永禄五年の春である。
第四次川中島の戦いも終わり、越後の龍、上杉政虎―――
後の時代では「上杉謙信」として名高い彼は、「輝虎」と名を改めた。

真奈は彼の危機を救った御使い様として、この先の危機も見守ると言ってこの世界に残っていた。
でも、本当はもう一つ、理由があったのだ。





愛しすぎて壊しそう




真奈は、刀儀に教わった暦を前に、目を瞬かせた。
忙しかったから、気づかなかった。

「えっと、月が替わったんだよね。今は如月……二月かぁ……」

もう二月―――
ふむ、と、真奈は頷いた。

二月といえば、バレンタイン。
バレンタインといえば―――告白である。

真奈には想い人がいる。
御使いとしての使命とは別に、真奈にここで暮らす運命を受け入れさせた人。

―――秋夜。
政虎の忍びであり、御使いとしての真奈を護衛してくれていた軒猿である。


今や、真奈は御使いではない。
だから、彼らに守られる必要はない。
大事にされる理由はない。
なのに、彼は―――秋夜は、真奈を大事にしてくれる。
守ってくれる。


『俺は、御使い様が御使い様だから、守りたいわけではないっ』

『俺は、―――あなたが』


(あなたが……何?期待していいの……?秋夜……)

真奈はほうっと、乙女の可愛らしいため息を吐いた。











「あっ、あの、秋夜!」
「御使い様か。どうした」

如月も半ばを過ぎた頃。
真奈は、数日振りに秋夜の家を訪ねた。
誰もいない頃合いを見計らって。

薬師でもある秋夜の家は、いつも病人・怪我人で賑わっている。
時折は真奈もその手伝いをするから、あまり人の来ない時間、というのも知っている。

いつもの手伝いなら、逆に人のいる時間を見計らうのだが―――

「しゅ、秋夜っ、あの、お菓子作ってきたの!」
「何っ」

それまで、どちらかというと無表情だった秋夜の表情は一変した。

「甘いものか!」
「う、うん、特別に作ってきたの」
「特別―――」

じーん、とした表情を秋夜はしたけれど、これに真奈は騙されないよう心がけた。
正しくは心を律した。
これでぬか喜びした過去が心に痛い。

「特別に甘いものか!それはいいことだな……!」
「う、うん、でも、そういうことじゃないんだよ、秋夜」

心がけていてよかった―――
真奈は拍子抜けした顔の秋夜の前に、ぐいっとそれを差し出した。
息をひとつ、吸う。


「あのね、これは……好きな人にあげるものなんだ。そういう、特別!」


最悪―――
流されてしまうことも、真奈は覚悟していた。

そうか、俺も御使い様は好きだ、とか言って、無邪気に。

そうしたら、何度でも言い直す。
そう、真奈は決意していた。

(だ、だって宙ぶらりんだもん。気持ちも、このままじゃ……だからっ)

