あなたにまた恋をする 惟盛・経正×桜姫






         経正ver.




 望美の「お願い」は意外だったが、彼女らしいものでもあった。

「倶利伽羅峠へ…ですか」
「はい、駄目でしょうか」

 真摯な眼差しは思いつめている。
 反射的に頷きたくなったものの、経正はやはり躊躇った。
 あの谷底には多くの兵が吸い込まれていった。おそらく骸はそのままだろう。
 それを見せてしまっていいものか……。
 躊躇う経正をよそに、惟盛が頷いた。

「駄目なんてことはありませんよ、桜姫」
「ホントですかっ?」
「惟盛殿!」

 望美と経正の声は重なった。
 睨む経正の視線を避けるためか、惟盛がぱらりと扇を開く。

「いいではありませんか、経正殿」
「何を…っ」
「―――すべて桜姫に言わせる気ですか。あの地に何が未だあるのか、一番知っているのはあなたでしょう」
「……っ」

 気色ばんだ経正に、惟盛は鋭い一瞥を投げる。さしもの経正も押し黙った。
 確かに、かの地には、弔われることない無数の骸があるだろう。
 供養されない骸の行く末は決まっている。
 そして、望美は「白龍の神子」なのだ。

「……経正さん……」

 望美の頼りなげな視線を感じ、経正は忌々しくため息をついた。
 何ももう彼女に負わせたくはないのに。

「そんなに連れていくのがお厭なら、私がお連れいたしますが……」
「えっ、惟盛殿も道がお分かりに?」

 望美に名指しされたのは経正だったので惟盛はそれを優先していたが、本人が行かないというなら話は別である。
 望美の驚いて意外そうな顔に、惟盛は鷹揚に頷いた。

「案内くらいはできますよ」
「あ、じゃあ…」
「――――私が連れていきます」

 倶利伽羅は経正の敗戦の地。
 聞くなら彼しかいないと思いつつ、躊躇っていた望美だったので、彼以外に案内してもらえるならば不都合はない。
 そう思って頷きかけたのだが、経正はそこに身体ごと割り込んだ。

「え、でも……」
「私では駄目ですか?」
「そ、そんなことは」

 望美は気遣って惟盛に頼もうとしたが、元々望美が願ったのは経正に対してである。
 望美には嫌がる理由など何もない。
 望美は小首を傾げる。

「でも……、いいんですか?」
「はい。……気は進みませんが」

 どんな風になっているかもしれない場所である。気は思いっきり進まないが、望美が願うのであれば仕方ない。
 また、あの地の供養は、長い間、経正の懸念でもあった。

「ふふ、いってきなさい、桜姫。あいにく紅葉の頃ではありませんが、京の騒動よりも余程よいことでしょう」
「…………」

 惟盛の気楽な微笑に経正は恨めしげな視線を浴びせたが、それは一顧だにされなかった。







 加賀の国・倶利伽羅は京から見て、北東の方角に位置する。経正は琵琶湖を北上し、敦賀を抜ける道を選んだ。
 当初こそ後悔の念が身を焼くかに思われたが、愛しい姫との同道に次第に心もほぐれ、道行は和やかに進んだ。
 だがさすがに、その場所へ近づくと、二人の口も重くなった。

「……ここです」
「………」

 今では地獄谷とさえ呼ばれる渓谷の入り口に立ち、望美たちは馬を降りた。
 そこにはいくつもの骨、あるいは甲冑の一部が埋まったり、あちこちに転がっている。
 望美は腰をかがめ、その一つを拾いあげた。
 白い指が砂を払う。これは脇楯だろうか。
 随分と長い間、望美はそれを見つめていた。

「桜姫……」

 呼びかけても、凛と伸びた背中は振り向かない。
 まるで拒絶されているようで、じわじわと嫌な気持ちが経正にこみ上げた。
 後悔と、哀しみと――叫び出したい気持ち。
 どうしようもなく膨らんでいくそれらを抑えて、もう一度経正は呼びかけた。

「―――桜姫」

 今度は、望美は振り返った。
 ただし半身だけ。
 真正面にはならない。経正は望美の目が乾いているのに驚いた。
 ――――泣いていると思ったのに。

 経正が戸惑った気配を察したのだろう、望美が困ったように微笑んだ。

「……泣くかなと思ってたんです、私も」
「桜姫……」
「泣くだろうな、って……」

 望美の声が妙なほど平坦で、経正は心配したが、近寄る勇気は持てなかった。
 静かに佇んでいるだけなのに感じる神威の気配は、やはり神子だからなのか。
 そしてそれをより強く感じるのは、この身が怨霊だからだろうか。

