―――普段、あまり外で遊ぶなどということをしない帝である。
 最初は難色を示していた女房なども、望美が次々と遊びを示していくと、だんだんと表情も解れ、最後には一緒になって遊ぶようになっていた。
 はしゃぎ過ぎたのか、帝は望美が舞いをみせる前に、疲れて眠ってしまった。
 今は、清涼殿で昼寝中だろう。
 昼下がりの温明殿には、少弐らが気を利かせたのもあって、望美と知盛が残されて二人きりである。

「……可愛かったねえ」
「そうか……?」

 まだ不機嫌な横顔を見つつ、望美は小さくクスリと笑った。

「意外に面倒見いいね、知盛。びっくりしちゃった」

 石投げや花相撲、庭を歩いて、絵を描いて。
 朝からびっしり子供の遊びに付き合わせたことになるが、意外に手慣れた様子であって、望美は正直とても助かった。
 裳と唐衣は脱がせてもらったものの、さすがに石投げなどはこんな格好で相手はできない。
 知盛は自分が不機嫌でもおかまいなしににこにこと微笑む望美に、諦めたようにため息をついた。
 望美の膝にごろりと転がる。

「大したことではないさ……」

 幼い子供の相手は安徳上皇で慣れている。それだけのことである。
 あとは、万一を考え、傍を離れられなかっただけ。
 今日の様子を見ると、あながち杞憂であるとも言えなかっただけに、よかったと言うべきか。

「……お前は随分御執心……だったな……?」
「ふふ、だって可愛いもの」

 望美は呑気に笑いながら、知盛の髪を梳いた。柔らかな髪に、わずかに冠の痕がついている。
 暫くの沈黙の後、望美がポツリ、と言った。

「……あんな子が欲しいなあって、ちょっと思った」
「――――ほう」
「すぐはいいけど…いつか、ね」

 知盛は深く息を吐いた。すぐにと言われなかっただけマシか?だが、冗談じゃない。

「俺はいらぬぜ……」
「えええ?どうして?」

 今日見ていて、割と子供好きなのかも、と思ったから言ってみた望美である。
 だが、知盛は心底嫌そうに顔を顰めた。

「いらんと言ったら、いらん……」
「何で?絶対可愛いよ?夢中になっちゃうよ?」

 ―――だからである、とは、口が裂けても言えないのが男の矜持である。
 望美はなおも強請るように知盛を揺らしてくる。
 知盛は起き上がり、実力行使に出た。
 うるさい唇を、塞ぐ。

「ンッ……ちょ、とも、ンン、も、駄目って……」

 いつもは素直に応える望美が、あえかながらも抵抗を繰り返し、知盛の口づけから逃れようとする。
 困ったような声はどこか甘く、口封じだけのつもりだった知盛を加速させ、嗜虐心を刺激する。

「何が駄目だ……」
「ここ、っ、職場っ……ぁ……ッ」

 ク、と知盛は低く哂った。
 目の前に菫色の欲望が光る。
 望美はそっと息を呑んだ。

「少弐が誰も通さぬさ……」

 望美は一瞬、瞠目した。
 少弐は通さない。

(そ、それって少弐さんは聞いてるってことじゃないの……っ!)

 慌てて身を捩り逃げようとするも、知盛の手際の方がよく、それは叶わない。

「ッ!そ、それは……っ、こらッ……はぁっ……!」

 花弁が綻んでいくように、幾重もの綾錦の中から、可憐な白磁がちらちらと見え始める。
 そうしている中に、昨日の名残りの赤い痕を見つけ、知盛はにやりと微笑んだ。

「お前の願いを、手伝ってやろうと言うんだ……嬉しいだろう……?」

 そんな気は毛頭ないくせに、知盛は掌を加速させていく。

「やンッ…はっ……そ、そんなつもりじゃ……あぁ…っ……!」

 完全に面白がっている口調である。
 艶事に淡く染まりだしていく身体の反応と裏腹に、望美は逃げたくてしょうがなかった。
 こんなの、面白がられているだけだ。

 ―――あの頃の、知盛と同じ。

「嫌っ……!」

 望美は渾身の力で知盛を跳ねのけた。
 だが、すぐに後悔が湧く。

(違う。知盛は、ちゃんと愛してくれている。知ってるのに、私……!)

 ふと衣擦れの音がした。
 知盛が出ていってしまう―――そう思った望美は、引き留めようと慌てて身を起こす。
 そのまま、包まれた。

(……え?)