用意は、してきた。
心の準備も。
最高の方と最悪の方と―――両方。


でも……いくら準備していても、怖いものだ。
最悪な方も、最高の方だって。


だから、真奈はぎゅうっと目を瞑ってしまった。
秋夜の顔が見られなかった。
でも―――

だからこそ、小声でも拾えてしまった。

「と……特別……?」

動揺した、ちゃんと意味が分かっている、声音。

「しゅう―――」
「で、でもあ、あなたは御使い様で、俺は……!」


分かってくれている―――


真っ赤な秋夜の顔を見て、真奈の肚は一気に決まった。
元々真奈ははっきりとした性格で、白黒つけたい、我慢のきかない性格だ。

そして、身分というものに頓着しない性質。

それは育ちのせいでもあるが、真奈自身の気質でもある。
真奈はぐっと、秋夜を見つめた。
睨みつけるような勢いで。

「す、好きか嫌いかで答えて!御使い様じゃなく、秋夜には真奈として見て欲しいの!」
「うっ…」

困らせることは分かっていた。
秋夜は忍び。軒猿。

でもそんなことで止まる想いなら―――真奈はそもそも、この時代に残っていない。

沈黙は耐えられないほど長くは続かなかった。
秋夜は顔を真っ赤にしながら、呻いた。

「―――し、しかし…っ、わかっているのか、俺が応えるという、意味……!」
「えっ…?」

真奈が怪訝に思って顔を上げた、とき。

「……っ」

刹那、秋夜の唇が重なった。

驚いた真奈の視線と、秋夜の熱を帯びた視線が絡まった。

「秋、夜……」
「このようなことも、それ以上のことも―――してしまう……それも、分かってのことなのか」

真っ向から見つめられ―――
真奈の喉は、勝手にゴクリと溜まった唾を嚥下した。

自分が何を考えているのか、すぐには決められなかった。
ただ、……求める。
本能のようにして。

「……うん」

真奈の吐息を秋夜が吸った。
それが、すべての合図になった。








「あっ、あの秋夜っ、お菓子食べないのっ、そのっ……!」

秋夜の小屋は何度も来たことがある。
けれど、奥の部屋は初めてで、抱き上げられてそこに連れられ、床がのべられているのを見た瞬間、真奈の心臓は一気に高鳴った。


(だ、だって、こんな、突然っ……!?)


想定していなかったわけではない。
秋夜とこうなることを、真奈とて夢見てなかったわけではない。
だが、それでも、こんなすぐ。
……まさか今日とは。

「今は、あなたが欲しい」
「…っ」

秋夜の瞳が迷うように揺れる。

「……嫌か?」

大事な、大事な御使い様。
優しい少女。

想いはあるが、それで傷つけようとは思わない。
それでも、想いを伝えられた喜びで、若い心は焦ってしまう。

「……俺はまだ、こうやってあなたに想いを伝えるしかできない。それでもいいのか……?」
「う、うん……は、恥ずかしいけど……」

それは真奈も同じで……恥じらいよりも、想いは勝る。
そして、身分の差を考えない真奈だからこそ、秋夜の葛藤よりも、僅かに簡単に―――身体の力を抜いた。

「すき……だから」
「―――俺もだ…」

少し昏い色を瞳に宿して、再び秋夜の唇が降りてくる。
それを、真奈はよく見なかった。
見えなかった。
もう目を、固く瞑っていたから。

「んんっ、んっ…!」

想いに、真奈は浮かれていた。
御使い様と呼ばれないこと―――肌を辿る熱が、嬉しすぎて。

「秋……夜ぁっ………あっ!ンン、んっ……!!」


恥ずかしい、声が。
音が。
響く―――


少しずつ脱がされていくこと。
恋の実る実感に、真奈は怯えるよりも幸せの方が先だって、自ら進んで秋夜の熱に溺れた。

「ん、秋夜……!!」
「―――真奈……っ」

優しい秋夜が呼ぶ声の、いつにない強さと響きに、真奈の心は否応もなしに震えた。
喜びと―――これ以上ない幸せに。


だから、まだ気づかなかった。
自分の選択と……秋夜に求めた選択の結果に。


―――夢中で。


秋夜もまた、初めての「自分の「欲」と「想い」に翻弄されて、うまく加減ができずにいた。
大事な少女だ。
やわらかい身体。
今にも折れそうな細い腰が、何故か一層、秋夜を煽った。

(くっ……大事にしたい、のにっ……)

初めての身体―――
無茶はしたくない。
させたくない、のに―――


「……っ、しゅ、うやっ………!!」


息もできない衝撃に包まれて、真奈はついに意識を飛ばした。
くったりとした真奈を抱き締めて、秋夜は切ない息を吐いた。
―――無理をさせた自覚はあるから……その身体を慎重に横たわらせた。

軒猿の掟が、初めての恋が。
知ってしまった真奈のぬくもりが、秋夜の心を追い詰める。


「――――……」


秋夜は無言で立ち上がり、部屋を出た。
真奈が持ってきてくれたお菓子をひとつ、摘まみあげる。

「………甘い」

それは、どこか真奈の笑顔を思わせる。
秋夜は一つの決意を秘めて、また真奈の傍に戻った。




このときの秋夜の決意を、真奈が知るのはずっと後の話になる。