つれづれなるままに………。
睦月。
新年を迎え、ますます頭領の奥方様への想いは深まっていく御様子です。
先ごろなどは、照る月も恥じらい雲隠れし、冬の寒さも夏へと染め変えるような蜜夜でございました…。
お二人の睦まじい様子に、私ども女房も一層若君の誕生が待ち遠しくなるものでございます。
しかし、どうも頭領はそれを望まれてはおられぬご様子。
この間なども、ついに……
別当夫婦日記
「なっ……こ、これ!!」
望美は絶句した。
蒼くなり――――赤くなった。
掌にはきちんととめられた冊子状のものが広げられている。
何気なく手に取ったものを開いてしまったのが、運のツキだった。
ちなみにに答えてくれる相手はいない。
望美が人払いして部屋を片付けているためである。
何故、人払いをするのか。
今日が、バレンタインデーだからである。
自分ひとりで今日の仕度を整えたかった望美は、エライ物を見つけてしまった。
無造作に風になびいているから、つい見てしまったのだ。
………見なければよかった。
「に、日記だよね、これ……な、何でこんなことまで知られてるの……?!」
望美はついつい他のページも見てしまう。
見て、尚更くらくらしてきた頭を抱えた。
……そこには、望美と夫・ヒノエの夜の……アレコレがガッツリ記載されている。
何度見ても間違いはない。
悲しいながら、身に覚えもあった。
だが、何故だ!!
知らぬが仏。
後悔先に立たず。
世の中知らない方が幸せってことも……。
さまざまなことわざや格言が、無駄に望美の脳内を駆け巡ったが、何ひとつとして望美を宥めてはくれなかった。
当たり前だ。
どうして、ヒノエが妊娠を避けていることまで知られているのか。
「………何なの、これ。聞いてないよう……」
望美はあえなく肩を落とす。
当然、掃除や仕掛けなど施せようはずもない。
そんな気力はどこにも残されていなかった。
「はうう……」
しょんぼりと肩を落とした望美の背中を、覗き見しにきた童女がじっと見つめる。
(望美さま……?)
何か察したものか、童女はいつものように望美に声をかけず、音も立てずに立ち去った。
☆
「おかえりなさいまし、頭領!!」
その日、熊野灘から機嫌よく帰還したヒノエは、いつも通り望美の姿がないことに首を傾げた。
「おう、帰ったぜ。……望美は?」
唐突に帰ったならいざ知らず、今日は望美が指定した日取りである。
一番に出迎えてくれそうなものなのに……?
きょろきょろと辺りを見渡す頭領に、一同は思わず息を詰めた。
軽妙にして豪胆。
日輪のように明るく、いつもは滅多に怒りもしないこの少年の恐ろしさというものを―――全員身に染みて知っているからだ。
普段は見かけよりもよほど気の長いヒノエの、望美が絡んだときの、恐ろしいほどの気の短さも。
「の、望美様は、あの」
……みんなもう、知っている。
望美が何故出てこないのか。
何故、奥に籠ってしまったのかを。
何度呼んでも出てきてくれなかった。
お菓子で釣っても駄目だった。
いらえすら、ない。
それでもかろうじて、烏が望美がちゃんと生きていることも、泣いてはいないことも伝えてはくれたけれど。
「――――うん、望美が?」
にっこり。
何かを察したのか、ヒノエの顔には寸分の狂いもない、明るい笑顔が浮かべられた。
一緒にいた熊野水軍たちには、それが死刑宣告に思えた。
女房たちもしかりだ。
ヒノエは女に甘いが、優しいわけではないことをこの場の誰もが知っている。
本当に優しいのは望美にだけだ。
………日記は、日記といいつつ、ほぼ物語だった。
身近な恋物語を、内輪で盛り上がるための。
邸中の者が、それを読んでいる。
楽しんでいる。
誓って、悪意はない。
龍神の神子様と我らが誇る若き頭領の恋物語を、みんなで楽しんでいただけなのだ。
それが。
まさか。
こんな。
「も、申し訳……!」
件の日記を書いた張本人が進み出て、平伏しようとしたときだった。
「あのねえ、望美さまね、衾をかぶって唸ってらしたの」
「唸る……?」
「うん、うーうーって」
童女の進言に、ヒノエは変な顔をした。
……それは、望美が何か照れたときにやる癖だ。
だが、一体何故?
(俺は何もしていない……となると……?)
