あなたにまた恋をする 惟盛・経正×桜姫






         惟盛ver.




   望美たちは伊勢の方から熊野大社に向かう道を選んで馬を駆っていた。
 この旅の面子は望美と惟盛二人だけだ。
 叶えられる願いはないか、と問われて二人に望美が願ったのは、二人の「死に場所」へ一緒に行くことだった。

 二人は一様に驚いて、思わず顔を見合わせたが、言うのも躊躇っていたのだろう望美の何かを堪えるような風情に陥落した。
 もともと望美には滅法甘い二人である。
 優しく頷いて承諾する。
 返ってきた笑顔はそれだけでおつりがくるほど輝かしいもの。
 経正は鷹揚に微笑んだ。

「では、まず熊野に行かれては」
「ああ、そうですね……」

 何気なく頷いてしまってから、惟盛は扇の動きを止める。

「……私はあなたに入水したのが熊野だと言った覚えはないのですが」
「でも、熊野でしょう?那智の滝では?」
「………」

 経正があまりに自然に言うので違和感を覚えていなかった望美も「そういえば」と、気づいた。
 惟盛が入水したということは知っていても、それがどこだという話はこれまでにしたことがなかった気がする。
 惟盛はこれまでに何も話さなかったし、望美もそういった話題は自然に避けてしまっていた。
 僅かに沈黙が降りる。
 微妙な空気をまったく気にしない呑気さで経正が促した。

「お二人で行ってらっしゃい」
「えっ……経正さんは?」
「場所が場所ですからね。私もあの場所に行くなら、あなたと二人で行きたい。惟盛殿も同じでしょう」
「………。まあ、そうですね。……二人きりで、桜姫がお嫌でなければですが」

 惟盛がすい、と流した視線に、望美は大きく首を振った。

「とんでもない!惟盛殿は知盛じゃないんですから!」
「そうですね、まったくです。……ねえ、惟盛殿?」
「……………」

 経正の爽やかな笑顔に惟盛が深く沈黙した。
 善は急げとばかり、二人の出立は翌朝早くと決まった。
 そして、今に至るのである。







 速度を優先して馬でギリギリまで進むことにしていたが、そろそろ徒歩になるだろう。
 惟盛は行く前のやり取りを思い出し、重く疲れた溜息をついた。
 敬愛する桜姫から全面信頼されたはずなのに、面白くないのは何故だろう。

「惟盛殿?」
「……何でもありません。疲れていませんか、桜姫?」

 気遣う言葉に、望美は首を振った。

「いえ、これくらい。惟盛殿こそ……」

 望美は深いため息を気にして言ったのだが、惟盛の返答はにべもなかった。

「別に。怨霊の身に疲れはありません」
「あ、……そ、そうですよね」

 笑顔だった望美の表情がそのまま影を落とすのに気づき、惟盛は自分の失言に気づく。
 これは賄賂攻撃に疲れた彼女の気晴らしのための旅でもあるのに、暗い顔をさせてどうするのか。
 しかし、惟盛には咄嗟に、たとえば重衡のような、流れるごとくの慰めの言葉などは思いつかない。

(くっ……怨霊の身でありながら……!)

 桜姫の役に立つため怨霊となったのに、これでは忌々しいほど弱かった生前と変わりないではないか。
 惟盛は必死に話題を探す。

「さ―――――桜姫っ!」
「は、はいっ」
「いい天気ですね!」
「……はあ、そうです、ね?」

 望美が眼をパチパチさせて首を傾げる。
 今日でさえこの会話は三度目な気がする。惟盛のしたいことが分からない。
 しかし、惟盛はすっかり元の調子を取り戻し、にっこりと微笑んだ。

「そろそろ今日の宿を決めましょう」
「あ、お任せします…」
「任せて下さい!」

 何だか惟盛が邸にいる時より元気だ。
 時折何か葛藤し、的外れなことも言ってくるが……旅の解放感、というやつなのかもしれない。
 望美は気づかれないように苦笑し、それに僅かに哀しみを滲ませた。

