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夕刻になって、望美は六波羅の邸に戻った。
望美を迎えたのは、めずらしく楓ではなかった。
「知盛っ?」
「……奥方殿は蝶のようだな……」
やけにゆったりと微笑まれ、望美はうっと顔をひきつらせた。
知盛は優雅に微笑んで、望美の腰を抱き寄せ、つむじに優しく口づけを落とす。……怖い。
「ひらひら飛んで……、まったくひとところには留まらぬ……」
口調はむしろ優しげで、愛おしそうでさえあるが、目の奥がまったく笑っていないことを望美は見てもいないのに確信できる。
そのまま望美の腰をもって歩かせながら、ようやく知盛はクッと哂った。
この機を逃さず、望美はさっさと謝った。
「――――ごめんなさい」
「別に……悪いとは言っていないぜ……?」
充分言っている気がするのだが、どうだろう。
望美は無理矢理立ち止まって、きょろきょろっと辺りを見回した。
そして、伸びあがって、知盛の唇に軽くキスをする。
「……機嫌直して?」
「…………」
知盛は一瞬固まったが、やがて、にやりと笑った。
望美の身体を抱き上げ、渡殿の柱に押しつける。
「まだ直らんな……」
「んっ……」
言葉と裏腹の甘い口づけは、望美の中にある小さな不安も溶かしていくような優しさで、望美は知盛に甘えるように、口づけに応えた。
知盛がわずかに慾を覚え始めたとき―――
「と、知盛殿っ!こんなところで桜姫に何をなさっているのですかッ!」
向こうから物凄い顔で惟盛が走ってきた。
「ちっ……」
知盛があからさまに舌打ちする。
あまりの形相に、望美が思わず零れるように笑った。
知盛は諦めて、望美を下ろしてやる。
望美は知盛の腕の中から簡単にすり抜けて、惟盛の方へ走っていき、その勢いを止める。
零れるような微笑はまさに花。
平家で、桜姫に本気で逆らえる男は存在しない――
「……クッ……」
短く笑いながら、望美の手招きに応じて、知盛もまたゆったりと歩き始めた。
同じ頃、望美は福原に来ていた。
福原・雪見御所。
望美にとって、すべての始まりの場所である。
もうここに住む人間はいない。ただ、ここには墓があるのだ。
本当の清盛の。
望美は清盛に、会いに来た。
自分の決意を伝えるために。
「お久しぶりです、清盛様……」
しんとした静寂が支配する。
しかし、そこでいるはずのない者の声が響いた。
「……来たか……」
「……知盛……」
静寂の中、望美はその姿に目を凝らす。
もう一年くらい会ってなかったと思うくらい、懐かしかった。
実際はひとつきと経っていないのだが。
「驚かぬな……」
「うん」
いるかもしれない。いないかもしれない。
でも誰かいるなら知盛だろうと思っていた。
波立たない、望美の静かな瞳を見て、知盛は望美が決めたことを知る。
「………それでいいのか」
「あなたが、許してくれるなら」
望美は何の説明もしなかった。
知盛も何も聞いてこない。
すべては二人の中で、了承済みのことなのだ。
「フン………面倒だな」
「でも、やってくれるんでしょ?」
「お前が、泣くからな……」
望美は短く笑った。
知盛の言葉は全部本音だ。
すべて真実、すべて本音。
だから望美は、全部話して欲しかったのだ。
たとえそれがどんな内容でも。
「……大姫、可愛かったよ?」
「興味はないな……」
「こらこら、奥方になる人だよ、知盛」
「………」
知盛がまだ不快そうな顔でこちらを見るのが、嬉しかった。
結局のところ、平和とは望美の願いであって、知盛は興味もない。
政略婚も何もかも、知盛は投げ飛ばしても一向に構わないのだ。
それをしたら望美が泣く。
それだけが知盛の行動理由だ。
「―――俺はお前だけでいいんだがな……」
「私はそれだけじゃ嫌なの。我儘でしょ?」
望美が笑顔で念を押す。
知盛は暫く黙っていたが、やがて、諦めたように苦笑した。
「……ああ」
それは、望美だけが引き出せる笑顔。
望美以外の誰にも、知盛は譲歩をしない。
動いてやることもしない。望美が不意にため息を吐いた。
「……知盛が、でたらめなくせに有能なのがいけないんだよね」
急に何を言い出すのかと訝った知盛の前で、望美はくるっと背を向けた。
「知盛なんか、怠け者で、傍若無人で、いいところは身体と頭と顔だけで――そのくせに有能だからおかしいのよ。もっと無能で、駄目で、戦しかできなくて、そんなだったら、政略結婚の話なんてないのに」
言いたい放題の望美に、さすがの知盛も顔を顰めた。
「………お前な」
「でもそんなの、知盛じゃないよね」