――願い。
彼らになら、本当は一つだけ、ある。
「あ、あの、では……っ」
震える声で告げられたそれに二人は驚いたが、無碍にする理由は何もなかったのである。
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