時々、この先のことを考える。
 大概は益体もない事。この俺の、出家の話なんかがその類だ。
 今はもう自分の時代へと帰ってしまった御使い殿がもたらしてくれた、いつかこの俺が「謙信」になって出家するという話を、俺は今でもぼんやりと考える。
 一体いつの事やら、と。
 この国はまだきなくさい。
 俺が関東管領という、いかにもご大層な役目であらねば困る奴がいっぱいいる。
 政虎は、真奈に見せられた近そうで遠い未来の事を思い、深くて憂鬱なため息をついた。

御使い様の忘れ物



 綾姫はじっと目の前のモノを見つめて、柳眉を顰めた。どう考えても、おかしい。
 こんなはずではなかったのに。

「……綾姫、様」

 思い悩む綾姫の背後から、艶乃は恐る恐る声をかけた。
 綾姫は完璧にいつもの笑顔で振り返った。

「何ですか、艶乃」
「……いえ、その」

 艶乃はどうにも気まずく言葉を探した。
 綾姫の笑顔は完璧で鉄壁だった。
 さっき、見事なまでに揺れた肩を目撃していなかったら、艶乃とて忍びとしての主たる綾姫が、配下の気配も拾えぬほど集中していたなんて思わなかっただろう。
 だが、見てしまったのだ。

「……何かお手伝いできればと」
「不要です。下がっていて下さい」

 やんわりとした口調で、しかし、きっぱりとそう言った綾姫だったが、ふと思いついて、下がろうとした艶乃を止めた。

「――そうです、艶乃、あなたも作りますか?」
「は、…何をでしょう?」

 手伝うのは構わない。
 だが、どうにも綾姫には違う意図で呼びとめられたようで、艶乃は首を傾げた。

「ばれんたいんですわ」
「ばれんたいん??」

 どこかの宣教師やらの名前だっただろうか?
 まるで聞き覚えがない。
 それに、作る……?
 更に小首を傾げた、普段はどこまでも優秀な配下の姿に、綾姫はさっきまでの困惑を忘れ、柔らかく微笑んだ。

「姫の、忘れ物のひとつですわ」
「御使い様の?」

 悪戯っぽさを含んだ綾姫の言い様に、艶乃は暫し記憶を辿った。
 姫と綾姫が言うのは、先だって元の時代とやらに戻った真奈が残していったものだ。
 お菓子の作り方、色の名前、たくさんの風習。
 それを綾姫は、「姫の忘れ物」と呼ぶ。
 艶乃はそれと「作る」を合わせ、ようやく回答らしきものを見つけ出した。

「……ああ、では、くっきー、などでしょうか?」
「ええ、本当はちょこれいとなどを渡すのだそうですが……さすがに見つからなくて」

 既に四方手を尽くしたことは内心に押し隠し、僅かに綾姫は息をついた。

「姫は甘いものならと仰ってましたので、ならば、くっきーを作ろうとしていたのですよ」

 とりあえず着物の袖をたくしあげながら、艶乃は綾姫の横に並ぼうとする。
 ちなみに、この時点で綾姫の失敗作は闇の中に既に葬られていた。

「なるほど。渡す……と、いうことは、贈り物なのですね」
「ええ、意中の殿方に」

 その言葉に、艶乃ががしょん、と、真奈が見ていたら形容しそうな動きで固まった。
 綾姫はにこにこと微笑んでいる。

「あ、綾姫様、私は別に、その、そういった方は……」
「ええ、そういう時は、身近な殿方でいいそうなんですの。だから、私は鬼若殿にお作りしますから、あなたは兄上に作って下さいな」
「と、殿様に私が?で、ですが、あの……!」
「鬼若殿だけが召しあがったら、きっと兄上は拗ねてしまわれますもの。……ね?」

 底の見えない微笑に対し、艶乃はどうにかこうにか頷いた。
 年下の主が何処まで知っているものか、ついには聞けないままで。






「―――こんなところにおられましたのね、鬼若殿」
「おう、鬼姫殿」

 小島邸の中庭に面した縁側で、政虎は一人酒を嗜んでいた。

「鬼姫殿が、この刻限にまだ起きておられるとは珍しいな」

 酒盛りでもない限り、絶対に床についていよう頃合いである。
 政虎は適当に言ったのだが、綾姫は心底嫌そうな顔をした。

(こんな刻分になるとは、私だって思いませんでしたわ)

 背後に隠した「くっきー」っぽい物の作成に、思ったよりも手間取ったのだ。
 ……間に合ってよかった。

「酒肴にはなりませんが、よろしければと思いまして、これを」
「……これは?」

 政虎は差し出された黒い物体を不思議そうに見つめた。

「…ばれんたいんですわ」
「ばれんたいん??」

 政虎の態度に、政虎が「ばれんたいん」を知らないことを確信して、綾姫はそっと胸を撫で下ろす。

「姫の時代の風習ですわ」
「……御使い殿のか」

 ふ、と政虎は頬を緩めた。ちょうど思い出していた折だ。
 手を伸ばして一つ摘まむと、綾姫が何気ない風でこちらの様子を気にしている。
 政虎は気づかれぬよう、そっと更に頬を緩めた。

(未来、出家……それも気になるが、のう)

 かり、と歯触りのいいそれは、見かけよりも数段に美味しかった。
 政虎としては墨の味も覚悟していたのだが。

「うん、美味い」
「……本当でございますか?」

 じっと確かめるように綾姫が覗いてくるのを、本当に可愛いと政虎は思う。

「おお、俺は嘘は言わぬぞ」
「ならば、結構でございます」

 澄ました顔も、尖らせた唇も。
 綾姫のいくつもの顔はどれも政虎の気分を華やがせ、または落ちつけてくれるのだ。

 ……出家はまだ先で、未来は分からぬままでいいいかもしれない。
 政虎はそう思った。

                                       Fin.