永禄五年の春である。
第四次川中島の戦いも終わり、越後の龍、上杉政虎―――
後の時代では「上杉謙信」として名高い彼は、「輝虎」と名を改めた。
真奈は彼の危機を救った御使い様として、この先の危機も見守ると言ってこの世界に残っていた。
でも、本当はもう一つ、理由があったのだ。
愛しすぎて壊しそう
真奈は、刀儀に教わった暦を前に、目を瞬かせた。
忙しかったから、気づかなかった。
「えっと、月が替わったんだよね。今は如月……二月かぁ……」
もう二月―――
ふむ、と、真奈は頷いた。
二月といえば、バレンタイン。
バレンタインといえば―――告白である。
真奈には想い人がいる。
御使いとしての使命とは別に、真奈にここで暮らす運命を受け入れさせた人。
―――秋夜。
政虎の忍びであり、御使いとしての真奈を護衛してくれていた軒猿である。
今や、真奈は御使いではない。
だから、彼らに守られる必要はない。
大事にされる理由はない。
なのに、彼は―――秋夜は、真奈を大事にしてくれる。
守ってくれる。
『俺は、御使い様が御使い様だから、守りたいわけではないっ』
『俺は、―――あなたが』
(あなたが……何?期待していいの……?秋夜……)
真奈はほうっと、乙女の可愛らしいため息を吐いた。
☆
「あっ、あの、秋夜!」
「御使い様か。どうした」
如月も半ばを過ぎた頃。
真奈は、数日振りに秋夜の家を訪ねた。
誰もいない頃合いを見計らって。
薬師でもある秋夜の家は、いつも病人・怪我人で賑わっている。
時折は真奈もその手伝いをするから、あまり人の来ない時間、というのも知っている。
いつもの手伝いなら、逆に人のいる時間を見計らうのだが―――
「しゅ、秋夜っ、あの、お菓子作ってきたの!」
「何っ」
それまで、どちらかというと無表情だった秋夜の表情は一変した。
「甘いものか!」
「う、うん、特別に作ってきたの」
「特別―――」
じーん、とした表情を秋夜はしたけれど、これに真奈は騙されないよう心がけた。
正しくは心を律した。
これでぬか喜びした過去が心に痛い。
「特別に甘いものか!それはいいことだな……!」
「う、うん、でも、そういうことじゃないんだよ、秋夜」
心がけていてよかった―――
真奈は拍子抜けした顔の秋夜の前に、ぐいっとそれを差し出した。
息をひとつ、吸う。
「あのね、これは……好きな人にあげるものなんだ。そういう、特別!」
最悪―――
流されてしまうことも、真奈は覚悟していた。
そうか、俺も御使い様は好きだ、とか言って、無邪気に。
そうしたら、何度でも言い直す。
そう、真奈は決意していた。
(だ、だって宙ぶらりんだもん。気持ちも、このままじゃ……だからっ)
用意は、してきた。
心の準備も。
最高の方と最悪の方と―――両方。
でも……いくら準備していても、怖いものだ。
最悪な方も、最高の方だって。
だから、真奈はぎゅうっと目を瞑ってしまった。
秋夜の顔が見られなかった。
でも―――
だからこそ、小声でも拾えてしまった。
「と……特別……?」
動揺した、ちゃんと意味が分かっている、声音。
「しゅう―――」
「で、でもあ、あなたは御使い様で、俺は……!」
分かってくれている―――
真っ赤な秋夜の顔を見て、真奈の肚は一気に決まった。
元々真奈ははっきりとした性格で、白黒つけたい、我慢のきかない性格だ。
そして、身分というものに頓着しない性質。
それは育ちのせいでもあるが、真奈自身の気質でもある。
真奈はぐっと、秋夜を見つめた。
睨みつけるような勢いで。
「す、好きか嫌いかで答えて!御使い様じゃなく、秋夜には真奈として見て欲しいの!」
「うっ…」
困らせることは分かっていた。
秋夜は忍び。軒猿。
でもそんなことで止まる想いなら―――真奈はそもそも、この時代に残っていない。
沈黙は耐えられないほど長くは続かなかった。
秋夜は顔を真っ赤にしながら、呻いた。
「―――し、しかし…っ、わかっているのか、俺が応えるという、意味……!」
「えっ…?」
真奈が怪訝に思って顔を上げた、とき。
「……っ」
刹那、秋夜の唇が重なった。
驚いた真奈の視線と、秋夜の熱を帯びた視線が絡まった。
「秋、夜……」
「このようなことも、それ以上のことも―――してしまう……それも、分かってのことなのか」
真っ向から見つめられ―――
真奈の喉は、勝手にゴクリと溜まった唾を嚥下した。
自分が何を考えているのか、すぐには決められなかった。
ただ、……求める。
本能のようにして。
「……うん」
真奈の吐息を秋夜が吸った。
それが、すべての合図になった。
「あっ、あの秋夜っ、お菓子食べないのっ、そのっ……!」
秋夜の小屋は何度も来たことがある。
けれど、奥の部屋は初めてで、抱き上げられてそこに連れられ、床がのべられているのを見た瞬間、真奈の心臓は一気に高鳴った。
(だ、だって、こんな、突然っ……!?)