 焚きしめた伽羅の香が薫る。

「……悪かった」

 めずらしい知盛の謝罪に、望美は身体の力が抜ける心地がした。
 ホッとして、泣きたくなる。

「知盛……怒ったんじゃないの……?」

 これには、僅かに知盛は黙った。
 ―――怒った訳じゃない。
 だが、それに近いものではある。それを、言いたくないだけ。
 自分らしくない。
 しかし、本心であるだけに、隠すこともまたできない。

「……君とわれ いかなることを ちぎりけむ 昔のよこそ 知らまほしけれ」

 沈黙の後、返されたのは和歌だった。
 望美は歌を頭の中で反芻する。
 和歌で二度も失敗しているだけに、ちょっと慎重になるが、それ以外の意味は思い当たらない。

「……嫉妬?もしかして、嫉妬したの……、知盛?」

 帝に―――あるいは、「知盛」に?
 知盛は望美を抱き締めたまま、そうだとも違うとも言わない。
 ただ、この場合は肯定の沈黙だろう。
 違うなら違うと、知盛ならば言う。
 それを望美は知っているから、やがて小さく、さざ波のように笑った。

「もう、馬鹿……」
「馬鹿、ね……」

 言いたいことは山のようにある。
 だが、望美の嬉しそうな顔を見ると、何も言えなくなってしまう辺り、自分は重症だと思う。
 こんなことは望美にだけ。
 自分がどんどん変えられていく。
 これが運命だと言うのなら、それもいいかもしれないと、半分諦めて知盛は思った。

「その馬鹿に惚れたお前がよくも言う……」

 ただし、負けてばかりはいられない。
 意趣返しに微笑むと、望美が案の定、顔を一気に赤くして、膨れた。

「ば、馬鹿だけど好きになってあげたの!感謝しなさい戦馬鹿っ!」

 何だか偉そうに胸を張っているが、仕草が妙に子供っぽいから決まらない。
 知盛は思わず破顔した。
 姫君修業によって美しくなった望美もいいが、そんなものは付録に過ぎない。
 月が姿を変えるのは当たり前のことに過ぎない。
 そして、知盛は望美のしとやかさに惹かれたのではないのだから。
 ――――春の夜の闇に出逢った女。
 最初に惹かれたのは瞳だった。
 何もかもを呑みこんだ凄艶な翠。
 今は優しい、傷を残した翠の双眸。
 誰にも渡したくないと、強く願う。

「……そろそろ笑い止め」
「ふふ…っ、そうだね……!」

 知盛の不機嫌に誘発されたように、また望美が忍び笑い始める。
 可憐で愛しい妻だが、こんなときは憎らしい。
 苛々し始めた知盛を宥めるように、望美の唇が眦に掠めた。

「……ッ……」

 掠めるような接触は、熱とも呼べず、触れ合いにも及ばない。
 それなのに、知盛は思わず息を詰めた。
 望美は気づかず、身を起こす。

「さて、そろそろ帰ろっか。……あれ?でも勝手に帰っていいのかな……知盛分かる?」

 眦に掠めただけの口づけ。
 それだけで自分はどうかなってしまいそうなのに、獣のように貪欲なのはお互い様なはずなのに、平然としている望美に、知盛は湧きあがる衝動を覚える。
 それは怒りか、欲情か。

(―――どちらでもいい、か)

 どちらにしろ、望美に受け止めてもらうだけだ。
 勝手にそう決めると、知盛は身を起こし、さっと立ちあがると望美を抱き上げた。

「わっ……」
「暴れるなよ……」

 急に抱きあげられてバランスを崩しかけるが、そんなことで望美を落とす知盛ではない。
 望美はそっと知盛に掴まるが、申し訳なさでいたたまれなくなる。
 何せ、今日の衣装は自分で歩くにも不自由するような重さなのだ。

「お、重いよ?」
「かまわん……」

 恐縮するような声にも知盛は構わない。
 一刻も早く出るために、これが一番早いことはよく分かっている。

「―――少弐!」

 会話は聞こえないくらいの距離にいるだろう少弐を、いつになく大きめの声で知盛が呼ぶ。
 すると、小声でも分かるように気を張り詰めていた少弐が、驚いたように現れた。
 ちなみに、知盛が声を張るところなど見たこともなかった望美も腕の中でびっくりしている。

「な、何事でございますか」

 まさか望美に何事かがあったのか。
 そう少弐は思ったのだが、望美の乱れた胸元を見て、―――察した。
 ……困ったものだ。

「ひゃあっ……」

 少弐の視線に気づいた望美が、慌てて縮こまる。
 望美は驚きのあまり、衿を直し損ねたのである。
 諸悪の根源である知盛は淡々と少弐に命じた。

「新尚侍は御気色が悪くなり、退出する。そのように届け出てくれ」
「はい、かしこまりました」

 少弐が苦笑気味に一礼する。
 それを背に知盛は大股に歩き始めた。

「ちょっ……知盛っ、待って!直したい……!」

 もう渡殿に出てしまう!
 望美は泣きそうな顔で懇願するが、それは鼻で笑われて終わりだった。

「フン……どうせすぐに崩す……」
「え?それはどういう……」

 ―――それがどういう意味かは、一緒に知盛が牛車に乗り込んだ時点で判明する。

「ちょっ……知盛、馬っ……!」
「後でいい」

 既に待ちきれない指が、そんな些事を気にするはずもない。
 出発する牛車は知盛のせいでいつになく揺れて、望美はばっちり酔ってしまう。
 それが果たして知盛になのか、車になのか―――
 夜が明けて朝になっても、望美にはよく分からないままだった。