和議は鎌倉から頼朝が出てくるのを待ち、成立する見通しとなった。
熊野の仲介という形で。
まさか動くとは思われていなかった勢力のひとつである。
しかし、ここが動けば、反対した側が面倒なことになる。ましてや、奇襲も覆された後。
源平は両者、実務者を派遣し、日々領土がどうのの決めごとを始めることになった。
法皇もそこに参画する。
―――実務者レベル。
要は、桜姫にそれこそ頷く以外の仕事はなくなり、不意にその身柄は空いた。
「……あら?」
誘いが届いたのは、そんな折の事だった。
☆
自分自身も来るらしいのに、わざわざ文を出してきたのは、既知の少年である。
渾名をヒノエ。
「本名じゃないの?」
と、望美が聞くと、ヒノエは甘く微笑んだ。
「褥の中なら教えてあげるよ」
「…………」
以来、望美はこの少年の名を聞かないままにしている。
少年との交流は、敦盛を通じてだった。
二人は一見正反対に見えるのだが、会話も途切れずよく続く。
この仲の良さを望美は大変喜んだ。
ヒノエの敗因はそこだった。
望美はヒノエが着く前に、彼女を熊野へ誘う文を、敦盛に見せてしまったのである。
よって、ヒノエを出迎えたのは、望美の朗らかな笑顔と、敦盛の冷たい視線だった。
ヒノエは悟った。
失敗した。今日来るとだけ書けばよかった。
(……お目付け役も一緒になるとはね)
噂の桜姫の技量を見ようと、様子見程度に渡した「和議の裏」。
泣くか、怒るか、倒れるか?
桜姫の反応は、ヒノエが予想したどれでもなかった。
蒼褪めたまま、華やかに微笑んで、かのひとはなんと「ありがとう」と言った。
微笑みに呑まれた自分。
呆気ないほど平家有利で終わった戦。
事前の情報があったのは源氏も同じ。
これは源氏と平家の底力の差だった。
手を結ぶべき相手か否か。
この結果を見て、ヒノエに迷うような部分はなかった。
手を組むなら強い方、そして、気の進む相手の方がいい。
相手が美姫なら言うことはない。
熊野の回答は決まった。
ただし条件はあった。
その条件の提示にヒノエは来たのである。
用事の他に、もちろん下心はあったのだが。
「ここからは徒歩だね。どうしても駄目なら、輿を用意するけど?」
ヒノエの台詞に、望美は呆れたように笑った。この少年はどうも人を試す癖がある。
「そんなものいらないよ。歩くのは好きだもん。馬はもっと好きだけど」
「そうみたいだね。さすが、戦女神と謳われるだけあるな」
「ふふ、褒めてくれてありがとう」
隙のない物腰、可憐な横顔。
何もかもがアンバランスなようで絶妙であり、ヒノエは気分よく笑った。
これで二人きりならどんなにいいか……。
「桜姫、疲れたら言ってほしい」
「うん、ありがとう、敦盛さん」
――――これである。
望美は、ヒノエに向けるのの何倍も親しい微笑みを敦盛に向けた。
この旅は、当初のヒノエの計画と異なって、二人旅というわけではなかった。
ヒノエは当然桜姫だけを連れ、あわよくばそのまま熊野にとどめてしまう気でいた。
だから、他の誰かの用意が整わないうちに出立できるよう、桜姫にだけ文を出しておいたのだ。
ところが、当人の悪気なき気回しで、敦盛を加えた三人旅になった。
これが敦盛以外なら文句の言えるヒノエだが、何も言えずここに至る。
美しく可憐で、しかし凛々しい桜姫。
道中の我儘はほとんど聞けずじまいで、ヒノエとしては活躍の機会があまりにも少ない。
しかも、付き合いの差か、敦盛がよほど気を張っているのか、数少ない機会はすべて敦盛に先手を打たれてしまっている。
「…敦盛だけじゃなく、オレにも少しは頼ってよ、桜姫」
思わず懇願めいた響きが口をついて出てしまい、ヒノエは内心舌打ちした。
どうも調子が狂う。
ヒノエの葛藤をまったく知らない顔で、望美は軽やかに笑う。
まるで子どもにするように、頭を撫でてきたりする。
「頼ってるよ〜。今日はどのあたりで宿をとるの?」
「……新熊野権現を通り過ぎたあたりかな」
「そっか、よし、頑張ろうね、敦盛さん!」
「ああ」
「………」
こんな調子で、徹底的に分け隔てなく――ヒノエからしたら敦盛重視で――会話は進み、桜姫を口説くような機会はそれこそ皆無に近いのだった。
ヒノエは思わず空を仰いだ。
ヒノエの依頼は怨霊退治―――
「熊野川が怨霊によって氾濫している」
ヒノエのこの一言で敦盛は口を閉じざるを得なかった。
思わず隣の佳人を見遣る。
気高く美しい、いつもの風情に、桜姫はほんの少し蒼褪めた色を混ぜて頷いた。
「わかりました。すぐに行くわ」
「話が早くて助かるよ」
怨霊を生み出すのは平家とされている。
とは言っても、すべての怨霊を生み出しているわけでもないのだが、一般的にはそう思われており、また、その怨霊を消滅させうるのも平家の総領姫だけだとされている。
源氏が決着を急いだ理由も、和議を囮にする様な一か八かの策に朝廷がのった理由も、ここにある。
おそらくは熊野が仲介に乗り出した理由も。
「だが……こんな暑い盛りに」
「熊野は多く人の集まる場所だもの。放っておけないわ」
避暑に行くのではないのだ。
敦盛は望美の疲労を思って躊躇したが、望美は躊躇いもしなかった。
当然のような顔で首を振る望美に恥じて敦盛は俯いたが、「じゃあ―――」と言いかけたヒノエの言葉は遮った。
ヒノエの思惑は知れている―――
(……ついてきてよかった)
敦盛はしみじみ思った。
怨霊の身で、神聖な霊地である熊野に踏み込むことになるのを躊躇わなかったと言えば嘘になるが、それよりもそのときは大事なことがあった。
(桜姫の身を守らなければ……!)