首を再度傾げたヒノエに、童女は力強く頷いた。
「うんっ!望美さまにあれがばれちゃった!!」
「あれ?あれって………あー……」
「も、申し訳ございません!!」
ヒノエが遠い目をしたのを皮切りに、件の女房をはじめとした、邸中の女房が合唱で平伏した。
ヒノエは僅かに苦笑し、ぽり、と片頬を掻いた。
「のーぞみ」
こん、とヒノエが柱を叩いて塗籠を覗くと、童女の言う通り、衾がこんもりと山になっている。
音に気づいたか、びくりと大きくそれが揺れた。
ヒノエはこっそりと笑いをかみ殺す。
「迎えに出てもくれないばかりか、顔も出してくれないの、俺のお姫様?」
ゆっくりした足取りで近づいても、それは動いてくれない。
振り返っても。
それがいじらしくて……愛らしい。
「望美?」
「……ひ、ヒノエくん……」
覗き込めば、涙で潤んだ真っ赤な翠が見て取れる。
泣かせた様子は痛々しいが、理由を知っているだけに、妙に可愛らしくもある。
だいたい、女房たちの楽しみなんてそれぐらいだし、始終見られているのはヒノエには当たり前である。
「何ぐれてるの?ほら、お帰りなさいの口づけは?たまにはお前からしてよ」
愛おしさといじらしさで目眩がしそうだった。
こんなに可愛い存在は他にない。
愛しくてたまらない存在も。
「――――ほら、望美……」
「やっ……!!」
両頬を掌に包み、そっと顔を近づけたのに―――ヒノエを両腕を突っ立てて、望美は弾き飛ばした。
力の限り。
さすがに丸くなった紅の瞳と、自分の行動に驚いた翠の瞳が交錯する。
「姫―――――」
「ご、ごめんなさいっ……で、でもどうしても恥ずかしくて……!ごめんなさい!」
突き飛ばされた時は驚いたが、本意でないことはよく分かっている。
何故そんな態度を取っているかも。
……望美の思いも。
だから、ヒノエは再び、優しく望美に近づいていく。
「……うん」
「で、でも駄目なの。近づかないでほしいの、今日は!お願いっ……」
望美はじりじりと後ずさった。
ヒノエとは、……いちゃいちゃしたい。
愛したい。
愛されたい。
今日は尚更、そのつもりだった――――でも。
(だめ、まだ駄目、恥ずかしいっ……!!!)
あんなに無造作に置かれていたのだから、こちらでは当たり前のことかもしれないが、どうしても恥ずかしかった。
耐えられない。
人の気配は、望美も本当は知っていた。
でも、すぐ立ち去ってくれるものと……そう勝手に思っていたのだ。
まさか、ヒノエとのあれやこれやが全部、知られていただなんて……!!!
望美は恥ずかしくてたまらないのに、ヒノエは何も知らないのか、悠々と近づいてくる。
望美も二度は突き飛ばせない。
望美がきゅうっと我が身を抱き締めたとき、衾ごと、望美はヒノエに包まれた。
それだけなら、望美も驚かなかったかもしれない。
だが。
「ねえ、今日は愛を囁く日なんだろ?お前は囁いてくれないの?」
不意打ちの一言に、望美の心を占めていた羞恥心は、一気に霧散してしまった。
望美は思わず衾から顔を出し、ヒノエを見上げた。
「な、何で覚えてるの?」
――――バレンタインデーの習慣なんて、確か、一度言っただけである。
適当に、何かのついでに。
ヒノエもそのときは「へえ」なんて言って、相槌を打ってくれただけだった。
だから、覚えてるとは思わなかったのだ。
紅の瞳は、面白がるような光を宿し、望美一人を映している。
「お前のことなら何でも覚えてる。決して忘れないよ。……忘れられないからね」
「ヒノエく……ンっ……んんっ……」
優しい囁きの先は甘いキス。
望美の思考を奪い、心を奪ってしまうもの。
没頭してしまえば、恥ずかしさなんてなくなるだろう……何も知らなければ。
だが、知ってしまったら、そうはいかない。
「ン、あ、あの…ヒノエくん……」
――――だが、どう言ったらいいものか。
今日はバレンタイン。
いつも以上に、……したい。
でも、それを知られたくないなんて。
(こ、これが普通かもしれないんだよね?ヒノエくん、偉い人なんだし、慣れなきゃなのかもしれないのに……!)