『怨霊の身に……』

 ―――考えることがある。
 胸に凝る思いがある。

(これからの、願い……)

 望美は気づかれないようにしながら惟盛の横顔を見つめた。
 生きていた時と、本当に違いなく見えるから、望美は時々自分の罪を忘れてしまう。
 それでもこうして、不意に思い知らされる。
 望美の物思いをよそに、日が暮れはじめると、望美に少し言い置いて、惟盛は宿を探しに馬を走らせてしまった。







 伊勢路に辿りつくと、そこからは徒歩。
 旅は天候にも恵まれて、順調に進んだ。

「この分だと、明日は那智の滝に着くことができますね」
「えっ……今日は辿りつけないのですか?」

 惟盛は苦笑した。

「今からだと、滝に着くのが夜半になります」

 滝の水飛沫で滑って、桜姫が崖から落ちないとも限らない。
 くれぐれも危険は冒すなと各方面から釘を刺されている惟盛である。
 別にくどくどと言われなくても、惟盛に桜姫を危険にさらす気はないのだが。
 しかし、望美は首を振った。

「―――なら、行きましょう」
「……桜姫?」

 断固とした瞳はすぐに泣きそうに歪んだ。

「だって……あなたが亡くなったのは、夜でしょう……?」

 惟盛は息を呑んだ。
 何故知っているのだろう。

「お願い、惟盛殿」
「桜姫……」

 彼女が何を考え、何を望んでいるのか、そのすべてはわからない。
 だから、惟盛は困ったように笑った。

「あなたはずるい人ですね……」
「え?」

 ―――すべてを見せない。そして、すべてを背負ってしまう。だから、惟盛は桜姫の心のすべてを窺い知れたためしがない。
 だから知りたいと思うのか。これほど心が惹かれるのか。それとも………

「あなたのおねだりに、平家の男は逆らえないということです」

 ふわりと微笑んだ顔は、まるで生前の惟盛そのもので、望美は一瞬泣きそうになった。




「しっかり掴まって。転んではいけませんよ」
「は、はい」

 月が美しい那智大社。
 夜中であるだけあって、そこに他の人影はなかった。
 御神体である大滝の音が響いている。
 望美はゆっくりと顔をあげた。

「……綺麗」
「そうでしょう?」

 月の光が強いからか、星も今夜はあまり見えないようだった。
 皓い光を弾いて流れる滝は荘厳でいて、とても美しく恐ろしかった。
 少なくとも望美にこの闇の滝壺を覗く勇気はない。
 惟盛はどんな決意で飛び込めたのだろう。
 二人は暫し無言で滝に魅入った。
 沈黙を破ったのは惟盛の方だった。

「……思い出します。あの日も、私はこの滝に見惚れた。まるであなたのようだと思ったものです」

 望美が顔を上げる。
 あの日とは、惟盛が入水した日だろう。
 死ぬことを決め、人であることをやめた日。
 続く言葉の意外さに、望美は目を僅かに見張らせた。

「私……?」
「ええ。美しく、力強く、底が見えない。まるであなたそのものではありませんか」

 惟盛の口調は軽妙で、語る言葉に気負いは見られない。
 しかし、望美は口を噤んだ。

「あなたの中に、飛び込んでいくような心地がした……」

 まるで陶酔するように惟盛が目を閉じる。
 場にはまた少し沈黙が流れた。

「……どうして」

 望美が絞り出すように呟く。
 小さく、滝の轟音に紛れてしまいそうな声であっても、惟盛はそれを拾うことができた。
 怨霊であるがゆえに。

「どうして、死んで、それも怨霊になったんですか……っ」

 それは質問でもなく、独白でもなかった。
 惟盛は視線を閉じたまま、沈思する。

 ――――どうして。

 物問いたげな桜姫を、旅の間中、そして戦の間も、惟盛はずっとはぐらかしてきた。
 ずっと言えなかった。いや、言おうとも思わなかった。
 それが今、口を開く気になったのが何故なのか、自分にも分からなかった。

