Side ヒノエ






 ヒノエは淡く微笑んだ。

 和議が成ったら望美はどうするか?
 朔ちゃんも大きな爆弾落としてくれるぜ。

(決まってる。還さない。誰にも渡さない。全部オレのものにする)

 ヒノエはあざやかに衣を翻し、邸にいなかった望美を探しに出た。
 居場所の見当はついている。





 程なく、探し当てたとき、望美も気づいて元気に手を振ってきた。

「ヒノエく―ん!」
「やあ、姫君」

 手にはたくさんの荷物がある。
 いくつかひょいと引き受けると、望美が謝意をこめて笑った。

「ありがとう、ヒノエくん!」
「ふふっ、姫君の細腕にはあまる量だからね」
「そうでもないけど、嬉しいよ〜」

 本心から望美はそう思う。
 旅の間中、このヒノエが知らないいくつもの時空で、ヒノエは望美をさりげなく助けてくれた。
 いつでも、どこにいても。
 機転、あるいはその優しさで。

「今日の宴会かい?」
「あ、…ううん」

 望美は一転、少し寂しげに微笑した。

 確かに買い物は、そのため。
 その帰りに、将臣のところにも寄った。
 宴会に誘おうとして。
 結局何も言わなかったけど。
 平家の人たちは優しくて、預けていた色々と荷物は増えてしまっていた。
 その時点では、望美は延期を決めていたので、増えた重さは切なかったのだけれど。


 ……本当は、まだ不安。
 和議が成るか。

 そして、少し寂しい。
 将臣に、自分たち以上のものがあることが。

 でもそれは……我儘だ。

「へへ、宴会は……延期!」
「そうなの?」
「うん、今日は、みんな忙しいでしょ?」

 ヒノエも少し黙った。
 ……そうだ、忠度、あの叔父に念を押さなければいけない。
 できれば和議の前に。

「……そうかもね。それで延期?」
「うん、和議の後の方が、気兼ねないよね」

 頷く望美はちゃんと笑顔で、それでも少し切なげだった。
 若干伏せられた睫毛が、あざやかな影を落とす。
 ヒノエの鼓動が一瞬跳ねた。

 ……和議の、後。

 どうしてだろう。
 望美の前に出ると、いつもの自信が霧散する。
 還す気もないのに、それが揺らぐ。


「ねえ、和議の後、姫君はどうするの?」
「え……?」

 不安を押し隠すように声に甘さを含ませたヒノエの問いかけに、望美が固まった。
 ヒノエは黙ったまま指を鳴らす。
 どこからともなく現れた烏に、望美と自分の持つ荷物を預けてしまうと、烏は再び音もなく消えた。

「あ、ありがと…」
「どういたしまして。……ねえ」

 空いた手で、ヒノエは望美の顎を持ち上げる。
 切なさと情熱の浮いた紅蓮が、望美を釘づけにした。
 いつものヒノエと―――違う。

「還らずに、ここにいなよ。この時空、俺の、傍に」
「ひ、ヒノエくん……でも」
「―――好きなんだ、望美……」

 熱い囁きに、望美はくらくらした。
 いつもの美辞麗句とは違う。
 真剣な、熱い―――それでいてどこか寂しげに乞うような眼差し。
 望美はそれを振り払えない。

「だからさ、熊野においでよ。それでずっと、俺の傍にいて」
「ヒノエくん……」

 甘い囁きに落ちそうになる。
 そっとヒノエの顔が近づいて、望美はゆるゆると瞳を閉じかけた。
 キスを、受け入れそうになる。

「俺の姫君……」

 ヒノエの囁きが、直接耳に零れた。
 びくっと望美が跳ね、それでも逃げださないのに気を良くして、ヒノエは今度こそ唇を近付ける―――

「……っ、九郎?!」

 突風のような何かがヒノエの手から望美を奪う。
 正体は顔を真っ赤にした九郎だった。

 これ幸いと、望美が逃げてしまう。
 だが、望美が真っ赤な顔でちらりとこっちを見たことで、ヒノエは溜飲を下げることにする。

「戦線離脱するなら大変結構。だけど邪魔はいただけないぜ御曹司」

 冷たく言って、ヒノエも立ち去ることにした。
 九郎の息を呑む音は無視して。






 望美を追いかけないのは、自分の頭を冷やすためだった。
 九郎も誰もいないところまで来て、ヒノエは大きく溜息をついた。

(……堕とすつもりが、あれは懇願じゃないか)

 自分が恥ずかしくて、ヒノエはがしがしと頭をかき乱す。

「くそっ」

 いつも、そうだ。

 自分が惹かれたのは大輪の笑顔。
 柳のようなしなやかな強さ。

 なのに。

 あの、僅かな翳り。
 ひそやかに息づく望美の哀しみに、心が一気に奪われる。

 傷つけ、故郷を失わせることを躊躇わせる。
 ―――それでも手に入れたい。
 罪悪感も一緒になって、ヒノエはいつも余裕をなくす。

「……仕切り直しだな」

 呟いたヒノエは別の烏を呼んで、忠度と会う段取りをつけ始めた。





Side 弁慶