花はひとり城壁に上って、大きく息を吸い込んだ。
 優しい風が吹いている。
 晴れている空が、まるで祝福のようだなんて思うのは、さすがに感傷が過ぎるだろうか。

「花様ーっ、どこですか、お返事を……!」

 遠く自分を探す声を聞きつけて、花は、城壁の内側に身を乗り出した。

「ごめんなさい、ここですー!」
「花様っ?」

 兵を数人連れた女官は、まさかの場所にいる、いつもの格好の花に驚いた。
 こんなところで何をしているのか!

「お、降りてきてください、今すぐに!」

 もう既に準備は佳境になっているのだ。
 その中でも時間がかかるはずなのが、花嫁の―――花の準備のはずである。

「はぁい〜」

 顔面蒼白な女官に、花はわざと適当な返事を寄越した。
 彼女の気持ちが分かるからと――分かっていることがこそばゆいから。
 今日、花は、人妻になる。
 足取りも軽やかに、花は石段を駆け降り始めた。



君と誓う明日


 ちなみに、花を待っていたのは、準備に忙しい女官だけではなかった。

「花っ」
「えっ…ちゅ、仲謀…!」
「―――様」

 女官の後ろで仁王立ちしていた仲謀は、分かっていたかのように訂正を差し入れる。
 花は、苦笑いした。

「仲謀、様」
「うん、それでいい」

 仲謀は偉そうに胸を反らした。
 そんなところも彼らしくて、花はいっそうほのぼのとした気分になる。
 ひょんなことで、彼の年齢が自分より下だと知ってしまってから、彼に「様」をつけることを、花はついつい忘れるのだが、それを仲謀に訂正されて謝るのが通例になっている。
 もちろん、彼を馬鹿にしているのではない。むしろ、馴染み深いからである。
 仲謀もそれは分かってくれているようで、花としても互いの関係はなかなか良好だと思っている。
 が、それにしても……。

「尚香さんが来ると思っていたよ。仲謀、様が来るなんて、思わなかった」
「ああ――尚香は、風邪をひいてな。ちなみに、大小も来てるぞ」
「えっ…尚香さん、大丈夫なの?」

 花の顔が僅かに曇った。
 ―――この時代、そしてこの国では、たかが風邪とはいっても馬鹿にはできない。
 それで命を落とすこともあるのが実情である。
 だが、仲謀はさほどに心配していないらしく、いつもと同じように傲岸に微笑んだ。

「ああ、大事を取らせただけだ。行きたがっていたしな」
「……そうなんだ……うん、でも身体を優先した方がいいよ!それで、代わりに来てくれたんだね」
「……ああ」

 気取りのない花の笑顔に、仲謀は僅かに苦いものを混ぜた笑顔を返した。
 花には知られないように。

(どうせ気付いちゃいねえんだろうなあ…)

 わざわざここに自分が来たわけ。
 せいぜいが、玄徳軍との同盟関係のゆえにここに仲謀が来たとでも思っている。
 ―――今更、婚姻の儀を壊そうとか、そんなことまでは思わないけど。

「花様、そろそろ…」
「あ、うん」

 相手が要人であるがゆえに沈黙していた女官も、さすがに焦った様子を見せ、花は鷹揚に頷いた。

「じゃあ、後でね、仲謀!」
「様がついてねえぞ」
「あはは、仲謀様ぁー」

 エコーがかって、花の声が遠ざかっていく。
 残された仲謀は、小さくため息をついて踵を返す。

 ――――その姿を少しばかり離れた物陰から、とある二人が盗み見ていた。





                ☆





 そのとき、式次第の当日・主役の一人であるにもかかわらず、孔明はいつも通り、山積した書簡と睨み合っていた。

「た、大変ですっ、孔明様!」
「んー?何がー?」

 駆け込んできた番兵には哀れなことに、孔明は書簡から顔を上げることもしなかった。
 が、さすがに次の言葉には顔を上げる羽目になる。
 番兵は、言った。

「花嫁が…軍師様が行方不明になりましたっ!」
「―――は?」

 孔明は顔を上げ、書簡を取り落とした。
 そんな風に本気で呆気に取られた孔明に、番兵は自分が花嫁に逃げられた男であるかのような顔で泣きついた。

「ど、どうしましょう、孔明様〜!」
「……どうしましょうって………」

 ボクが言いたいよ。
 孔明は一瞬空白になった思考を冷静に立て直すと、一からこの事態を考え直すべく、椅子を漕いで天井を仰ぎ―――(当然のことながら)背中から倒れた。