「どうして……ふふ、分かりませんか?」
「分かりません!」

 望美は泣くのを堪えて首を振った。
 分かっていたら、聞かない。清盛が喝采したあの言葉が本心だとも思いたくもない。
 ずっと今まで問えずにここまできた。
 だが、ずっと望美は知りたかったのだ。
 どうして、惟盛が自殺してまで怨霊になってしまったのか。

「困りましたね……」

 惟盛の微笑みに面白がるような響きが宿り、望美は思わずカッとして顔をあげた。
 またはぐらかされる!

「惟も……ッ……!」

 すぐに離れた唇。
 惟盛は平然と微笑みながら、望美を見下ろしている。

「あなたが好きだから、ですよ、桜姫」
「……私が、好きだから……?」

 望美は唐突な口づけと言葉に戸惑い、混乱して頭がまとまらなかった。
 まず、どう繋がるのかが分からない。

「私が好きで、どうして……っ……」
「―――私は弱いから、姫……」

 惟盛の言葉と瞳の静かさに、望美は叫び出したい衝動を堪えた。

「あなたが好きだから、私はあなたの役に立ちたかった。そしてお守りしたかった。……でも、私のままでは弱すぎて役に立たなかったのです」

 望美は今度こそ息を呑む。

「そ、んな……惟盛殿は弱くなんて…!」
「戦績が全てです。私がもっと勝てていれば、あるいは都落ちさえせずにすんだかもしれません……」
「そんなことありませんッ!」

 淡々と惟盛が言うのに、烈火のような勢いで望美が怒鳴った。
 その激しさを愛しいと思う。

「ええ…単に、私が怖がりだったのでしょう」

 平家は落ちたかもしれない。惟盛がもっと勝ったとしても。
 だから、それは言いわけだった。
 少なくとも完全に本音ではない。

「―――私は、あなたが私のせいで喪われるかもしれないのが怖かった」

 戦の度、零れ落ちてゆくたくさんの命たち。
 次は桜姫でないとどうして言える?
 自分では弱すぎて、きっと楯にもなれないのに。

「……私は、生きていて欲しかったです」
「桜姫……」
「怨霊になって、あなたは戦場では確かに強くなったのかもしれない。でも……っ」

 堪えられなくなったのだろう。望美はぽろぽろと涙を零した。
 あとの言葉は嗚咽に消えた。
 惟盛は黙って望美を見つめる。
 あとからあとから零れる涙は、尽きることを知らないかのようだ。
 彼女の激しさと強さを愛しいと思う。
 そして、その弱さは、他の誰にも見せたくはないと。
 ―――怨霊となっても、何度諦めても、恋せずにはいられなかった佳人。

「……嫌なら、止めて下さい」

 望美は不意に顔にかかった影に気づいた。

「嫌…?…っ…」

 優しく重ねられる唇の感触を、望美はもう知っていた。
 何度か啄ばまれて、次第に唇は深く望美に沁み込んでいくようだった。
 抗えない。

「んっ……んう……!」

 肩と背中にまわされた力強い腕が、冷たい唇が、望美の呼吸を奪い、心を溶かしていく。
 息をあげてしまった望美を暫し見つめ、惟盛が囁いた。

「ひとときだけ……あなたを愛したい」
「ひ、とときって、あのっ……!」
「嫌とはどうか……言わないで下さい…」

 熱を帯びていく惟盛の仕草に本来宿るべき熱はない。それが、より一層現実味を失わせ、惟盛の懇願に望美はただ縋りついた。
 神域で愛し合うことに抵抗がなかったわけではないが、それを気に留める余裕はどちらにもなかった。
 惟盛は望美を手近な岩に腰かけさせると、跪くように衣の端に口づけた。

