その日、望美は朝から奮闘していた。

 何にか?
 バレンタインのチョコづくりにである。
 作り終わった望美は、会心の微笑みを浮かべる。
 ……惨状となった台所は無視をして。

「……よしっ、できた!完璧!」

 目の前のラッピングの可愛さに望美は至極満足して頷く。
 そして、後片付けもそこそこに出かけることにした。





奇跡に等しい確率で




「知盛ー」

 望美がご機嫌に向かった先は、知盛のマンションである。
 和議が結ばれた後、恋仲になった男は、何と望美の世界についてきてくれたのだ。
 要領のいい恋人は、ほんの一月で一人暮らしを始めてしまった。
 それからは、週末に知盛のマンションに通うのが望美の習慣となっている。

 合鍵で玄関ドアを開けて中に進むと、知盛はややうんざりとした顔でソファに寝そべっている。

「こんにちは、知盛。……どうしたの?」
「よう……望美」

 知盛は大概気だるげだ。
 だから、区別はつきにくいが、これは明らかに不機嫌な表情だった。
 いったい、何なの?

 小首を傾げる望美に、知盛は面倒そうに息を吐いた。

「今日は朝から何度となく起こされてな……」
「起こされて……?あっ…」

 そこで、望美は気づいてしまった。
 キッチンの隅にうず高く積まれたプレゼントの山に。
 いくつかは荷札らしきものがついているが、そうでないものもある。
 きっと、直接渡されたものもあるのだろう。
 どれもとても可愛らしかったり、素敵な包装がされている。

「………っ」
「どうした……?」

 望美は、急に自分のチョコが恥ずかしくなった。
 そして、知盛は―――どこへ行っても知盛だった。
 誰からも注目される。
 欲しがられる。
 有能で、でたらめで、格好良くて……よくモテる。


 思えば、和議後にこっちへ還ってくることになったのだって、そういうのが理由だ。
 都に公卿として返り咲いた知盛に、たくさんの女の人が群がって、いっぱい喧嘩して。
 もういい、還る!と言ってしまった自分に、知盛はついて来てくれたけど………。


(ここでも同じ、かぁ……)


 切なくなってしまう。
 あのとき、自分よりどう考えても知盛に似合う女房たちに嫉妬したように。

 釣り合わない。
 知盛にはきっと、ああいう高級で素敵なチョコの方が似合うのだと、思ってしまう―――

「―――おい、……望美」
「ひゃっ……」

 気づけば間近にのぞきこんでくる氷の美貌があって、望美は慌てて尻餅をついた。
 その拍子に、手の中のチョコも落ちてしまう。

「ん……何だ?」
「あ、そ、それは……っ!」

 望美も慌てて拾おうとしたけれども、無駄である。
 何せリーチが違う。
 ひょい、とばかり取り上げられてしまって、望美は更に慌てて立ち上がった。


「か、返してそれっ……」


 望美の手の届かない高みで知盛はそれをしげしげと眺め、にやりと笑う。

「俺のだろう…?」
「そ、そうだけど!」

 違うとは言えない。
 望美は嘘がつけないし、ラッピングしたリボンには「To 知盛」などと書いたカードを挟んでしまっているのだから。

 しかし、それとこれとは話が別である。

「も……もっといいの後であげるからっ!それは返して!」
「何故だ…?」

 強情な望美に、知盛はムッと眉を顰めた。

 どう考えてもこれは自分あてのプレゼントである。
 恐らくは、朝からの迷惑騒動と同じ、バレンタインデーとやらの。
 他の女からのものは迷惑でも、望美からなら話は別。
 それを返せとは?

「だって……その、一番知盛に似合うの、あげたいもん。か…彼女なんだし!だから返して!」

 知盛の仏頂面にもひるまずに、望美は何とか手を伸ばしてそれを掴んだ。
 あるものを発見して、知盛の眉が一層顰められる。

「これは何だ……?」
「え?……あ、こ、これは……」

 知盛が掴み、じっと見つめているのは望美の傷だらけの指だった。
 望美は軽く息を呑む。
 サラッと渡して、出来栄えに驚いてもらうつもりが……

(こ、こんな時だけ気づかないでよ……!)

