ヒノエver.
望美は湯帷子を羽織って進み、岩肌の露天風呂の傍でかかり湯をした。
音に気づいたように人影が湯煙に揺れる。
影は望美が湯に浸かるのを待って、近づいてきた。
「やあ、桜姫」
「ヒ、ヒノエくんっ?どうしてここに…」
「ふふ、またあとで、って言ったろ?」
彼女がうろたえる姿は新鮮で、ヒノエは上機嫌ににっこりする。湯煙ではっきりとは見えないが、恥じらう顔がまたそそる。
「ここ、女湯じゃないの?」
「それは入り口だけだよ。熊野じゃ混浴が一般的だからね」
望美は二、三度目をパチパチして、湯に顎のあたりまで浸かった。
「……姫君?」
「あ、大丈夫……ちょっと動揺しただけ……」
覗きこまれそうになったのを、望美は手で制した。
ヒノエの態度を見るだに、これが熊野の常なことは分かるし、未来にだって混浴はある。
(湯帷子着て、よかった……)
望美は深呼吸をして、思考を切り替えた。
幸い、湯は半透明で浸かっていればそこまで透けては見えない。
気を取り直してヒノエに向き直る。
しかし。
「……何よ、ヒノエくん」
望美は胡乱気な顔でヒノエを見なければならなかった。
ヒノエが大爆笑している。
「くっ……ごめん、いや、笑う気は……!」
「笑ってて言われても……」
「ぶっ…!ははは、そうだよな……!」
どうも望美の動揺ぶりと、落ち着くまでの過程がヒノエのツボにヒットしたらしい。
望美は苦虫を潰しながら、笑いの発作の終了を待った。
やがて、ヒノエはまだ目に涙は溜まっている顔ではあるが、笑いは堪えてくれた。
「ごめんごめん。……お前といえば、凛とした戦乙女の印象が強かったからさ。可愛い姿で、ちょっと意外だったんだ」
「……意外?」
「ああ、可愛らしかった」
真顔で言われて望美は顔を赤くする。
照れ隠し半分で、望美も言った。
「……ヒノエくんのさっきみたいなのも初めて見た。そこまで笑うなんて、ちょっと意外だったよ」
「ふふ、確かにあまりないね」
「………」
ヒノエは表情一つ変えずに笑う。
望美は思わず頬に手を伸ばしていた。
川で傷を負った頬。
「その笑顔」
「え?」
「……その笑顔はあまり好きじゃないわ」
静かに響く慈愛の声音。
ヒノエは一瞬、何を言われているのか分からなかった。どう答えていいのかさえ。
からからに乾いた口を無理矢理動かす。
「……何かそんなに違う?」
「違うよ。……ヒノエくん、熊野水軍で、大人に囲まれてるもんね。しょうがないかもしれないけど……どうせ笑うなら、心から笑ってた方が可愛いよ」
静かな微笑みにヒノエは胸を突かれた。そしてちょっとムッとする。
……可愛い?
「男としてちょっといただけないね。可愛いなんて言われるのは」
「あはは、そうだね。でも、さっきの笑顔は可愛かった。そっちの方がいいよ」
男を強調したのに、あっさり流された。
そういう望美の表情こそがいつもと同じ、凛としてそれでいて優しい花の風情で、ヒノエは苛立つ。
……彼女こそさっきみたいな方がいいのに。
「ひょっとして、年下だから甘く見てる?オレを男扱いしてないでしょ、桜姫」
頬に伸ばされたしなやかな手を捕え、そっと口づけた。
指先に走った甘い痺れに、望美は僅かに身を強張らせた。
「……え?」
「オレは、男だよ。可愛いなんて、特にお前には言われたくないね」
指を絡め合わせ、きゅっと握る。
ヒノエは逃げを打つ腰を素早く捕えた。
(どうしてだろう、止まらない)
相手は平家の桜姫。
得なければならないが、無理強いしていい相手じゃないのに――
自分の中に生まれた感情を持て余すヒノエと同じく、望美も困っていた。
(プライド傷つけちゃったかな。可愛いなんて……でも)
可愛かったのは確かなのだ。
いつもの人を食ったような笑顔と違って、弾けるような笑顔だった。
笑われたことさえ許してしまいたくなるほど、屈託のない笑顔。
でも、本当の事だったら、何でも言っていいわけではない。
「ヒノ―――っ…」
謝ろうとして開いた唇を、ヒノエが封じた。
望美は何が起こっているのか分からなくて、息を止める。
何度も角度を変えて重なる唇。
離れた隙に息を吸おうとして、望美は口内に彼の侵入を許してしまった。
「んんっ……!」
「……やばいな」
今度はすぐに唇は離された。
しかし、かすれたような吐息が、望美を動けなくさせる。
「ヒ、ヒノエくん……?」
「甘い……」
「んぅっ……ヒ、あっ……」
ヒノエはもう一度唇を塞ぐと、首筋にそのまま吸いついた。
いつのまにか岩に押しつけられて、望美は身動きが取れなくされている。
ヒノエが動くたび、水音が跳ねる。
自分の体温をあげていくのが、温泉なのかヒノエなのか判別がつかなかった。
未体験の疼きが身体の中で暴れ、望美は思わず甘い声を洩らした。
「いい声だね、桜姫…このまま抱いていい?」
ヒノエは濡れた湯帷子越しに胸のふくらみをやわやわと揉みながら囁いた。
望美が必死で首を振る。
だが、そんな仕草は、ヒノエを煽るだけだ。
「やっぱり可愛い……そっちの方が、お前もいいよ、桜姫……」
「やあっ、駄目、ヒノエく……んんっ……」
儚い抵抗にヒノエは煽られながら、尖ってきた蕾を指の腹でいじり始めた。
その度に零れる声や吐息は全部口の中に吸い込みながら。
――――目眩がする。
彼女以外の現実が溶けて消えそうだった。
この瞬間にしか、価値が今見出せない。
考えていたはずの政略も手管もすべては吹き飛んだ。
(欲しい――― !)
