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「よ、望美」
「……おはよう、将臣君」
朝早く、将臣は校門前で、幼馴染を見つけて軽く手を振った。
溌剌とした笑顔がかえってくるかと思えば、望美は少し元気がない。
「どうした?」
「ん……」
何のことはないのだ、と言いかけて、望美は沈黙してしまった。
将臣はいよいよ変な顔をする。
望美の様子がおかしいと、将臣も調子が狂う。
「なんだよ、知盛と喧嘩?」
「何でそうなるの……」
「いや、お前が元気ないっていったらそれじゃん?」
だとしても元気がないのはせいぜい朝だけで、下校時に知盛が迎えに来て、それで機嫌が直って終わりなのだが。
しかも大概理由も下らない。
適当なアタリに望美は苦笑したが、やがて、ぽつり、と呟いた。
「……最近ね、忙しいみたいなの」
「知盛が?」
「うん……」
望美は神妙に頷いたが、にわかには信じられない将臣である。
春日家の筆頭執事にして、望美の専属執事でもある平知盛。
容姿端麗かつ優秀な頭脳、優雅な物腰と傲慢さが魅力の男。
他人の知盛の評は、おそらくそんなところだろう。実際、できる男なのだろうとも思う。
しかし、将臣としては、できる男なのは見た目だけである、と、言い放ちたい。
知盛はとてつもなく困った男である。
とにかく大人げない。
幼い将臣たちを平気で脅し、小さな恋心をとことんまで利用し、望美を守る万全の態勢を敷いた。
それだけなら望美を大切にしているのだと、ある意味諦めもつくが……ある日、唐突に将臣は悟った。
知盛は無精者なのだ。
いや、大切にはしているのだろうし、四六時中知盛がつくことはできないのは当然だが、それは建前上の理由に過ぎないのだ。
本音は「楽したい」。
これに関してはそれだけだ。
確かに有能な男なのだろうが、その能力をひどく出し惜しむというか……とにかく暇な時間を好む。
毎日だらだらと過ごすのが大好きで、忙しいのは大嫌い。隣の家の子供を顎で使い、その間自分は昼寝をしているような男だ。
その男が、忙しい?
微妙な顔をしている将臣には気づかず、望美は独白のように続けた。
「今朝もね、起こしにいったら、寝てなかった…」
おそらく徹夜だったのだろう。疲れた溜息。普段吸わない煙草が向こうで紫煙を揺らしていた。
扉を開けた望美に、知盛は気づいてすらなかった。
こんなことは初めてで、望美には寂しさよりも不安の方が大きい。
(一体何があったんだろう……)
不安と、気を遣ったのとで、望美は出かける挨拶もできなかった。
翌朝、いつもの時間に目が覚めた望美は、ベッドに僅かな残り香を感じ、目を見開いた。
「……知盛?」
いつ、来たのだろう。
そもそも知盛がこの部屋を訪れることは少ないのだが、無断で入るようなことはなかったのに。
嫌な、予感がした。
慌てて着替え、廊下を走る。
「お嬢様っ?」
廊下を走る望美を咎めるように声が飛ぶが、かまえなかった。胸騒ぎがおさまらない。
扉をいくつか追い越して、止まる。
知盛の部屋である。
望美は軽くノックして、扉を開けた。
(いつも通りだよ)
自分に言い聞かせながら、妙にじっとりと汗をかく掌を握り締めて進む。
嫌な動機が止まらない。
「……っ」
ベッドに辿りつく前に、望美は気づいてしまった。
いない。
昨夜、ベッドメイクされたまま、使われてさえいないベッドに、その姿のあるはずがない。
(おじいちゃんの部屋?それとも書斎―――)
一縷の望みをかけて部屋をのぞいていくが、探し求めた姿はどこにも見当たらなかった。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
朝から蒼白な顔で走り回り、ついに廊下に座り込んでしまった望美に、老執事は優しく問いかけた。
彼は、朝早くから望美が何やら走り回っていると聞いて、探していたのだった。
望美は縋るように優しい老執事を見る。
「知盛が……」
「はい」
声を途切れさせた望美を、老執事は辛抱強く待つ。
白が混じりだした眉の奥の榛色の瞳。
不意に、望美の脳裏に、弁慶の姿が閃いた。
そして、昨日ぶつかった少年。