敦盛ver.
そのとき敦盛は、全身の緊張を解いていた。
だから。
「ふ〜」
息を大きくつく声。安らいだ気配。
温泉特有の寛いだ吐息は、ごく普通のもの。
―――それらに激しく動揺した。
敦盛がこの声を聞き間違うことはない。
(さ――桜姫っ……?)
何故ここに!
動揺しすぎて固まってしまった敦盛の傍に、あろうことか声は近づいてきた。
「はー、いいお湯ですね、温まりま……す」
「……やはり貴女か……」
呑気に先客に呼びかける声は、近づくにつれすぼまってしまい、敦盛は申し訳なさそうに少しだけ振り返った。
案の定、そこにいたのは桜姫だった。
(……よかった。湯帷子は着て下さっているな……)
実は、一度こうした湯殿で鉢合わせしたことがある。
そのとき、何も身につけていなかった理由を聞くと、元の世界では何もつけずに入るのだと教えてもらった。
そのとき、敦盛は湯帷子の存在を一生懸命教える羽目になったのだが……。
「す、すまない。出るから待っていてくれ」
敦盛がいたたまれずに立ち上がろうとする。
望美は呆然としていたが、ハッとして敦盛の腕を掴んだ。
「待って!……その、ここはもしかして混浴…なんですかね?」
「ああ……そう、だが」
まさか引き留められるとは思っていなかった敦盛は困惑する。
剣を握っていても柔らかい掌を感じ、乱れないはずの呼吸が乱れそうな錯覚を覚えた。
「なら……いて下さい。ほら、私も敦盛さんも湯帷子ですし!ね?」
「桜姫……」
優しい人、可憐なる佳人は健気に敦盛に配慮して引き留めようとする。
敦盛にはそれが嬉しく、切ない。
優しくしてくれるのは嬉しい。自分が望んではいけない立場だと理解はしている。
けれど、どうしても心は揺れる。
(怨霊となる前から出逢えていたら、少しは違うのだろうか……)
考えて、そうはなるまいと敦盛は思う。
望美が現れる前からこの身は怨霊だったし、怨霊だと分かった後も彼女は変わらなかった。
―――異形に変化した時、救ってくれた光。
それ以上を望むのは、罪悪だ。
「しかし……その」
「あ、恥ずかしいなら背中合わせで。…ね?せっかくの温泉なんですから」
「さっ、桜姫!」
それ以上の他意はまったくないのだろう。
そう言って、望美は敦盛の手を離し、背中に自分の背中を預けてきた。
腕から離れた感触と、仄かに背中に感じる重みが敦盛を混乱させる。
「……嫌なら離れますが……」
あまりにうろたえた様子にさすがに望美もしょんぼりとして、僅かに離れた。
敦盛はさっきの倍も慌てた。
「嫌なわけがない……!」
凄い勢いで振り返っての力説に望美は驚く。
まともに望美と向かい合ってしまった敦盛は、我に返って顔を俯けた。
「い……嫌などということは、本当にない」
「……本当に?」
触れてくる手は優しい。それを返すことはできなくても、そのまま傍にいることくらいはゆるされるだろうか。
敦盛は切ない思いを滲ませて、頬を赤らめたまま、おずおずと頷いた。
「ああ…。私が貴女に触れられて、嫌なことは絶対にない」
「そ、そうですか」
控えめだが断固として頷かれ、望美が少し顔を赤らめた。
敦盛はそれに気づかないまま、首肯した。
いつもは高い位置で結われた髪が垂らされて敦盛の表情を隠す。
望美は暫しこの沈黙を楽しんだ。
月が夜の闇に溶け込むように中天にかかっている。雲居の月。それは、ときたま顔を出し、望美の顔を照らした。
湯の温度が心地いい。
望美はまたほうっと息をついた。
「……敦盛さん、ありがとうございます」
唐突な礼に敦盛は顔をあげた。
また目が合うが、敦盛は今度は目を逸らすことができなかった。
望美は静かな瞳で微笑んでいた。
「川で助けてくれて。……ううん、いつも助けてくれて、本当にありがとう」
「な、何をそんな…、あなたを助けるのは当然だ。私は……私たちは、もっとずっとあなたに助けられている……」
望美は少し首を横に傾げた。
微笑みはさっきよりも寂しげに見え、敦盛は胸を締めつけられる。
(何か―――傷つけただろうか……)
敦盛は懸命に言葉を探す。腕を上げた拍子に腕の鎖が音を立てて、ハッとした。
望美に伸びようとしていた手が止まる。
同時に望美が顔を顰めた。
「……そんなのつけて入ってるんですか?」
「え?……ああ」
怨霊としての本性を僅かながら封じる鎖。
敦盛は頷くが、望美は更に顔を曇らせた。
「私は穢れた怨霊だ。……これがあれば絶対というわけではないが……戒めくらいにはなるだろう」
実際さっき貴女に伸びかけた手を止めてくれた。
敦盛はそう思うのだが、望美は僅かに柳眉を逆立てた。
「敦盛さん!」
「本当のことだ」
宥めるように敦盛は微笑んだ。
……怒ってくれるのは嬉しい。だが、真実は変えられない。
この身は穢れた怨霊であり、優しい人は、それを封じる白龍の神子なのだ。
望美の顔が泣き出しそうに歪む。それが愛しく、……切ない。
抱き締めることができるならよかったのに。
「近頃、考えるのだ。……貴女は和議が終わったら、どうするのだろうと」
望美が息を呑んだ気配がした。
敦盛は寂しげに微笑む。
(戦の間は……考えずに済んだ……)
優しく、気高い桜姫。
貴女は平家を見捨てない。そう、信じることはできた――小さな、罪悪感とともに。
しかし、和議が成ったら、平家が守られたら……どうするのだろう。
(貴女は……そして、私は)
それは、分からなかった。いや、分かりたくなかった。
元の世界に戻りたいだろうと思う。
来たばかりの彼女は本当に物憂げで、夜の闇にも風の音にも怯えていたという。
幼馴染の消息をずっと気にして。
そして、怨霊は封じられて龍脈に還るのがさだめだ。
どちらにしろ、二度と会えない。
……逢えない。
「……どうする、か。考えたこともなかったですね……」
パシャン、と音がして、敦盛は物思いから立ち返った。
望美は掌にお湯を乗せ、滝のように流していた。口元に浮かんだ微笑みが寂しげであるのは、自分の願望だろうか?