「でも、泣けないみたい。……冷たいですね、私」
「―――何を仰います!」

 淡々と吐かれた自分への軽蔑に、経正はさすがに色を変えた。
 しかし、望美は首を振る。

「まあ……泣く資格はないですね。だって、ここにみんなを追いやったのは私だもの」
「あの戦の将は私です!」
「うん、でも、誰を遣るか、何人派遣するか、決めるのは私です」
「ですが!」

 経正がいかに強い口調でいさめても望美の声色は変わらず、淡々と自分を責めた。
 望美は静かに手にした脇楯を見る。

「……責められるべきは私なんですよ、経正さん……」
「……桜姫……!」

 そんなことはないのだと、庇われるのは嬉しい。和議が成ったと、あなたのおかげだと喜ぶ姿は、倍も嬉しかった。
 ……だけど。

「もっと早く、怨霊兵を使っていればよかったのかもしれない。負けを認めて、この首だけでも差し出せばよかったのかもしれない」

 経正は目の眩むような怒りを感じた。
 先ほど膨らんでいきそうだったものは押し殺せても、これは無理だ!

「桜姫!それ以上言うと怒りますよ…!」

 滅多にない本気の激昂を見て、望美はようやく真正面に向き直った。
 静かな瞳。何かを覚悟した顔。

「下らない意地のために、みんなを死地に追いやったのが私なのは事実です」

 望美はふ、と身を沈めた。
 経正は流れるような動きに一瞬虚を突かれる。怨霊の哭き声がしたのはそのときだった。

「……桜姫!」
「―――あげく、剣で斬ってやることしかできない」

 経正の声に重なるように望美は地を駆って剣を走らせ、経正の真後ろに立ち上がった怨霊を一閃で消滅させた。
 冴え冴えしたあざやかな剣舞。

「……っ」
「最低、です」

 望美は淡々と呟き、哀しげな微笑で経正を振り返った。
 その背後を音もなく異形が襲う。

「姫、後ろッ!」

 叫びながらも経正は、望美が気づいていることを知っていた。
 果たして、望美は動じもせずに剣を巡らせ、一撃でそれを両断する。
 いくつもの戦場、どんなに静かで動きの潜められたときであっても、望美は戦の気配を正しく察し、それを誤ることはなかった。
 経正は思う。
 あの戦に自分が無理に出ず、あるいは意地を張らずにどの時点かで桜姫に出陣を乞うていれば、あの無様な敗戦は避けられたのではないだろうかと―――
 そこまで考えて、経正はハッとした。


『下らない意地のために―――』


 今も剣を奮い、猛然と甦る怨霊を封じていく望美が吐き捨てた言葉が脳裏に甦る。
 望美の言う意地が何なのか、経正にはすぐに分かった。
 ―――望美もまた後悔し続けてきたのだ。
 兵の死に心を痛めながら、怨霊兵ではなく生きた兵を使い続ける矛盾を。

(そんな……何故、あなたが……!)

 負わなくていい罪だった。
 怨霊兵を使うことを拒んだのは、平家中枢、誰も同じはずだった。
 ただそれを清盛相手に押し通せたのが望美であるというだけで。
 怨霊を封じることができる「白龍の神子」であることも、平家の「怨霊姫」であることさえ、望美が選んだことではない。
 どれも決して、彼女のせいではないのに!
 何を言えばいいか迷う経正の前で、怨霊は次々斬られていく。
 そこら中に満ちる封印の光は、経正の心の中に一つの結論をもたらした。

(清浄なる光)
(やはり、あなたは――――)

 最後の一つを斬り伏せてもまだ光は残った。
 名残り惜しげに望美の近くに留まり、やがて諦めたように消えていく。
 まるで平家の―――自分のさだめのように思えた。

「……ありがとうございます、桜姫、いえ、白龍の神子殿……」

 望美は瞠目した。何事だろう、その呼び方?

