黒龍を倒し、平和になって一年が過ぎた。
優しい春。
熊野の夏。
共に過ごす秋と冬を越えて……
ふと思う。
(弁慶さんは私を……「望美」を好きでいてくれてるのかな?)
優しい頬絵笑みに、まだ慣れない。
背徳の蜜音
それは、雪の深い日の夜だった。
―――僕は正直、戸惑っていました。
君が……こんなことをするなんて……。
「くっ……ん、っ……」
抑えようにも抑えられない息の下。
見下ろしたところに、君の髪が見える。
桜色の優しい色。
そして……卑猥な音が。
(どうしてこんなことを?望美さん……)
休みましょう、と言うまでは、いつも通りのはずだった。
いや、少し違っていたかな?
君はどこか緊張した面持ちで……。
でも……いつも通り笑ってくれていたのに?
「望美…っ…さん、もう、いいですよ……無理、しないで……っ」
雪の降り積もる、閉ざされた室内に濡れた音が響く。
僕の吐息。
そして、君の口の――――
解放してあげたい。
彼女は苦しいだろうから。
こんなこと……望美に口淫させることなんて、弁慶は望んでもいなかった。
願ったこともなかったはず。
それなのに、奥手な君が―――どうして?
掻き上げられる情欲と焦燥が、弁慶の心を不安定にさせる。
いつもより遠い、君の、身体が。
「無理なんか…してません」
くぐもった吐息の中で望美が言った。
言葉を出すために動かした舌が、無意識の動きであるがために意図しない場所を擦り、弁慶は声を必死に堪えた。
「気持ちよく…ないれふか?」
「……そんなわけありません」
当たり前だった。
ただでさえ敏感な場所を、愛しい女に咥えられて興奮しない男がいるなら、その男の顔を見てみたいものだ。
気持ちいいに決まっている。
愛おしいに決まっている。
もっと愛してほしい。
そして、もっと愛したい―――いつも以上に望美を抱き締めたくて、弁慶の理性は決壊しそうになっていた。
(だけど、君は白龍の――――神子)
清らかな存在にこんなことをさせている。
罪の気配、背徳感が弁慶を押し留めていた。
口の動きは懸命で、つたない。
こんなこと、初めてなのだろう。
いや、初めてのはずだ。
望美の初めては―――全部自分が、迎えさせたのだから。
優しく守りたい。
今度こそ傷つけず、汚されないよう。
君が君でいられるよう―――
それなのに。
「でも、こんな……っ、いいですから……!」
気持ちいい。
だが、それ以上に―――怖かった。
(時空を越えて、ここに現れてくれた君)
(もうここは平和になったから―――それを見届けたから、君はここを立ち去る気なのではないですか?)
君は優しい人だから―――だから、こんなことをしてくれるのではないか?
嫌な予感だけが胸を満たす。
だが身体は、早くも限界まで追い上げられそうになっていた。
望美を本当に汚しそうになるところまで。
「も……望美さん……っ!」
「あっ……」
弁慶は渾身の力と総動員した理性で、望美を引き剥がした。
弁慶の欲望が迸る。
危なかった……。
深く息を吐く弁慶の前で、望美がぷくうっと頬を膨らませた。
「もうちょっとだったんじゃないですか!何では……放したりしたのっ!」
「何でって……」
恥ずかしそうにしながらも、望美は元気に怒った。
そこに、別れの気配はない。
弁慶は、こくり、と喉を鳴らした。
「僕も聞きたいです……どうしてこんなこと、してくれるんですか?」
それはあまりに単純な―――けれどすべての引き金になりかねない問い。
望美がカッと頬を火照らせた。
だが、なかなか言ってくれない。
……苦行のような時間が過ぎて……。
「今日はバレンタインだから…」
「え?」
「バレンタインだからですっ!」
ばれんたいん?
聞いたこともない言葉に弁慶は呆気にとられ――ー思いついた。
「それは、君の世界の風習か何かですか?」
「そ、そうです。好きな人にチョコを贈る日でして、だから、本当はチョコあげたかったんですけど、ないから、その…」
望美の顔は見る見る間に真っ赤になって、ゆでだこのようになった。
そして、申し訳なさそうに、見上げてくる。
「気持ちよくなかったですか……?」
「そんなことは―――君も……見たでしょう、僕が君に……」
「そ、そうですね…」
弁慶が頬を赤らめて顔を逸らすので、つられて、望美もまた顔を逸らした。
いつもは自分が恥じらう方だから、立場が逆転している。
(よし……それならっ)
思い立ったが吉日である。
望美は少し小さくなった弁慶をもう一度口に迎え入れた。
「んっ…」
苦み走った味に、望美は少し顔を顰める。
それでも……咥えただけで硬度を増した弁慶が、愛しかった。
愛を込めて望美は囁く。
「もう一度、してあげます。今度はその……最後まで」
「くっ……そ、んな……っ」
まさかそう来るとは思わなくて、弁慶の動きは少し遅れた。
望美に愛されているのだという実感が、弁慶の気を緩めたのかもしれない。
望美が慣れたせいもあるのか、二度目の口淫は、申し訳なくなるほどに気持ちよかった。
響く蜜音が、さっきまでとは違う意味で弁慶を追い立てていく。
「どうれふか、べんけいさん……」
「……卒倒しそうなほど、気持ちいいですよ」
舌足らずな望美が愛おしい。
弁慶はそっと、望美の頭を撫でた。
そして……少し苦笑を零す。
「でも、少し罪悪感があるかな……神聖な君に、こんなことをさせているなんて………うッ」
いきなりきつく喉で締め付けられ、弁慶は呻いた。
口を離した望美が、涙目で睨んでくる。
「神聖な、なんて言わないで。……私、ただの女の子です」
「………望美さん………」
弁慶は、ほんの少し目を見開いた。
再び再開される愛撫―――それは、望美のもどかしさを伝えるように、懸命で、性急だった。
ぽとん、と何かが音を立てて、弁慶の心に落ちた。
それは優しい一雫。
(ああ、君も……同じだったのかな。君も不安だったのかな)
愛しい人。
でも同時に望美は弁慶が傷つけた人で……区切りはつけたはずでも、つけきれていなかったのかもしれない。
いつ嫌われてもおかしくないと、怯えて。
勝手に距離を置いて。
それにこそ、望美は傷ついていたのかもしれない。
傷つくまではいかなくても、寂しがらせたのかも。
「……そうですね、君は可愛い僕の奥さんです」
ほっとしたように顔を上げて、微笑んでくれた愛しい人の唇を弁慶はそっと塞いだ。
そしてそのまま押し倒す。
「きゃ……っ、べ、弁慶さんっ、私、まだ……!」
「だめです。今度は僕がお返しする番ですよ。今日は好きな人に贈り物をする日なんですよね?」
「そ、そうですけど…あっ……!」
一度火が付けば止められなくなる―――
そんな自分を自覚しているから止めていたのに。
(あなたが可愛いからいけないんですよ)
勝手な理屈を心で囁き、弁慶は望美を辿り出す。
甘く夜は更け、望美の文句も次第に聞こえなくなっていった。
バレンタインの甘い夜。
京中に降り積もった雪は、しかし、五条の薬師の屋根にだけは積もっていなかったとか。
