最初は政略婚だった。
少なくともお前の方は、完全にそう思っていただろうな。
確かに戦略、政略のゆえであることは否めない。
それ以外で、俺達が婚姻するなどありえなかったのだから。

とはいえ―――

俺の方は、そういうわけでもなかったんだがな。





可愛い君




「……これでよしっ……よね?」

すべての袋に御菓子を詰め終えた千尋は、満足げにそれらを眺めた。
可愛らしい袋には千尋が手作りした御菓子が入っている。
現代で作っていた御菓子と、常世で習ったお菓子の詰め合わせだ。
そして……

ちら、と、千尋はそれを見て、ほんの少し頬を赤らめた。
あの人は喜んでくれるだろうか。








今日は、妙に宮全体が浮足立っている気がする。
それが不快なわけではないが気になって、アシュヴィンは眉を顰めた。

「今日は何か宴でもあったか、リブ」
「は、何がですか、でん…陛下」

そんな予定はなかったはずだ、と思って、アシュヴィンはリブに問いかけた。
常世を制したアシュヴィンは、今はまぎれもなく「陛下」である。
だが、まだ言い慣れないものらしく、言い間違える者は多い。
それは側近であり、大臣であるリブにも言えたことだ。

いつもは特に気にならない。
だが今日は……妙に、気に障る。
何故だろうか。

「宮全体の空気が妙だ。浮足立っているというか……宴でも千尋が所望したか?」

公式の宴の予定は、やはり思いつかなかった。
ならば、宮全体がこうもざわつくなど、それぐらいしか思いつかないが……
それは、実は考えがたいことだった。

アシュヴィンの妃―――千尋の故国は中つ国。
このあたりで、不動の地位を築く強大国。緑豊かなまほろば。
千尋はその国のれっきとした王女であり、どんな贅も許されたはずだが、いっそ呆れるほどにそういったことに疎い。
そんな少女が、勝手に宴を開く?
アシュヴィンには不可解だ。
もしそれをやったのだとしたら、あるいはよからぬ人物が千尋の傍に寄っていったのかと思うほど……


(……だが、それもありえないか)


すぐにアシュヴィンは、その疑惑を頭から吹き飛ばした。
あの姫には絶大な守りがついている。
それこそ、アシュヴィンにとってはうるさいほどに鉄壁な―――八葉という名の守りが。

自身もそれの一員であったアシュヴィンだが、奴らほどではないと思っている。
奴らとはあれだ、自分の対だったり、兄の旧側近だったり、馴染みの薬師だったりする。
それらが筆頭というだけで、残った面々も鬱陶しいには違いない。
だが無碍にもできない。
妃は、彼らをそれこそ家族のように思っているので。


……まったく、困ったことだ。


「いえ……あの方は、そんな贅沢はお嫌いですし、それは陛下もご存知では?」
「まあそうだが…」
「そんなに考え込まれなくても、たいしたことではございませんよ」

では、何だ?
アシュヴィンは首を傾げた。
そして……不思議なものに気づいた。

あっけらかんと笑った側近の手に大事そうに抱えられている、袋。
それと同じものを、すれ違った女官も持っていたような気がする。

「……それは何だ?」
「えっ?これは……」

めずらしく、副官は口ごもった。
アシュヴィンはますます疑惑を深める。
リブは……ただでさえ細い目を一層細め、困ったように微笑んだ。

「……知っているくせに、人が悪いですよ、陛下」
「は?」

アシュヴィンはぴくりと眉根を動かした。

「俺は何も知らんぞ」
「えっ」
「本当に知らん。何か知っているなら、話せ、リブ」

副官の口がぽかんと開いた。
いつもとらえどころなく、如才ないこの男のこんな顔を見たのはいつ以来か。


だが、そんなことにかまっていられる事態ではなかった。
アシュヴィンにとっては。


その袋は、おそらく宮の異常に、そして千尋にと繋がっている。
それを自分が知らない。
自分だけが。

そんなことが許されようはずもない!

「……リブ?」
「えーっと………です、ね」
「うん?」

滅多に見ない顔で凄んだ皇を相手に、リブは困りきって、そしておかしくて、幸せで……
ゆっくりと扉を指し示した。

「千尋様に、直接お伺いになってはいかがでしょう?」





















側近にそそのかされたアシュヴィンは、憤慨しながら廊下を横切っていた。

聞きにいく?
この俺が、妃に?
こんな何でもないことを―――仕事を放り捨てて?


