「俺は……どっちの世界でも、かまわないぜ……」
 ―――あの日、知盛はそう言った。
 本当に何でもないように。
 そのとき、望美の迷いは晴れたのかもしれない。





           朧月 京編





 その日、後宮はいつになくさざめいていた。
 普段は幼帝を擁する後宮に人は少ない。
 平家の面々が一角に局を提供されているものの、一番に使っている知盛が過剰な手を嫌うため、やはりそこにも人は少ない。
 新しく位に就いたばかりの後鳥羽天皇の後宮は、今はまだ閑散としていた。
 だが、今日ばかりはそうではなかった。
 新尚侍の参内である。

「きゃあ、いらしたわ!」
「お美しい……!」

 牛車を降りた瞬間から有象無象の視線に曝され、新尚侍―――望美は最早帰りたくなっていた。
 知盛の邸へ。

(でも、……そんな簡単に帰るわけにはいかないよね!……うん!)

 心の中で望美は握り拳をした。
 反対を押し切って参内したからには、望美にも意地というものがある。
 ―――そう、晴れて背の君となった知盛は、最初からこの参内に反対していた。それも物凄く。

(何でだろう……?)

 今回の参内は、帝たっての希望によるもの。
 妃に準じた扱いをされる地位であるとはいえ、相手は慣れ親しんだ言仁とそう変わらない年頃の少年である。
 さすがに政治的思惑が絡むのならば、唯々諾々と参内する訳にはいかないが、今回は構わないだろう。
 また舞が見たい、というおねだりくらいなら望美も叶えるのに否やはない。
 また、小さい子のお願いを無碍にするのは、望美としては良心の呵責がある。
 そうちゃんと言ってみたのだが、知盛は拗ねまくりに拗ねた。
 それでも駄目だと言い張った。
 何か問題があるのかと思えば、それはないと言う。
 では、何故か?
 それがまったく分からないのである。
 そうこうする内に、その日は来た。

「こちらでございます」
「はい。……神子様」

 迎えに出た女房が深くお辞儀をし、望美の連れた女房の筆頭である少弐を先導する。
 位こそ低いが、源氏の棟梁の懐刀と誉れ高い梶原景時の後見、新中納言の平知盛を背の君に持ち、自身も白龍の神子としての雷名を持つ存在である。
 行列は華やかで、見物する者は他の比ではない。
 右手で扇を広げて顔を隠した望美は、そのまま奥に吸い込まれていった。
 温明殿に通された望美が、これらから解放され、ようやくと言わんばかりに大きく息を吐くと、少弐がクスクスと笑った。

「お疲れ様でございますわね」
「……疲れたよ……」

 視線を浴びるのも、衣の重さも。
 唐裳装束は、普段身軽な格好で動きたがる望美には重すぎるのである。
 綺麗な格好は嬉しいが、これで舞う訳でなし、道中の格好くらい気楽なものにさせて欲しい、と望美は思っていたが……いかんせん、平家の女房達は優秀だった。
 普段は、望美のやり方も尊重してくれる。
 だが、こういう公の場所に出るとなったときなどは、一切の手抜きを許してくれないのである。
 腹心の女房が、いつも慎ましく万事鷹揚である少弐でなければ、望美は逃げていたかもしれない。

「はー……。えっと、何すればいいんだっけ?」

 一息ついた望美はきょろきょろと辺りを見渡す。
 女官というからには何か仕事があるのかと思ったが、ここには少弐と自分以外誰もいない。
 それとも後で、誰かが来てくれるのだろうか。
 少弐がにっこりと微笑んだ。

「そうですわね、神子様は内侍司の長官であられますので……お仕事といたしましては内侍宣、ということになりましょうが……まあこちらでゆっくりなさるのがお仕事ですわね」
「へ?仕事ないの?」

 当然のことながら、望美は宮中における詳しい職などよく知らない。
 長官というのも実は初めて知ったが、仕事がない、というのに更に驚いた。
 ゆっくりしておけ?

(じゃ、じゃあ何でそんな役職があるの?)

 ちなみに内侍宣、というものは、尚侍が天皇の宣旨を太政官らに伝えるというものであるが、天皇の秘所役としての役目を持つ蔵人所ができて以来、それは廃れて久しい。
 元より長官職は、昨今では東宮妃らの箔付けのために行われるのが専らであって、実際には典侍らが仕事を統括している。
 これらの説明を受け、望美は首を捻った。
 確か自分は、舞を、と乞われたはずである。

「……じゃあ、もしかして舞は仕事じゃないの?」
「それは……」

 少弐が説明しかけたとき、几帳の向こうから声がかかった。

「尚侍様、主上がお渡りになられます」
「分かりました」

 向こうに向き直った少弐のいらえを皮切りに、望美を置き去りに、何人もの女房が現れて、てきぱきと場を調えていく。
 流れるような作業で部屋の様子が変えられて、望美が展開に目をパチパチしていると、向こうから人影が現れ、望美は更なる驚きに目を大きくした。

(――――と、知盛っ?)

 正確には、望美を訪れたのは知盛に抱きあげられた帝である。

「神子殿、ようこそ参られた!」

 いつもは逃げがちな近侍の中納言もつかまえて上機嫌な幼き主上は、元気よく手を振った。
 子供らしい明るさに望美もつられて、にっこりと微笑みを浮かべた。

「お久しぶりです、主上」

 堅苦しい挨拶より、この方がいいだろう。
 望美はそう思ったのだが、帝もそれが嬉しいらしく、子供らしくにこっと笑った。

「うむ、息災そうで何よりだ!」

 反対に、知盛は不機嫌である。
 知盛の腕から降りると、帝は望美に走り寄り、おもむろに抱きついてきた。

「なあ、何をして遊ぼう。舞も見せてくれるのだろう?あとは何ができるのだ?」
「遊び、ですか」

 どうしたものか悩む望美の傍に、少弐がこっそり耳打ちする。

「神子様、尚侍は主上に侍りますもの、どうかそのようにお考え下さいませ」

 ―――なるほど、望美にも分かってきた。
 特別の仕事がない尚侍。
 任官でありながら入内と九郎らが言ったのも頷ける。
 だが、目の前の少年にはその心配はあるまい。
 望美はにっこりと微笑んだ。

「まずは庭に出ませんか、主上。いくつか遊びを教えてあげます。知盛……殿も手伝って」
「うん!」
「み―――神子様っ?」

 帝は元気よく返事をし、周りの女房達は驚愕に思わず腰を浮かす。
 知盛は深いため息をついた。