「惟……盛殿っ、あっ…」
「美しいです、……桜姫……」

 陣羽織を解き、袷から零れた大きな胸を、惟盛は優しく愛でるように撫でまわした。

「は、はずかし……、あッ、…ふ……」

 じわじわと広がる熱が望美の何かを壊す。
 惟盛は夢中になって白い肌と辿り、薄い色の蕾を掠めるように愛撫した。
 望美は惟盛の頭にしがみつき、声を恥ずかしげに堪える。
 惟盛にとってそれは、甘露に等しい。
 ……もっとこの声が聞きたい。
 惟盛は暫し考えて、左手を望美の膝のあたりに移動させた。

「こっ、惟盛殿っ……!」

 狼狽したせいで望美の拘束が少し緩んだ。
 惟盛は頭を沈め、望美の膝を素早く割る。

「やあ……っ!」
「ふふ、慎ましいですね……」

 羞恥に顔を覆う望美に構わずに、惟盛は秘所を覆う見慣れぬ白地に指を伝わせた。
 望美の身体が魚のように跳ねる。

「可愛らしい……」
「惟盛殿っ…!……ふあッ、あっ、んくっ…」
「目眩がしそうですよ、…あなたに……」

 制する声音も、堪える喘ぎも、どれも惟盛を煽る。
 嬉しくて仕方ないのだ。
 恋焦がれた存在が、自分のためだけにあげる可憐な声が。
 望美もまた、未知の感覚に翻弄されるように理性が働かない。だが。

「ひとときだけ我慢して……桜姫」
「……っ、嫌!」

 そのとき、それほど強い力ではなかったのに、惟盛の身体は突き飛ばされた。
 惟盛は後ろ手に尻もちをつき、ただ呆然と望美を見上げた。
 中途半端に乱れた着物から覗く肌が神々しいほど、白い。
 それよりもなお、惟盛の目を釘づけにしたのは望美の表情だった。
 惟盛の愛撫と、自身の怒りに似た哀しみで赤く潤んだ瞳。
 苛烈な翠。
 惟盛の望み、憧れた強さと美しさ。

「桜姫……」
「どうしてひとときだけなんて、言うんです。まるでこれが最後みたいに……!」

 惟盛は怨霊だ。
 留まる事は、きっとそれだけで罪になる。
 清盛のように消えることが、きっと自然であって当然。
 ―――そんなことは、望美にだって分かっている。
 それでも。

「ひとときだけなんて嫌です…!私は、あなたにずっと傍にいて欲しいのにっ…!」

 ――――その刹那。



 リ・リーン……
       リーン……



 望美の耳だけではなく、惟盛の耳にも涼やかな二色の鈴が響き渡った。
 二人は思わず辺りを見渡す。
 すると、二人の間から、凄まじい光が現れた。思わず望美は目を瞑る。

「何―――ああっ……!」

 唐突に溢れた白い光が場を満たし、やがて遠ざかる。
 何が起きたのか、咄嗟には分からなかった。
 ―――望美には。

「……な、んだったんだろう…ひゃっ……」

 再び静寂に戻ったらしい雰囲気に望美は瞳を開けようとして、そのまま惟盛に力強く抱き締められた。
 驚いて、その暖かさに、気づくのが一拍遅れた。

「……ッ、こ、惟盛殿―――」
「ええ……おそらくは…」

 望美は何と言っていいか分からなかった。こみ上げた感情の正体が分からない。許されるかも分からない。だけど―――
 あの鈴の音。
 そして光は、思えば神泉苑で見たものと同じだった。
 龍の優しい眼差しが望美の脳裏に甦る。
 望美は何かと聞いた、京の守護神。

(これが、私の望み……)

 ただぎゅっと、その身体を抱き締める。
 もう離さないように。
 離してしまわないように。

「愛しています……桜姫」
 自分の血潮を感じながら、惟盛もまた、望美を優しく抱き返した。




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