「ぐッ」
「こ、孔明様っ?」
「い、いたた…」

 不覚過ぎる痛みが孔明を襲う。
 番兵が慌てて助け起こしに来る前に、何とか孔明は起き上がり、こぶができてそうな頭を撫でた。

「だ…大丈夫ですか……?」

 番兵の心配そうな顔に、孔明は苦笑する。
 ……どうやら、かなり自分は動揺しているようだ。

(ああ、だめだね。ボクの思考を揺らすのは、いつも君のことばかり)

 孔明はとりあえず花の部屋を中心に探させた後、玄徳に報告して本格的な捜索を開始することにした。








「ン……」

 玄徳軍はおろか、いつの間にか仲謀まで花探しに駆けずり始めた頃、とある一室で、花はふと目覚めた。

「あ、花ちゃん起きたー」
「起きたー?」

 聞き覚えのある二重奏が花の意識を静かに呼び覚ましていく。
 身体が重い。

「ん、んん……ここは…?」

 寝ぼけ眼で、花はぐるりと辺りを見渡した。
 見覚えのある光景。同じ城の中だ。
 よかった。
 安堵が花の視界の焦点を結ばせる。
 この世界に着て早数年。すっかり顔なじみになった双子が花のことを覗き込んでいた。

「大喬さん……小喬さん?」

 まだ少しぼうっとした感じの花に、無邪気に二人は答えた。

「そうだよー!」
「ここは、私たちのお部屋だよー」

 そうか、そうか、二人の部屋か…。

(そういえば、大小も来てるとか仲謀が言っていたような……そうか、来てくれたんだ……)

 ほのぼのとした思いが花の胸を満たす――――
 と、次の瞬間、花の顔色が一気に蒼褪めた。

「けっ、結婚式!」
「ほわっ?」

 急な大声にびっくりして、小喬が引っくり返る。
 大喬の方はさすがに察していたのか、特に驚きもせず、にっこりと微笑んだ。

「そうだよー。でも、大丈夫。準備は止まってるみたい」
「と、止まってるっ?止まってるって、どういう……」

 目を丸くする花に、大喬は訳知り顔で頷いた。

「花嫁の花ちゃんがここにいるんだもん。式の準備なんて、当然止まるよー」

 あまりにあっけらかんと言われて、花の思考は一瞬完全に固まった。

(準備は当然止まるって…そ、そりゃそうかもだけど!)

 だが、花は実際に準備に向かおうとしていたわけで、当然と言うなら準備が進んで当然である。
 それがどうしてここにいるのか、花は、自分でもさっぱりわからない。

「え、えええっ?い、いったい、何故ここに……」

 その質問を待ってましたとばかり、大喬と小喬は大きく手を広げて笑った。

「私たちが運んだんだよー!」
「えっ…?」
「苦労したよー。ねえ?」
「うんうん」

 再び絶句する花の横で、大喬・小喬は二人で頷き合っている。その姿に、悪気とか、悪意のようなものは一切感じられない。
 花は、困り果てて、聞くことになる。

「え、えええ……っと、な、何故……?」

 至極当然なその質問に、二人は一度顔を見合わせてから、憤慨したように花に向き直った。

「だぁって、孔明ってヤツは、花ちゃんをこーんなに待たせたんだよ?」
「お仕置き、お仕置き!」

 怒りながら飛び跳ねる様子は妙に愛らしい。
 呆気に取られた花は得心して――――微笑んだ。

「……ふふっ、私を心配してくれていたんだね。でも、いいの」

 そういえば、文で何度か聞かれた気がする。
 結婚はしないのか。待たされて辛くないのか。
 ―――師匠の意図が分からない時だったから、少し弱音も吐いてしまったかもしれない。
 他国の人だけど、二人は本当に優しいから。
 花の笑顔に、二人は不満そうに口を尖らせる。