ヒノエの手の早さはよく知っている敦盛である。
実際、望美が気づいていないだろうものも含めて、その攻勢はかなり激しかった。
問題の熊野川に着いたとき、敦盛はもう一度思った。
(ついてきてよかった……)
清らかな流れは濁流と化していた。
普段は小舟で渡ってしまえるような穏やかな川であるのに、そこは瘴気が渦巻く怨霊の棲み処となっている。空は相変わらず明るいはずなのに、どこか薄暗い。
そのとき。
望美と敦盛は、ほぼ同時に振り向いた。
「桜姫っ……」
「大丈夫!」
不意打ちを狙っていたものか、それは舌打ちしながら現れた。
さながら大きな蛙のような異形の怨霊。
さすが霊地に居座り続けるだけあって、その力は群を抜いている。
『チッ……気ヅキオッテ……小賢シイ……』
現れた怨霊の属性が水であったため、水の敦盛の力は拮抗し、火のヒノエの力は相克になってしまう。
しかし、ないよりは絶対にいい。
望美を要と気づいたのか、川の中に引きずり込もうとしたりするなど、怨霊の抵抗は激しかった。
敦盛は全体的な防御にまわることで二人を支援し、ヒノエは途中から身についた二人術で怨霊を翻弄した。
そして、舞のように望美は剣を一閃させる。
凄まじくも華麗なる一撃!
『ギャアアアアッ!……ッ』
「ヒュウ♪」
怨霊の攻撃で顔を擦り剥いていたヒノエが称賛の口笛を吹いた。
敦盛もその場を満たす浄化の光に見惚れてしまう。
人の手にはあまるだろう大きさの怨霊は浄化され、川は元の姿の清流を取り戻した。
(……ああいうのは、ここ以外にもいるのかな……)
望美は憂いながら、剣を仕舞った。今考えるべきことではない。
気になっても、自分は理由なく平家から離れられないのだ。
三人に怪我はなかった。
しかし、被害は皆無ではなかった。
不意に望美が笑った。
「さすがに濡れたね……」
「あ、ありがとう」
「―――待った、姫君」
ヒノエは素早く上着を脱いで望美に渡した。
望美は礼を言って、肩に羽織ろうとしたのだが、ヒノエは苦笑してそれを止めた。
分かっていない様子に、ヒノエは困ったように微笑む。
「腰に巻きなよ。ちょっと、目に毒だからさ」
「えっ?……あ!」
上半身は、陣羽織のおかげで大した被害はないが、下はそうはいかなかった。
さんざん水を被ったせいで、さすがに透けてこそいないものの、ぺったりと着物が張り付いて、望美の身体のラインを浮かび上がらせている。
「……ありがとう。よく気づいたね」
「ふふ、綺麗なものには敏感なんだ」
「よく言うなあ」
軽口は元気に飛び交い、ヒノエはくるっと視線を転じた。
「敦盛、もう大丈夫だぜ」
望美は一瞬きょとんとする。
いつの間にか向こうの岩陰にいた敦盛が、顔を真っ赤に染めて、こっそりと現れた。
望美は思わず破顔する。
「………そんなに笑わないでくれ、桜姫」
―――どうも少年には刺激が強すぎたものらしい。
ヒノエの機転のおかげで今すぐの支障はなくなった。しかし、夏とはいえこのずぶ濡れのままだと風邪をひく。
何より気持ち悪い。
一同は手近な宿にそそくさと駆け込むことになった。
「じゃああとで」
ヒノエの案内してくれた宿は、露天風呂の源泉を持つらしい。
望美はさすがに冷えた身体をぶるっと震わせた。
(ちょうどいいわ)
ヒノエたちと分かれ、まっすぐ望美は温泉の脱衣所に向かう。
ちょっと考えて、望美は置いてある湯帷子を羽織った。
湯煙の中、望美は先客を見つける。
そこにいたのは……
ヒノエだった。→■
敦盛だった。 →■