想定していなかったわけではない。
秋夜とこうなることを、真奈とて夢見てなかったわけではない。
だが、それでも、こんなすぐ。
……まさか今日とは。
「今は、あなたが欲しい」
「…っ」
秋夜の瞳が迷うように揺れる。
「……嫌か?」
大事な、大事な御使い様。
優しい少女。
想いはあるが、それで傷つけようとは思わない。
それでも、想いを伝えられた喜びで、若い心は焦ってしまう。
「……俺はまだ、こうやってあなたに想いを伝えるしかできない。それでもいいのか……?」
「う、うん……は、恥ずかしいけど……」
それは真奈も同じで……恥じらいよりも、想いは勝る。
そして、身分の差を考えない真奈だからこそ、秋夜の葛藤よりも、僅かに簡単に―――身体の力を抜いた。
「すき……だから」
「―――俺もだ…」
少し昏い色を瞳に宿して、再び秋夜の唇が降りてくる。
それを、真奈はよく見なかった。
見えなかった。
もう目を、固く瞑っていたから。
「んんっ、んっ…!」
想いに、真奈は浮かれていた。
御使い様と呼ばれないこと―――肌を辿る熱が、嬉しすぎて。
「秋……夜ぁっ………あっ!ンン、んっ……!!」
恥ずかしい、声が。
音が。
響く―――
少しずつ脱がされていくこと。
恋の実る実感に、真奈は怯えるよりも幸せの方が先だって、自ら進んで秋夜の熱に溺れた。
「ん、秋夜……!!」
「―――真奈……っ」
優しい秋夜が呼ぶ声の、いつにない強さと響きに、真奈の心は否応もなしに震えた。
喜びと―――これ以上ない幸せに。
だから、まだ気づかなかった。
自分の選択と……秋夜に求めた選択の結果に。
―――夢中で。
秋夜もまた、初めての「自分の「欲」と「想い」に翻弄されて、うまく加減ができずにいた。
大事な少女だ。
やわらかい身体。
今にも折れそうな細い腰が、何故か一層、秋夜を煽った。
(くっ……大事にしたい、のにっ……)
初めての身体―――
無茶はしたくない。
させたくない、のに―――
「……っ、しゅ、うやっ………!!」
息もできない衝撃に包まれて、真奈はついに意識を飛ばした。
くったりとした真奈を抱き締めて、秋夜は切ない息を吐いた。
―――無理をさせた自覚はあるから……その身体を慎重に横たわらせた。
軒猿の掟が、初めての恋が。
知ってしまった真奈のぬくもりが、秋夜の心を追い詰める。
「――――……」
秋夜は無言で立ち上がり、部屋を出た。
真奈が持ってきてくれたお菓子をひとつ、摘まみあげる。
「………甘い」
それは、どこか真奈の笑顔を思わせる。
秋夜は一つの決意を秘めて、また真奈の傍に戻った。
このときの秋夜の決意を、真奈が知るのはずっと後の話になる。