「経正さん……?」
「お見事でした。……やはりあなたは怨霊を封じるのが役目の方なのですね……」

 やけにしみじみした声音に、望美がいぶかしむ様に首を傾げた。

(どうか、そんな風に見ないで欲しい。決心が鈍る―――)

 揺らぐ心と裏腹に、経正は続けた。
 白龍の神子。桜姫。どちらも彼女の望んだものでは決してない。
 そして、自分たちは知っていたはずだった。
 彼女が最初、何者であったかを。

「……桜姫、この地の怨霊を封じてくれてありがとうございました。どうかもうひとつ、お願いがあるのです」

 ならば告げねばなるまい。彼女はきっと、決して「桜姫」から自分で逃げようとはしないから――――

「お願い……?」
「はい」

 問いながら望美は嫌だった。
 聞いてはいけない気がした。きっと、経正は嫌なことを言う。
 嫌なこと……恐ろしいことを。

「……や、です」

 おじけづいたように望美が後ずさるのを、経正は捕え、優しく微笑みかけた。

「あなたは強い方だ……聞いて下さい。お願いは、ひとつ…いや二つです、桜姫」
「いやっ、聞きたくない……!」

 さっきまでの淡々とした声が嘘のように、望美は駄々をこねた。
 それが嬉しいのは何故だろう。
 ここに来たくないと思った理由が、ようやく経正にも分かった気がした。
 経正はなるべく優しく微笑んだ。
 望美が万に一つも罪悪感を持たないよう。

「どうか私たちを封印し、元の世界へお還り下さい」



 心の臓が凍った気がした。
 何を言われたのか、咄嗟には分からなかった。いや、分かりたくなかった。

(私はもういらない……そういうこと?)

 まるで奈落に突き落とされたかのようだ。
 足場がなくて、倒れてしまいたくなる。
 実際に崩れそうになった望美を、経正が支えた。揺れない瞳。

「あるべき場所へ、きっとお互い還るべきなのです。清盛公も消えました。この地の怨霊も……。いずれ怨霊はすべて、龍脈へ還っていくでしょう」

 もういいのです―――
 経正はそう言って、少女を、大人にならざるを得なかった少女を解放してやりたかった。
 龍への願いは、望美が自分自身のために使うべきなのだと、強く感じた。
 そして……この身には時間がなかった。
 しかし、望美の見たことがないほど怯えた表情に、経正の中の何かが音を立てて弾けた。

「……っ」
「――――あなたを、愛しています」

 かすめるような口づけは、頬にしか贈られなかった。
 望美は息を呑み、左の頬を押さえた。熱い。

「この身が人のままならば、あなたを抱き締め、誰にも渡しはしないけど、それはできない。それならば……私を、あなたの手で、龍脈に還して下さい」
「経正さん……っ」

 目の前で、経正が変容していく。
 ここが彼の死んだ場所だからだろうか。それとも何か他の理由があるのか分からない。
 でも、柔らかい指先が紫になっていくのだ。
 それだけは見て取れた。
 微笑みは優しいままなのに、この人は怨霊なのだ。
 涙目で剣を構えた望美に、経正は優しく、心から微笑んだ。

「……ありがとう、桜姫」

 優しい微笑は何もかも察したようだった。
 胸の奥で、経正の言葉が木霊した。望美は泣きたくなる。
 経正を、どう想っているかなんて考えたこともない。今まで求められたこともない。
 だけど――――だけど!

「ずっと忘れない……それしか私は、できないから」
「充分です―――…願わくば………」

 ……経正が最後に何を願ったのか、望美は知らない。
 知らないまま、望美は京に一人で戻った。

(あるべきものを、あるべき場所へ……)

 それを確かめに、望美はあの場所に行きたかったのかもしれないと思った。







「しっかし、お前が戻ってくるとはな」
「俺は嬉しいです、先輩」

 将臣の屈託のない微笑みと譲の控えめな笑顔に、望美も曖昧に笑った。それが彼らなりの気遣いだと知るからこそ。
 神泉苑で願った数瞬後、望美はあの日の午後に戻ってきていた。
 今は春。身体は十六の時に戻っていて、あの日々はあまりに遠い。
 やはり彼の言葉は正しかったのだろうか。

「……でもま、何となく分かったっていうか?」
「え?何が、………っ!」

 幼馴染の苦笑に望美は促されて前を見た。
 桜吹雪の中、その人はスーツで向こうから歩いてくる。
 見間違いだろうか。疑う前に、身体は駆け出していた。後ろで苦笑する気配がする。

(ううん―――もう何でもいい……!)

 その人はゆっくり笑った。あの日のままの笑顔。いや、あの日々よりも輝く笑顔。
 その腕に飛び込むことを、望美はもう躊躇わなかった。




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