九郎ver.
九郎は息を呑んだ。
花嫁の被きから零れた桜色、そして、現れた顔は、忘れようとしても忘れられないものだったから。
「な――――なぜお前がここにいる!」
「花嫁さんだからですよ。当然でしょう」
しれっと答えるのは望美―――いや、平家方総大将・桜姫だ。
源氏方で怨霊姫と呼ばれ、恐れられた猛将の一角。
「ふう、重かった……」
被きが完全に取り去られ、可憐な面立ちが露わになる。
九郎は慌てて顔を背けた。
京邸で出くわして以来、まともに彼女の顔が見れたためしはない。
(くっ……情けない……!)
女など―――!
そう思うのに、動けない。
顔を見ることもできないほど動揺しているなんて、知られたくない。
九郎が葛藤している横で、望美はいそいそと今日の準備を整えていた。
といっても、単衣になる、結われた髪を解くくらいしかやることはないのだが。
かすかな衣擦れに気づいた九郎は、顔をあげて仰天した。
「なっ、何をしている!」
望美はちょっとげんなりした。
(うるさい人だなあ……)
向こうの世界では九郎義経といえばカッコいいヒーローだったのに、何だこれは。
こっちでも、最大の敵だと望美としては物凄く気を引き締めていたのに。
平家の男たちを見慣れた望美には、どうにも九郎は格好悪く見える。
「今日の仕上げですよ。今更何を言ってるんです」
「し、しあげっ……?」
九郎が目を白黒させつつ真っ赤になる前で、望美は褥に乗ると、綺麗に頭を下げた。
見よう見真似で三つ指をついてみる。
「えと、よろしくお願いしますね」
「よろしくって……お前!」
「はい?」
九郎にはついていけない。
何だ、この展開は!
このあっけらかんとした様子は!
顔をあげた望美のこぼれそうな胸元にどうしても目がいって、九郎は混乱寸前だ。
必死で思考を引き戻す。
この望美という少女は確か―――
「お、お前は将臣の想い人だろう!」
「……想い人ぉ?」
望美は思いきり不思議そうな顔をした。一体何故?普通聞いてくるなら、「お前は怨霊姫だろう!」だと思うのだが。
「将臣君は幼馴染です。恋人になったりしたことはありませんけど」
「そっ、そうなのか?」
「はい」
望美は淡々と頷く。
何故か胸が軽くなった気がして落ち着いてから、九郎はハッとした。
「お前、怨霊姫のくせに何故っ……!」
やっとそれか、と望美は頭を押さえた。
どうにもワンテンポずれる。
「とりあえず、座りませんか?見下ろされるのは好きじゃありません」
「あっ、ああ、すまない…」
冷然と言った望美の言葉に、九郎は素直に従う。
望美はちょっと眉根を上げた。
「―――何故って言いましたよね。不思議ですか?」
「……き、清盛公の娘と聞いていたから…」
ぼそぼそという九郎に、望美はちょっとだけ微笑んだ。
九郎は―――望美の出自を知っているのだ。
「そうですね、でも、一応私も養女なので」
「そ―――そうなのか」
九郎が少し目を伏せた。
「……だから、お前は平家の将として戦っていたのか」
「……はい。そして、今日ここにいるのも平家のためです」
九郎は電撃に撃たれたような感覚を覚えた。
望美は静かな目をしている。
すべてを呑み込むような翠。
「相手があなただと聞いたから、私に急遽変更になりました」
「……何故……」
望美はまた小さく笑う。
九郎は聞いてばかりだ。
そして、どこか傷ついたような目をしているのが不思議だった。
「私が『白龍の神子』だからです。源氏の御曹司と、白龍の神子の縁組は強いでしょう」
確かに―――
九郎も理屈では納得する。
これが見知らぬ二人の婚姻だというのなら、何よりの縁組だと訳知り顔で頷いただろう。
だが。
「平家は…納得したのか……!」
「私が、説き伏せました」
うめくような九郎の言葉に、望美が被せる。
静かで重々しい、頷きたくなる声音。
それはどこか、兄・頼朝を思わせた。
振り払うように、九郎は毒吐く。
「……平家も醜いことだ。異世界の少女をこき使い、あまつさえ政略の道具にするか」
一瞬、望美の眼に苛烈が走った。
「違います!」
「―――どこが違う!強制的に、こんな」
「私の話を聞いてましたっ?私が、行くって言ったんです!」
今までの静けさを振り捨てたかのような烈火の気配に、九郎も言葉を呑み込んだ。
「戦に出たのも、ここに来たのも、強制された覚えなんて一切ない!馬鹿にしないで!」
むしろ、いつもどれだけ反対されたか。
今日になってさえ、何人もかわるがわる望美を止めに来てくれた。
――――でも。
「私が、守りたいの。誰に言われたんじゃない。強制されたわけでもない!あなたも分かるでしょう、九郎義経……!」
煌めく翠に声が出なくなる。
脳裏には将臣の姿があった。
宇治川で出会った新しい友、青龍の絆。
剣を習いたいと言ったときの笑顔。
それが強制などされてないと言いきった望美の姿に綺麗にそれは重なった。
あいつも言うだろう。同じように。
(……そうかもしれない…だが)
そこまでする義理がどこにある?異世界の人間である彼らに。
「……すまなかった。…言い過ぎた、と思う」
激昂していた望美だったが、ぽつりと呟かれた謝罪に、無理矢理怒りをおさめた。
……喧嘩の場所ではない。
「……分かってもらえればいいです。私も、きつい言い方してごめんなさい」
「いや……」
九郎はまた口ごもる。
平家のために来たという望美。
―――自分も、源氏のために来た。
だが、彼女は、本当に分かっているのだろうか?