ヒノエの片手が望美の秘所に伸びる。
固く閉じられた膝を、湯帷子を超えて撫であげると、跳ねるように身体が反応した。
「もう駄目っ、駄目だったらっ……!」
「こっちこそ駄目……そんな甘い声で、オレは止められないよ……?」
そもそもたとえ泣かれたとしても止まれるかどうか分からないのに。
ヒノエは表面上の冷静さだけ取り繕って、実のところ暴走していた。
止まれない。止まれるわけがない。
こんな気持ちは初めてだった。
その正体も掴もうとしないで、ヒノエは望美の肌を辿るように撫でて、口づけていく。
湯帷子を剥いでしまわないのはなけなしの理性だった。
ヒノエは望美の顔を見つめて囁いた。
「好きなんだ―――桜姫……」
初めて見たとき、そして会うたびに、何かが身体を駆け抜け、忘れられなかった。
……その度に錯覚だと決めつけたけど。
和議が偽物だと聞いたとき、背中に走った戦慄も知らないふりをした。
けれど今、月に照らされた頼りない表情にすべては暴かれてしまった―――
「可愛いなんて言わないで。オレを、ちゃんと見てよ」
「んっ……ちゃんと、見て、るよっ……」
望美は懸命に答えよう、考えようとする。
うっかりしたら、そのまま思考が溶かされ、流されてしまいそうだった。
身体が熱い。頭がぼうっとした。
懇願の囁きが切なくて、受け入れてしまいそうになる。
「男として、見て。お前を欲しがるオレを、受け入れて……」
望美が懸命に腕を突き立てて、最後の抵抗を試みた時だった。
「ヒノエく……っ!」
「――――湛増」
「え?」
やけに静かな声が、滑り込んできた。
「湛増って、呼んで。桜姫……」
望美の中の時間が止まった。
それは、きっとはぐらかされていた本名。
しかもその名はこの熊野の頭領の名前。
「頭領、だったの……?」
「烏か何かだと思ってたろ?」
「うん……」
不意に明かされた真実は、望美が思ってもいなかったことだった。
この少年が頭領?
この熊野を統べる、時には海賊まがいのこともするという?
信じられなかった。同時に、信じられた。
ヒノエは嘘をつかない男ではない。だけど、今の瞳は信じられた。
本気の瞳。
そう、迷いなく信じられたのは何故だろう。
「お前には何も隠さない。全部晒す。これがオレに出来る、全部だよ、桜姫」
「ヒノエくん……」
「呼んで、ちゃんと」
「湛…増……?」
乞われて、おそるおそる望美がその名を呼ぶと、呼べと言ったのはヒノエなのに、一瞬その表情は固まってしまった。
(ま、間違えた…?)
人の名前を覚えるのが根本的に苦手な望美は一瞬焦ったが、謝る前にヒノエが咄嗟に背けてしまった顔を、戻した。
眦がまだ赤い。
「……悪い。隠さないって言ったのに」
いじけるような声音はいつもの自信に満ちた声とは全然違う。
「……照れたの?」
「……ああ。結構、きた……」
望美は意外なほど素直な答えに、どうしていいか分からなくなる。
目の前の少年が、本気で愛しくなった。
「さく、……ッ!」
仕切り直そうと名前を呼ぼうとしたヒノエの唇は、望美の方から封じられた。
驚いたヒノエが固まったのに、望美は思わず破顔する。
「ふふっ、…驚いた?」
「……なかなかやるね」
翻弄されてばかりはいられない。
ヒノエは力尽くで自分を立て直すと、艶冶に微笑んだ。
望美をふわりと抱きあげると、今度は望美が固まった。
「何となくだけど……ね、初めてだろ、桜姫?さすがに初めてのお前をこんなところで抱けないからね。移動するよ」
「な、何でわかるの?」
「ふふ、何でだろうね?」
驚いたまま固まっている望美の湯帷子が張り付いた身体からは極力顔を逸らして、ヒノエはそのまま湯からあがってしまった。
悠々とヒノエが歩き始めた方向に気づいて、望美は顔色を変える。
「ひ、ヒノエくん、私の着物っ…!」
「後で持ってこさせる。それと、湛増」
「持ってこさせるって……!ヒノエくん、まさかっ……!」
訂正しても望美は直さなかった。
よほど焦っているのか、習慣はなかなか直らないということなのか?
感じた不満を、ヒノエは不敵な微笑に置き換えた。どっちでもいい。
「当然―――終わらないよ。今日は寝かさないから、覚悟してて」
「……っ!!」
政治的な意図だ、策略だと理性で抑え込もうとしていた恋は、勢いよく芽吹いてもうヒノエにも止められない。
ヒノエが桜姫の本当の名前を知るのは、この次の日の朝の話。
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