「……えー?」
「よくないよう」

 だが、花ははっきりと断言した。我ながら、調子がいいとも思うけど。

「いいんだよ」

 だって、最初から全部そうだった。
 孔明がここまで待ってくれたのは、花のため。
 それ以外にないんだってことが分かったから、その瞬間にも、それまでのモヤモヤはどこかに消えていってしまったのだから。

 どう言えば伝わるだろう。
 私は幸せなのだと、―――大丈夫だ、と。

「師匠が―――孔明さんが、私の為だけにしてくれたことだから、大丈夫なんだよ」
「花ちゃん…」

 花の揺るぎない笑顔に、二人はそっと顔を見合わせた。

(……こりゃあ駄目だねー)
(連れて帰っても、仲謀じゃ口説けないよねー)

 花ちゃんが呉に来れば、楽しそうだったのに。
 純粋に花のための他に、ちょっぴり邪な気持ちも入っていたけれど……二人はそれを断念することにした。
 楽しいことも好きだし、仲謀のためもあったけど、何よりも二人は恋する女の子の味方でいたいのだ。

「わかった、幸せになってね」

 大喬がしっかりと頷いた、そのときだった。

「当たり前だよ。そんなこと言われるまでもないよね」
「し、師匠!」

 内側施錠のはずの客間の扉が難なく開いて、師匠――孔明がひょっこりと現れた。
 孔明は花が無事なのを素早く視認すると、さっきまでの動揺を見事なまでに押し隠して、にっこりと微笑んだ。

「や、花、探したよ」

 返ってくるのは、花の笑み。
 無事発見の報せが場内を回ったのは、それからすぐの話である。







 すったもんだはあったけれど、二刻ほど遅れて開始された式も無事終わり、現在は宴にと突入している。
 身内の婚姻ではあるけれど、他国の要人も交えた宴は大層華やかなものだった。
 だが、そこを主役の二人は既に辞している。
 花嫁衣装によって前が見えづらい花の手を引いて部屋に戻ってきた孔明は、そこでいきなり大きく息をついた。

「まったく君は……人騒がせすぎるよね。―――まあ、警戒対象が物凄く分かりやすくなったから、よしとするけど……」

 捜索の最中を思い出して、孔明は暫し遠い目をする。
 あの方とか、あの兵とか、あの男とか。
 いやもう本当に分かりやすかった。可愛いボクの弟子は本当に人気なようである。

(この国じゃすっかり適齢期過ぎてるってのにねえ)

 外見がほとんど変わらないという童顔が災いしているのだろうか。
 ……これは、自分も一緒なのであまり言う事はできないけど。

「へ?な、何がですか?」
「こっちの話!」

 このへんを深く花に解説する気がない孔明は、びしっと強く断じた。
 そうすれば花が黙ることは承知の上で。
 案の定、恐縮したように縮こまった様子の花を、孔明はじっと見つめた。

 可愛い花。
 ―――責任感が強くて、自分をいつでも足りないみたいに思ってて、だからって投げ出さず、延々と努力を続けている。
 夢見る未来の、太平の世のために。
 ………こんな子、他にいる?
 誰にも譲れない少女。

「取っちゃうよ、コレ」
「あ、はい」

 花が自分で動かそうとしたのを押さえて、孔明はゆっくりと、花の頭に被せられたものを取った。
 紅蓋頭――――花嫁の衣装。
 めずらしく化粧を施した花の顔があらわになり、孔明はそっと微笑んだ。
 いつもの君も、いいけれど。

「お疲れ様、花。重かったでしょ」
「うん…でも、ドキドキしたよ」

 そりゃあ、そうだろう。
 花は何度もつっかえそうになっていたし、照れている風だった。
 そんなこと、顔が隠されていてもよく分かる。
 ………でも、そんなこと言ってたら、もたないよ?

「ふふっ、これから君は、きっともっとドキドキしてしまうよ?」
「あっ…」

 華奢な身体を腕の中に誘う。
 花の体温、花の匂い。
 あの頃遠かった身体が、今はもう、こんなにも近い。
 ボクだけの腕の中。
 初めて星に願った想いは、今日からずっと永遠になる。
 孔明は花を抱き締めつつ、心を込めて囁いた。


「――――一生……君を大切にするからね」


 それはきっと、式次第の誓い以上に心を込めた、誓いの言葉になる――――





2013.2.20
キリリク。ドラマCD後の二人でした。

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