遙かなる時空の向こうの世界。
世界を救った戦いも、今は記憶の中にしかない。
故郷を離れたチナミは、愛する少女を傍らに、新しい人生を歩き始めていた。
きっとそれは恋の音
「これ、もらってくださいっ」
「……おお」
チナミは高校に到着した時点で、既にたくさんの荷物を持っていた。
今日は何だか朝からよく物を貰う。
しかも女子から、かなり赤い顔で。
(いったいなんだ?どうしたんだ?)
よくよく周囲を見れば、友人たちもソワソワしていて、チナミはこっそり首を傾げた。
何が起こっているのだ???
分からないことは聞くしかない。
ただでさえ、この世界は生まれ育った時空と何もかもが違うのだ。
(見知らぬ言語もたくさんあるしな……)
だが、もともと学ぶことは苦痛ではないチナミである。
くわえて、知らないことを知ることは、この世界で暮らして行くためには必須の事項。
落ち着かない友人の一人を捕まえて、チナミは率直に尋ねることにした。
「なあ、ちょっといいか」
☆
「ただいま帰りました」
チナミとゆきは学年が違う。
よって帰宅時間も異なるのだが、普段は最大限待ち合わせ、共に登下校しているのだが……。
今日は、事情が異なる。
なので、ゆきは先に帰宅し、自室にも帰らずにチナミの帰宅を心待ちにしていたのだった。
それだけに……。
「チナミくん、おかえりなさ……あっ…」
チナミの持つ、たくさんの荷物が気になってしまった。
その中身は……きっと、チョコレートだ。
「ゆき?」
「あ、ううん…何でもないの、おかえりなさい」
「ああ……」
なんとか、ゆきは、何でもない風に微笑んだ。
そして、用意していたケーキを切り分けるため、キッチンに逃げ込む。
だって、……何が言えるだろう?
(チナミくんは、自分の世界を捨てて、こっちの世界に来てくれた)
好きだと言ってくれた。
大事だと。
それは嬉しいし、信じてるから、何も不安に思う必要はないはずなのだ。
たとえたくさんのチョコをチナミが貰って……受け取ったって。
それに、これはチナミがこの世界の人たちに受け入れられている証左でもある。
(どうして?チナミくんが人気者なら、嬉しいはずなのに……)
時空を隔てた恋の相手。
愛されている。
それは確かに信じられて、そしてチナミが人に愛されるのは喜ばしいことなはずだ。
なのに、どうして心が痛む?
(私……我侭)
どうして、と思いながら、ゆきは自分の心に気づいていた。
初めての、想い。
我侭。
自分だけのチナミでいて欲しいのだ。
チョコも……きっと自分のだけ受け取って欲しかった。
だから、日が近くなってもバレンタインのことも教えずに。
――――チナミが誰かからチョコをもらうことくらい、気づいていたくせに。
「ゆーき」
ゆきの心が自己嫌悪で潰れそうになったとき、背中が不意に暖かくなった。
「何を考え込んでるんだ?」
「あ、ご、ごめんなさい」
キッチンに駆け込んだ自分を、チナミは心配してくれたのかもしれない。
チナミにとって、今のゆきは絶対に挙動不審だったことだろう。
(大丈夫だよって、言わなくちゃ)
(このケーキを食べてもらって、それで、今日はバレンタインって言うの、って教えて……)
せめて、笑顔を見せなければ。
チナミは何も悪くない。
――――これは、勝手に自分が、チナミを束縛したがっただけなのだから……!
(だめ、チナミくんの顔が見られない―――)
笑おうと思うほど顔が強張って、涙まで出てきそうになる。
こんなこと、今までになかった。
(苦しい。胸が締めつけられそう―――)
「……お前からはもらえないのか、チョコ」
「えっ……」
不意の言葉に驚いて、ゆきは思わずチナミを振り返ってしまった。
真摯な瞳が、自分のことを見つめている。
優しくて強い、紅の瞳。
「バレンタイン……知ってるの?」
「人に聞いた。友情や、……愛情で、チョコレートを贈る風習だろう」
どこかぶっきらぼうにチナミが言う。
ゆきは、……つい、意地になってしまった。
「知ってて受け取ったの?あんなにいっぱいのチョコ……」
ゆきに見えたのは袋から出ているものだけだが…
随分可愛らしいラッピングのものばかりだった。
……なんとなく、本命っぽい気もする
チナミがバレンタインの意味を知っていてそれを受け取ったということが……ゆきの心に影を落とす。
チナミは小さく息を吐いた。
……バレンタインの意味を知ってからはチナミも断ったのだが、懸命に頭を下げてくる姿に、つい自分を重ねてしまったとは口に出せない。
「人の厚意は無碍にできないだろう。……でも、俺はお前からのチョコが欲しかった」
「えっ…」
『知らないのか、お前――――』
『いいか、バレンタインっていうのはな……』
『これ……受け取ってください!!』
『受け取ってくれるだけで、いいんです……』
『チナミ、彼女からチョコ貰わないのか。ほら、あの可愛い先輩の―――』
チナミの脳裏に、今日一日でたくさん話した友達の顔が思い浮かぶ。
本命、という定義を聞いてから、チナミはついソワソワしたものだ。
だが、ゆきは先に帰ってしまっていて、メールだけが寄越されてきた。
あれに自分がどれほど落胆したことか。
「くれないのか、それ……オレのじゃないのか?」
キッチンに引っ込んでしまったゆきが用意してくれていたケーキ。
美味しそうで、いつもより凝っていて……。
(これがそうなら、いいのに)
(全部欲しい。……お前を丸ごと、全部)
贅沢だと分かっている。
まだ自分には、分不相応な想い。
だけど、想いを伝えてもいい日なら、少しくらい、いいだろう?
「……チナミくんのだよ」
「これ……本命、だよな?」
「う、うん……」
熱っぽく尋ねられて、ゆきの心には、さっきとはまた別の嵐が吹き荒れていた。
『……でも、俺はお前からのチョコが欲しかった』
優しい声。
でも、優しいだけではない声。
いつものチナミなら、こんなに大きなケーキだったら、皆で食べようとするのに。
(欲しがってくれるの?こんな……私の気持ち、でも)
ゆきは、ちらり、とチナミを見上げる。
少し背が高くなって、精悍になって、でも相変わらず優しいチナミ。
そのチナミの、小さな独占欲が……嬉しい。
ゆきは、自分でも現金だと思いながらも、ついつい顔が緩んでくるのを抑えられなかった。
誰かの言葉や自分に向けられた態度を、こんな風に嬉しいと感じるようになるなんて。
「……はい、あーん」
ゆきは、そっと一欠けらをチナミの口に運ぶ。
チナミは照れて怒るかと思ったが、顔を赤くしながらも口を開いてくれた。
ぱくり、と小さな音がする。
チナミは真っ赤な顔で、それを何度か噛んで、ごくんと喉を鳴らした。
……真っ赤な仏頂面。
ゆきはますます嬉しくなった。
だって、チナミのこんな顔、知っているのはきっと自分ひとりだ。
「美味しい?チナミくん」
「……照れすぎて味が分からん」
「ふふっ」
すっかり幸せになってしまって、ゆきは微笑む。
そして大好きな恋人に抱きついた。
まだ幼い恋の花。
実りのときは、すぐそこに。