 心の中で言い訳を探すが、そう簡単に見つかるはずがない。
 それでなくても望美は正直なのである。

「……これは、そのチョコを作るときに……ちょっと……」


 望美が知盛はしどろもどろに白状すると、知盛の眉が跳ねあがった。


「―――お前の手作りなのか」
「そうよ」

 言うが早いか、知盛はそれをさっさとテーブルに安置した。
 そして、望美の手を取り艶冶に笑う。

「俺はこっちの方にそそられるな……」
「なっ……」

 傷だらけの指をそっと舐められ、望美は二重の意味で顔を真っ赤にした。


(そ、そそられるって何!!)
(っていうか、それ!ひ、ひどくないっ……!?)
(そのチョコは美味しいんだからーっ!!!)


 最早恥ずかしいのか、怒りたいのか、自分でもよく分からなくなってくる。

「馬鹿にしないでよ!……それ!凄く上手くできたんだから!」
「ほう……では貰えるんだな……?」
「うぐ、そ、それは駄目だけど……」

 艶っぽい目は、どちらかというと楽しそうにキラキラとしている。
 望美は心に強く決意した。
 絶対、負けない!

「と……知盛はそっちの食べてればいいのよ!!」
「ほう」

 勝ち気が先走った挙句、余計なひと言がつくのは望美の常だ。
 極寒の微笑みを前に、望美はもう一度息を詰めた。

「これらを食えと言うのか……お前が?」

 何も知らない人が見れば、余裕の笑み―――に、見えないこともない。
 絶対極寒の微笑が、望美を襲った。


 普通なら挫ける。
 望美も挫けてしまいたかった。
 だが、いかんせん望美は、極度の意地っ張りなのである。

「そ、そうよ!知盛はそっちのを食べてればいいんだからっ……!!!」

 迸るのは心にもない台詞。
 それを見事に封じたのは――――

「んっ………」

 やはり、たった一度のキスだった。











 ……結局、いくら責めても、宥めてもすかしても、望美は「食べていい」とは言わなかった。

 今の望美は夢の中。
 何も纏わずに、知盛のベッドに寝そべっている。
 しかも。

「知盛の馬鹿ぁ……」
「……クッ」

 夢の中でまで、自分に悪態をついているらしい様子に知盛は笑った。
 強情者め。

(俺がいちいち出てやっていたのが何のためか、気づきもしないで……)

 それなのに、当のご本人はインターフォンを鳴らさずに入ってきたのだから始末に負えない。
 確か、合鍵を渡したときに、「実際に使うのは結婚してから!」とか豪語していたのは望美自身である。
 それさえも忘れるほど、渡したかったのか。
 ……これを。


「………………………」 


 知盛は至極複雑な表情でそれを手に取って見つめた。
 ラッピングは可愛い。
 それだけに不安を誘った。
 望美がラッピングだけで満足してしまった可能性はある。
 その可能性は捨てきれない。


 ごくり、と知盛は喉を鳴らした。


 ぱらり、リボンを解いた。
 そこには可愛らしいトリュフが4つ並ぶ。
 どれも外見だけは美味しそうで、これにつられて大失敗した記憶のある知盛は渋い顔をする。
 しかし、食べないわけにはいくまい。
 これを今食べなければ、絶対に別の人間の口に入るのだから。

 たっぷりの逡巡の後、知盛は意を決して、それを口に運んだ。
 しかし……


「……ほう」


 美味しい。
 意外にも味は美味しかった。  甘さの中の仄かな苦みが絶妙である。
 それこそ知盛の一番好きな風味で。
 ……たぶん、というか絶対に奇跡なのだろうが。

「フン……」

 何が奇跡でもおかしくなかった。
 だって、そうだろう。
 あの夜がそもそも奇跡。
 和議が成ったことも奇跡。

 そうして奇跡が二つも重なったのなら―――――

 これぐらい、おかしくないのかもしれない。
 何よりも、自分を生かした奇跡を思えば……

 知盛はゆったり微笑み、眠る望美の頬に触れた。

「早く起きてくれよ、望美……」

 冬の夕暮れは早く、望美の門限は近づいている。
 愛する少女の寝姿を愉しみながら、知盛は次の幕が上がるのを待っていた。