「フン……俺も堕ちたものだな」


こんなこと、千尋相手以外ならあり得ない。
千尋にだって、本当はしたくない。
いつだって、余裕な顔を見せておきたいから。
……それなのに、いつだってそれはかなわない。
千尋に、だけ。

「千尋っ!!!」
「ひゃああっ、あ、あれ、アシュヴィン???」

突然部屋に飛び込んできた夫に、千尋は驚いて飛び上がった。

「ど、どうしたの?夜まで帰ってこないんじゃ……」
「そのつもりだったんだがな……何を隠した、千尋」

千尋はぎくりとした。
咄嗟に背にかばってしまったものは、別に隠す必要はないのかもしれないが…
できれば、明日になってから渡したい。

千尋は瞳を彷徨わせた。


「え、ええっと……な、何も隠して、ないヨ?」
「嘘を吐くな」
「嘘なんか…」
「吐いてる。早く見せろ」


押し問答の勝敗は誰の目にも明らかだろう。
千尋はそもそも嘘に向かない。
そしてアシュヴィンは本気だった。

千尋に勝機があるとしたら……アシュヴィンに無理強いする気がないということ。
無敵の皇・アシュヴィンの唯一の弱点は、他ならぬ千尋なのだから。

アシュヴィンは一歩、千尋に迫った。

「千・尋」
「う、ううう…」

しかし、千尋の弱点もまた、アシュヴィンである。
ちなみにそれを知らないのは、アシュヴィン本人だけだ。
だから、迫ったものの、困った顔の妃にアシュヴィンは一歩退いてしまった。


「………わかった、もういい」


アシュヴィンは息を吐いて背を向けた。
ずっと見ていたら、是が非でも知りたくなってしまう。
きっと無理強いしてしまうから。

「へっ?」
「もういいと言ったんだ。……別にお前を困らせたいわけじゃないからな」

これに慌てたのは千尋である。
まさか退かれるとは思わなかった。
渡しちゃういいチャンスだったのに。
しかも、何だか、アシュヴィンは傷ついているような気がする。
そんなこと、もっとしたくないのに!

「ま、待って……アシュ!!」

千尋は大慌てでアシュヴィンを引き留めた。
考えていた展開とは違うが、この際仕方ない!

「これっ、受け取って……!」

アシュヴィンは振り返ってはくれたが、受け取ってはくれなかった。
難しい顔で、千尋が突き出した袋を睨んでいる。


「……これは何だ」
「こ、これは…焼き菓子なの。向こうの風習で、バレンタインデーって言って、好きな人に配る日なの」
「ほう」


アシュヴィンは一層不機嫌になったように見えた。
理由は千尋にはわからない。

「それで宮の者にも配っていた……と」
「そ、そう」

千尋は一層ひんやりとしたアシュヴィンの様子に首を竦めた。
何が気に障ったのだろう?

「あ、あの……駄目だった?」
「…………」

萎縮している様子の千尋に怒ることもできなくて、アシュヴィンは黙り込む。
駄目じゃないと、言ってやれない。

……千尋が、根の宮に馴染もうとしているのは理解している。
自分にも用意してくれていたのだし、それでよしとすべきなのだ。
相手は政略婚の相手。
それも、ほとんど奪うようにして婚姻した少女王。

気持ちが違っていても、仕方ないのだ。
駄目じゃないと、言わなければ。
せめてねぎらうくらいは……
だが……

もやもやと気持ちが、渦を巻いていく。


「……いや、それはいい。……どうして隠してたんだ?」


先に労わねばならないことは分かっている。
それが、政略婚の皇と妃の正しい関係だ。

だが、どうしても、聞きたかった。
どんな答えが返ってくるのだとしても。
……本当に聞きたかったのは、一番にくれなかった理由だけれど。

――― 千尋は案の定、口ごもった。
アシュヴィンが諦めて、宥めようとしたとき。
千尋がアシュヴィンのマントを掴んだ。

「アシュのは、皆と違うから……その、隠してたんだよ」
「……違う?」

聞いてはいけない。
そう思うのに、どうしても聞きたくなる。
その先に、どんな言葉が続くとも思えないのに。

(八葉だから、とかだ。そうだ、そうに決まって……)

アシュヴィンは落ち着こうとした。
無駄だとわかっても、頑張ってみた。

だが、目の前で頑張る千尋は、壮絶に可愛かった。
そして。


期待はきっと、裏切られない―――


「ほ、ホントのバレンタインは明日で、アシュは特別だから、明日に渡したかったの!」
「……相変わらず可愛いな、俺の妃は!」

真っ赤な顔をして千尋が言い終わるのを待たず、アシュヴィンは千尋を抱き上げた。

「ひゃっ…」

特別が何だとか。
ホントのバレンタインとは何かとか。
仕事とか。

全部アシュヴィンは後回しにすることにした。
可愛い千尋が全部悪い。


「食べていいのか」
「う、うん。口に合うか、わかんないけど」
「ほう、いいんだな」

ニヤリとアシュヴィンは笑う。


―――本当は、すべてを暴きたい。
知ってしまいたい。
だけど、今はまだ、こうして千尋に踊らされるのもいいのかもしれない。


とりあえずアシュヴィンは、千尋のお菓子と千尋を食べてしまうことにした。