※オフ本既刊「まほろば」の二人になっています。
焔の中で出会った千尋をナーサティヤが連れ帰って育てたお話です。
千尋の元にそれが届けられたのは、冬の寒さも厳しい頃だった。
「千尋っ」
「風早っ!」
千尋は迷いもせずに、その腕の中に飛び込んだ。
幼い頃から千尋を守り続けてくれた優しい人。
千尋が女王になり、風早が正式にその臣下になろうとも、そのことに些かの変わりもない。
それでも……やはり女王となれば多忙である。
こうして直に会えたのは、久しぶりだった。
「今日はどうしたの、風早?サティに用事?」
笑顔のまま千尋が問う。
宮仕えの身である風早が千尋の元にやって来るのは、仕事絡みの話が多い。
たとえば千尋の夫であるナーサティヤに対しての外交の話とか。
だが、風早は困ったように笑った。
「嫌だな、千尋。俺はいつだって千尋に会いに来てるのに」
「そうなの?」
「はい、国の仕事なんて、全部そのついでですよ」
馴染みの深い将軍が聞いていたら、本気で切れそうなことをしゃあしゃあと言う。
千尋もまた、どう反応していいか困ってしまって、苦笑した。
そんな千尋の目の前に、大きな包みが突き出された。
「風早……、これは?」
「これはバレンタインのお菓子ですよ。今日はこれを届けに来たんです」
ばれんたいん???
耳慣れない単語に千尋は目を丸くする。
風早は嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
あなたと一緒に
「サティー!」
常ならば、公務が終わってもなかなか自分の室に戻らない妻の声に、ナーサティヤは顔を上げた。
「千尋?」
「あ、よかった、いた!」
幻聴かと思ったが、そうではなかった。
小さなときから手元で育てたいとし子にして、現在は妻である少女は、何故だかとてもご機嫌な顔をしている。
……こうして、千尋のご機嫌な顔を見ていると、自然と自分も笑顔になってしまうから困ったものだ。
氷の将軍、などと云われたことはもはや昔の話になりつつある。
それ以前に戦がないので、当たり前の話かもしれないが。
今、ナーサティヤを包むのは平和な、優しい時間。
そして愛しい姫の存在である。
「どうした、千尋」
縋りついてくる雛鳥のような身体を、ナーサティヤは慎重に抱き締めた。
焔の中で見つけた命。
「もう帰りたいのか」
慈しむように抱き締めながら、ナーサティヤは囁いた。
……実は、千尋は中つ国には住んではいない。
求められて、中つ国の女王であり続ける千尋だが、千尋にとって家とはもはや常世にあるのだ。
幼き日に暮らしたアシュヴィンの城が、それに当たる。
今や、アシュヴィンは新たな皇として根の宮にいるため、その城に住まうのはナーサティヤと千尋である。
そして、エイカ。
平和な、優しい時間。
緑萌える恵の豊かな国。
こんな日が自分にも訪れるとは、ナーサティヤは思ってもみなかった。
くすぐったそうに身じろいだ千尋は、ナーサティヤの囁きに笑って首を振った。
「違うよ。まだお仕事は終わってないもの」
「そうなのか?」
「うん、これを作ってたから……」
微笑んで差し出されたそれに、ナーサティヤは目を丸くした。
風早にそれを渡されたときに千尋が目を丸くしたように。
「……これは?」
千尋が差し出したのは山積みの焼き菓子である。
サザキと共に中つ国に留まっている日向の民・カリガネに教えてもらったもの。
千尋はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「今日はばれんたいんと言うのですって。他の国の習慣で、好きな人にお菓子を贈る日だって風早が教えてくれたの!」
「……風早が?」
ナーサティヤは若干怪訝にした。
そんな習慣、多くの国に赴いたナーサティヤも聞いたことがない。
当然、風早の言うそれは何度も繰り返した現代の時空での知識なのだが、そんなことは千尋もナーサティヤも知る由もない。
……別段、いいはずだ。
あの男は千尋の幼い頃を守ってくれた男であって、千尋も慕っている。
それでも千尋に愛されているのは自分であって、そこに疑念はない。
だから気にしなくていい。
いいはずなのだが……。
(何故か腹が立つな………)
自分の中の感情を持て余す。
これもまた千尋に会うまではなかったことだ。
ナーサティヤの微妙な表情に気づかないまま、千尋が嬉しそうに頷く。
「そう。それで、たくさんならたくさんなほど好きってことなんだって!私もいっぱい風早にもらったの」
「………ほう」
ナーサティヤはちらり、と菓子の山を見遣った。
一生懸命やったのだろう。
それは嬉しいし、これは受け取るべきなのだろう。
………千尋の背後に見える、もっとたくさんのお菓子を見なかったら。
それでも、ナーサティヤが千尋の想いを受け取らないなんてことはないのだ。
複雑な心を抱えながらも、ナーサティヤは仄かな微笑みを浮かべて菓子に手を伸ばす。
「………。いただこう」
「じゃあ、お茶淹れるね!」
女官にさせればいいものを、自ら飛び出していく千尋を見送って、ナーサティヤはそっと苦笑した。
齧った菓子は、どこかほろ苦かった。
だが………。
「おう、サティ、お帰り!ご苦労だな!」
「……何故ここにいる、アシュ」
帰還したナーサティヤは、皇として忙しいはずのアシュヴィン、果てはトオヤまで根の宮に来ていることに驚いた。
しかもやけに上機嫌である。
中つ国とこの根の宮を往復するのは、ナーサティヤにはいつものこと。
特段出迎えられるようなことではない。
ちなみに、彼らの目当てだろう千尋は既に床に就いている。
だが、あっけらかんとアシュヴィンは小さな袋を掲げた。
「なに、千尋がどうしても今日中に渡したいものがあるというのでな♪」
「……それか?」
「ああ、ばれんたいんというらしい。好きの証らしいぞ。お前も貰ったか?」
アシュヴィンは嬉しそうにその袋に口づける。
相当嬉しいらしい。
よく見れば、エイカもトオヤもその袋を持っていて、全部同じお菓子である。
ナーサティヤは目を瞬いた。
そして、はっきりとした微笑みを浮かべそうになって―――何とかそれを堪えた。
アシュヴィンが訝しげに首を傾げた。
「何だ?もらってないのか?」
「……いや、もらった」
「じゃあどうして持ってないんだ?」
「……さてな」
当然、食べきれなくて、中つ国の宮に置いてきたのである。
(明日、聞いてみようか。結局何個焼いたのだ、と)
答えてくれるだろう。
それとも照れて、逃げてしまうだろうか。
どちらにしろ、明日のお菓子はかなり甘くなっていることだろう。
ナーサティヤはそう思って、アシュヴィンを振り切り、寝室に足を進めた。