「……本当にそれでいいのか?」
突然顔を上げた九郎に、望美は目を瞬いた。
九郎は、望美をそのまま褥に押し倒した。
「――――こういうことだぞ」
「……はい」
「俺も、お前も、お互いの家のために来た。だが……」
九郎はじっと見つめてくる翠に耐えきれなくて、視線を逸らした。
引き倒したときの、思いがけない軽さが九郎を困惑させる。
咄嗟に掴んだ腕の柔らかい部分から、手が離せない。
「俺は、お前を……想っている…」
望美は最初、何かの冗談かと思った。
京邸でひととき過ごしたといっても、それは数日のことで、しかも九郎には全面的に避けられていたはずだ。
そして、敵同士だった。
実際上、望美にとって敵の大将とは源頼朝より九郎義経だったし、九郎にとっても清盛より自分や知盛たちだろう。
そう思っていたから。
(想っている……?)
赤い顔が、それを裏切る。
ここまでに見た嘘の吐けないだろう様子が、それを信じさせた。
「え、っと……そ、の……」
ここにきて初めて望美が口ごもった。
今までは何を聞いても問うても、打てば響くように答えが返ってきたのに。
そっと見ると、顔が真っ赤になっている。
それを見て、九郎はちょっと落ち着いた。
そして胸に忍び寄るのは愛おしさ。掻き消そうとしていた想いが、やわらかに形をなしていく。
「形だけでは済まない……俺は、済ませたくない。そういうことだ。――それでもお前は本当にいいのか……?」
望美はどう返していいか分からない。軍略なら練習してきた。冗談なら切り返せるのに。
「あ、あの、えっと、ですね……」
うろたえる自分が嫌だ。
こんなのじゃ九郎と変わらない気がする。
もっと、ちゃんと、毅然として―――
「好きだ……」
毅然とした横顔に見惚れた。
どこか遠い、哀しみを秘めた翠に恋をした。
そして今、赤い頬が愛おしい。
囁きながら降りてくる唇を、望美は両手で食い止めてしまった。
「……お前」
「う、ごめんなさいっ、でも…!」
心の準備が、と言いかけて、望美は困る。
充分にしたはずだった。こんなことなんでもない。平家の血も、―――源氏の血も、もう流れずに終わるのなら。
平和になるというのなら。
そう決めて、納得して、選んだのに。
(こ、こんな風に言われるなんて思わなかったよ……!)
想定外すぎる。望美は泣き出したくなっていた。
最初と違って、望美が混乱して、九郎が落ち着いている。それも何だか悔しい。
そう思うと生来の負けず嫌いが顔を出して、徐々に困惑が負けん気に変わってきたのを、望美の表情の変化に見て取って、九郎は思わず笑ってしまった。
「……何です」
いや、と言って、九郎は顔を背けてしまう。
顔を背ける意味が最初とまるで違っていて、望美はますますむくれた。
――その表情。
「っ、くく、…ははは!いい顔だ!」
「な、何がです!」
「いや、……負けず嫌いなのだな、と思って」
必死に笑いを抑えて九郎が言う。
望美はむくれつつ、ぷいっと、横を向いてやった。
「幻滅しましたか?」
「いや―――ますます惚れた」
「……っ」
また赤くなってしまった望美に、九郎は小さく笑う。……なんて愛おしい女。
彼女が素のままだろう姿でいられる未来がこんなにも嬉しい。
「なあ」
抱き締めたい衝動は今もある。
溺れるような憧れ、焦がれた日々もまだ胸にある。
そして同時に、安堵感。
……もう平家を敵としなくていい実感がようやく湧いた気がする。
「俺と結婚するんだな?」
「う、あの、はい」
「―――だったらいい」
身を強張らせつつ答えた望美の上から退いて、九郎はごろんと隣に横たわった。
「へ?」
「……俺は焦らない。…焦らないことにした。時間はありそうだからな」
「は、はあ……」
どうやら今夜、コトに及ぶ気はなさそうだ、と、理解して、望美は曖昧に頷いた。
微妙に台詞がリフレインして落ち着かない。
九郎は逆にとても寛いでいる様子だった。
「……平家のためで、今はいい」
「……今?」
「今だ」
これは今だけ、ということだろうか?
望美は率直過ぎる言葉に驚き、そして、小さく笑った。
「……はい、じゃあ、そのうち」
胸に生まれていく気持ちがある。
これを育ててもいいかな、と望美は思って、九郎の背中にコロン、と寄り添った。
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