どうしても葛藤してしまい、望美はうまく言葉を紡げないでいた。
……ヒノエが小さく笑って、キスしてくれるまでは。
「もう誰もいないよ」
「えっ…」
望美は目をパチパチする。
ヒノエは密やかに微笑んだ。
「俺がこっちに来るときは、完全に人払いさせた。誰も聞いてない。……見てないよ」
「ヒノエ、くん……」
望美はそっと息を呑んだ。
「でも……いいの?その、護衛なんでしょ……?」
「まあその意味もあるね。―――でも」
紅の瞳が間近に迫り、望美を誘惑する。
じっとは見ていられなくて、望美が瞳を伏せてしまうのを追いかけるように、今度はゆっくりと唇が重なっていく。
「んっ…」
「誰か来ても、俺がお前を守るから大丈夫……安心して、委ねちまいな……」
耳朶―――首筋。
そしてもっと下の方へ。
望美の吐息を奪いながら、ヒノエの唇は望美の肌を辿ってゆく。
「ン、わたし、だってっ……」
ヒノエの香りに包まれる―――
ただでさえ寂しかった心が刺激されて、つけ込まれて、解かれてしまう。
「私だって、守るよ、ヒノエくん、……のことっ……」
「へえ……」
戦神子様の可愛い睦言に、ヒノエはこっそり破顔しかけてしまった。
守られるだけでなく、守ろうとしてくれる。
自分のことも―――きっと、この熊野さえ。
(そんな女は、お前以外、きっといないね)
(――――いや)
いても、いなくてもいい。
どちらでもかまわない。
結局自分が求めるのは、望美一人なのだから。
ヒノエは落とすように微笑み、自分の上衣を一気に脱ぎ捨てた。
衣を脱ぐのと同時に、もっと自分が自由になった心地がする。
「――――だったら、尚更誰もいらないね。お前の声を聞くのは、やっぱり俺だけがいいよ……」
「ン、ヒノエく…っ、アッ……」
―――自分がしようと思っていたのに。
もっと、……バレンタインを口実に、ヒノエを感じさせてあげたかったのに。
(いつもより、感じちゃう……っ、どうし、てっ……!)
誰もいない、ということが、望美を自由にさせていた。
いつも何となく感じていたものがない。
そして、それ以上に――――ヒノエの愛撫に容赦がなかった。
全部暴かれる。
詳らかにされてしまう。
ヒノエを大好きな気持ちごと。
「ヒノエ、くんっ……私にも、させて……っ」
「へえ……いいよ」
このとき。
望美は、ただ夢中で言った。
何を、とか、どんな風にとか、そんなことは思いつきもしていなかった。
だが、ヒノエは身を起こし、にっこりと微笑んだ。
望美の蜜にまみれた口元を拭う仕草さえ、艶めかしい。
あまりの妖艶さに、望美は喉を鳴らした。
いけないことを口走ってしまったような気がする―――――……
もちろんこれを逃すようなヒノエではない。
「そのかわり、逃げるなよ、奥方様?」
「う……ん?」
曲がりなりにも頷いてしまったのが運のツキ―――
夜が明ける間際まで、望美は散々恥ずかしい目に遭うのだが、逃げることは許されていなかった。
「ふふ、少し疲れさせちゃったかな…。これからが大変だよ、奥方様?俺の歯止めを外したのはお前なんだからね……」
いつも、誰かが傍にいた。
周りに気を配るのは当たり前で、何かを押し殺すのはヒノエの常だった。
今までは日常過ぎて、気にもしていなかったけれど。
「とりあえず次は、ひと月後かな?ホワイトデー、っていうんだっけ……?」
現代の風習で、愛を確かめる機会。
まあ、そんなものなくても、これからは毎日可愛がり放題のつもりなのだが。
艶冶にご機嫌に微笑むヒノエに、深い眠りに堕ちた望美は気づかない。
目が覚めるような気配はなく、望美が頷くことはもちろんなかった。
だが、まったくそれを気にせずに、ヒノエは思うさま愛した妻の身体を抱き締めた。
聞こえていてもいなくてもかまわない。
――――これから、覚悟してなよ?
翌朝である。
いつも以上にイイ顔で現れた頭領は、心配そうに集まってきた女房たちに、にっこりと笑いかけた。
「奥方の御機嫌は直ったぜ――――と、いうわけで、それは禁止な」
「うっ…」
それ、とは、件の日記のことである。
何が「というわけで」なのか説明は一切なかったが、ヒノエはそれ以上何も言う気はなさそうだった。
それですまないのは、女房たちである。
禁止令は覚悟していたものの、本当にそうなるとちょっと惜しい。
何せ、ここ一番の娯楽だったのだから。
――――しかも。
「そんな……頭領が一番の愛読者だったじゃないですかぁ……」
……だったりするから、何だかずるい。
全部知っていたくせに。
恨みがましい視線がヒノエに集中する。
だが、ヒノエはやっぱりちっとも堪えなかった。
ゆったりとした仕草で、ヒノエは肩を竦める。
「ま、そうだけどね」
何故なら――――
予想以上に、無防備な望美がそそったからである。
そして、本当に二人きりの時間が。
「ここからは俺だけの愉しみ。そう決めたんだ。それは禁止!」
「……御意……」
頭領の命令に、本気で逆らえる者は熊野には存在しない。
女房たちは一様に肩を落とした。
ここからが面白そうだったのに。
ちなみにこの禁止令を知らない望美は暫く戦々恐々の日々を送るのだが、ひと月後にはそれどころではなくなっていたという。
