それは、いつもと同じ。
砂時計の砂が尽き、ゆきの時空に連れ戻されたときのことだった。

「……ん?」

ふと、あるものに目が惹かれた。
かれんだーという、日付表のようなものに、赤い印が刻まれている。
普段なら素通りしただろう。
それが目に留まったのは、おそらくゆきの字だからに違いない。

「ばれんたいん???」

赤く記されたその意味が分からなくて、首を傾げていると、都が通りかかった。
そして、桜智はバレンタインを初めて知ることになる―――





世界の色が変わった日




白衣の宰相との決戦も間近に迫りながら、桜智の心を占めるのはそのことではなかった。
バレンタインである。
ひょんなことから知った、ゆきたちの世界に伝わる愛の習慣。


『ああ、その日は好きな相手にチョコを贈るんだ。と言っても、義理と本命ってのがあって……』


何か思い出してご機嫌がよかったのか、あの日の都はいつになく饒舌で、桜智はたくさんの情報を仕入れることができた。

バレンタインはチョコを贈る風習。
世話になった人には義理チョコ。
好きな人に贈るのは本命チョコを贈る。
要は、贈るチョコにも階級が存在するのだということ。

当然、本命は―――豪華でなくてはならない。

チョコが調達できれば一番だったのだが、あいにくそれは難しそうなので、一層頑張らなければならないところだ。
何せ、喜ぶ顔が見たいので。


(何がいい?甘いもの……御菓子)
(ありきたりのものでは……しかし、美味しいお菓子などどこにあったろうか)
(単に豪奢なものを彼女が喜ぶとも思えないし……)


桜智の頭は高速で回転する。
ゆきのこと、となれば、その頭は砂糖菓子のようにでれっと溶解してしまうのだが、そこさえ除けば桜智の頭脳は明晰だ。
今日もゆきのためではあるのだが、お菓子に絞られているだけ、何とかなっていた。


「うーん……うーん」

お菓子。
一口に言っても難しいものだ。
まず、どんなものだったかがまったく思い出せない。

銘菓だ何だと、渡されることは多いのだが……。

(ゆきちゃんのことなら逐一覚えてるのに……)

今まではそれでもよかったが、こうして必要になるなら、もっとちゃんと覚えた方がいいのかもしれない。
他の誰でもない、ゆきのために―――

(ゆきちゃん。可愛くて、やわらかくて、優しくて)

もちろん、それだけじゃない。
何ものにも流されそうでいて、決して曲がらぬ強い意志。
白く眩しいくらいの清冽さは、桜智の心の奥までも照らしてしまう。

優しい光。
本当なら、彼女の世界を崩壊に追い遣った自分が顔を合わせることはできないのだけど……。


「……さんっ、桜智さん!」
「ゆ、ゆゆゆゆきちゃん!?」

どうもいろいろ考えているうちに、拠点としている宿に戻ってきてしまったものらしい。
突如として目の前に現れた愛しい少女に仰天して、桜智は思わず後ろダッシュで後ずさってしまった。

「痛っ……!」

当然―――後頭部をしたたかに柱にぶつけてしまった。
痛みに呻いて桜智はうずくまる。

「だ、大丈夫ですかっ!」
「だ……大丈夫……はは、急に、その、君がいたからびっくりして……」

桜智の定位置は、ゆきの背後である。
よって、真正面からゆきを見つめることなど、桜智には無きに等しい。
真正面からその光を受け止めることなど……考えただけで身が焼かれそうだと桜智は思う。
ただし、それは喜ばしい甘美な痛みだったが。

そうして桜智が妄想の焔に身を焼かれていると、ゆきはしょんぼりと俯いてしまった。

「ごめんなさい。私が急に声をかけたから…」

ゆきは、基本的に謙虚な少女である。
声をかけたのが急であっても、この事態は明らかに桜智の自業自得なのだが、そうは考えない様子でため息をついた。

「ごめんなさい…」
「ゆ、ゆきちゃんは悪くないよ!謝らないで!」

驚いたのは桜智である。
どう考えても自分が悪いのに、ゆきは自身を責めて落ち込んでしまった。
桜智は慌てて立ち上がる。

「でも…」
「だ、大丈夫だから!ね?謝らないで……!」
「そう……ですか?じゃあ……」

とにかくゆきの悲しそうな顔が見たくなくて、桜智は懸命だ。
こんな時に限って何も持っていない。
いくつも菓子屋をめぐったはずなのに!


(最上、最良の一品を買おうと吟味しすぎたっ……!!)


……もう最悪である。
何もできなくて、桜智はそのままサラサラと砂になって消えてしまいたくなってきた。

役に立ちたい。
キミの傍にいたい。
キミを安らがせ、微笑ませてあげられる存在でいたいのに。

(台無しだ……)

よりによって、こんな日に失態をしでかしてしまうとは……。
落ち込んだ桜智だったが、目の前に差し出された包みを見て、目を瞬かせた。

「これ、受け取っていただけますか?」
「………私に?」
「はい、よければですけど……」

ゆきは気づけば笑顔に戻っており、にこやかに自分に何かの包みを差し出している。
こ、これはまさか……っ。

「こ、これは、もしかしてばれんたいん?」
「あ、はい!ご存知だったんですね。あいにくチョコレートではないんですけど……」

ゆきはふんわりと微笑んだ。
何故桜智が「ばれんたいん」を知っているのか、なんて、考えもしないで。

桜智は今までの蒼白な表情もどこへやら、一気に血色のよくなった満面の微笑みで包みをぎゅうっと抱き締めた。

「ありがとうっ!あっ、わ、私にはキミにまだ渡せるものがない!」
「ふふ、気にしなくていいですよ」
「そ、そうはいかないよ!待っていてね、ゆきちゃん……!」
「はい、楽しみにしています」

こうなったら対となっている「ほわいとでー」に賭けるしかない!
一月あれば何とかなるかもしれない。
桜智はあわせて聞いておいた「ホワイトデー」の習慣と都に至極感謝した。

何だかよくわからないが、桜智が元気になったので、単純にゆきはにっこりした。
何を待つのかもよくわからないが、桜智は元気に飛び出していった。
すっかり頭の中がゆきで染まってしまったので。
(元からかもしれないが)

去っていってしまった桜智の背を見送って、ゆきは小さく息を吐く。
胸のあたりに秘めた、砂時計を思った。

(渡せてよかった……)

命のあるうちに、とゆきは心の中でそっと呟く。
風が冷たく吹く。
灯り始めた想いを胸に、ゆきは、宿の中に入っていった。