「……川の怨霊を貴女が浄化したとき、私は少し、羨ましかった」
敦盛の独白に、望美はゆっくりと顔をあげた。真直ぐな視線に少し恥じらって、敦盛は僅かに顔を逸らした。
「貴女に封じられるのは、怨霊の幸いだ…」
それは紛れもなく真実で、敦盛の本音だ。
しかし、封印されたら、と考えたとき、敦盛の心は強く震えた。
(封じられたら、もう貴女に、会えない)
敦盛は続く言葉を見つけられず口ごもる。
沈黙が降りた。
「……敦盛さんは、消えたいの?生きたいって思わないんですか……?」
ややあって聞こえた声は、いつもの桜姫の声音とはまったく異なるものだった。
だが、敦盛は悲しげに目を伏せる。
「桜姫、私は既に―――」
「嫌!聞きたくありません!どうして…ッ」
そのまま望美が胸に縋ってくるのを、敦盛は二つの意味で避けられなかった。
咄嗟の事だったのと…目眩のするような幸福感で。
腕の中に貴女がいる。
たとえ抱き締められず、泣いているのだとしても、それは間違いなく幸福だった。
これ以上ない――――でも、許されるなら。
「……桜姫…」
「嫌です、何も聞かない!」
「桜姫、聞いてくれ」
「……………」
いつにない強い口調の敦盛に、望美も口を噤んだ。
思わず飛び込んだ胸の中。
呼吸も心臓の音も聞こえないのが、無性に哀しい。
「私は……貴女に……平家にいて欲しい」
怨霊である自分が何かを願うなど許されないことだと分かっている。
でも、許されるなら。
(貴女に平家にいて欲しい)
(貴女がいてくれることが、私を宥める)
哀しませたくはなかったから、自分が去った後も、という言葉は呑み込んだ。
しかし、言葉は届いてしまったものらしい。
聞きわけの無い子どものように、望美が首を振る。顔を上げない。
濡れている胸元に新しい雫を感じて、敦盛はハッとした。泣いている……?
「桜姫……」
「……て、くれないの?」
掠れた声がして、敦盛は首を傾げた。
「すまない、桜姫、もう一度―――」
「抱き締めてくれないんですかって聞いてるんです……!」
望美は顔をあげ、敦盛に掴みかかった。激情の迸る声に、敦盛は一瞬声を失った。
望美は大粒の涙を零し、また俯く。
「私はあなたにもいて欲しい!なのに、どうしてあなたが否定するの!どうして……っ」
その儚い肩を支えたい衝動に、敦盛はかられた。
戦場での彼女は常勝将軍。
疾風怒濤、激甚でいて華麗な剣で友軍の血路を開き、戦ってくれた月光花。
戦陣に咲き誇る大輪の花。
なのに、この可憐さは、儚さはなんだろう。
消え入りそうな、こんな彼女を誰が他に知るのだろう。
(嫌だ――――)
見せたくない。自分だけのものにしたい。
叶うなら、還って欲しくなどない。そして、傍にいたい。
たとえそれが、分不相応な望みだとしても。
「桜姫……」
呼びかけに望美は勢いよく首を振った。
そのいじらしさが、どうしようもなく愛おしい。
敦盛は震える手を叱咤して、望美の頬に添え、小さな顔を上向かせた。
「……んっ……」
小さな声に、背筋が震える。
催促するように唇を舐めると、おずおずと扉は開いた。
あとはもう、止めようもなかった。
躊躇うように添えられていた手は、気づけば望美の背に回り、掻き抱いていた。
息も、言葉も、願いもいらなかった。
何度も唇を重ね、夢中で貪った。
「……はあっ……」
ようやく離した唇。でも、腕は動かせない。
まるで凍りついてしまったかのように、離れなかった。
敦盛は腕の中の宝物を抱き締める。
ただこうしているだけで、甘い痺れが身体を駆け巡った。
この身体は死んでいるはずなのに、確かに感じる感覚は未知のものだった。
望美がきゅうっと抱きついてきたのが分かる。と、胸のふくらみが敦盛を現実に引き戻し、敦盛は慌てて離れた。
望美も気づいて、照れたように笑う。
その笑顔は、目も腫れていて美しくはなかったが、この上なく愛しいものだ。
「「傍にいて―――」」
……二人、声が重なって、また少し笑った。
掌を繋ぎ合う。
月が優しく二人を照らしていた。
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