2011.10.10/ラブコレクションペーパー
確か出したのが勘助と秋夜と刀儀さんのときです・・・
永禄四年の初夏。
高坂は、それを躑躅ヶ崎館の奥女中から手に入れた。
シャンプー論争
「・・・何だそれは」
寵臣に竹筒を掲げられ、信玄の口はへの字に曲がった。
「は、御屋形様、これは『さんぷう』なるものでございます」
信玄の顔が一層怪訝になる。
さんぷう?
「だから、何だそれは」
「は、毛に大層良い物だそうで、持っていた者の髪がそれは美しく輝いておりました。――是非御屋形様にと」
「ふむ・・・・・・」
信玄から見て一段下に高坂は控え、低く頭を下げている。
その高坂の髪も、日頃見るより艶やかで美しいのに気づき、信玄は眉のあたりを僅かに上げた。
同じく下に控えていた道鬼斎が、くつくつと忍び笑った。
「試したな、弾正」
「御屋形様に献上するのだから、当然だ」
生真面目な顔で頷く高坂弾正に、道鬼斎――山本勘助はまた僅かに笑って、信玄を見遣る。
「内容が知れぬと不安であらせられるなら、検分しますが」
「――いや、よい。高坂、それを持て」
「ははっ」
信玄の言葉に従って、高坂が恭しくそれを掲げる。
道鬼斎はそれを半分、興味なさそうに見遣った。
(髪か・・・・・・奏が喜びそうか?)
不意に再会した、勘助のただ一人の想い人は、やはり勘助を覚えてはいなかった。
気の強く、しかし、懐かしい色の瞳を思い出す。
一向に靡いてこない少女を。
「御屋形様、俺にも少し分けてもらいたい」
気が向いてそう言えば、さすがに内容が不安だったのか。信玄が外見は鷹揚に頷いた。
「うむ、よいぞ」
「ありがたき幸せ」
そして、どこに使ったものかと考え込んだ結果、信玄の髭が、艶々になったという噂は、遠く越後まで届くのであるが・・・・・・
まさか信玄も、これが敵陣の戦乙女が所望した品であるとは、思いもよらぬことなのであった。
「ふう・・・・・・」
「御使い様、様子はどうだ?」
風呂上がりでご機嫌な真奈の元に、軒猿の秋夜が音もなく現れた。
「シャンプーのこと?」
「ああ」
今日も洗い上がりの良さを実感していた真奈は、明るい笑顔で微笑んだ。
シャンプーの在庫が何故かなくなったので、秋夜が新たに作ってくれていたのを試していたところだったのだ。
「すっごくいいよ、このシャンプー2号!もうDXってつけてもいいくらい!」
「でらっくす・・・・・・?」
「すっごくいい、っていう意味!」
とりあえず褒められたのだと認識した秋夜は、ホッとしたように微笑んだ。
「よかった。御使い様に喜んでもらえたら、それが一番嬉しい」
にっこりと微笑む秋夜の顔は、まさにお菓子を頬張った時のそれにも似て、本当に嬉しそうで、真奈はこっそりどぎまぎした。
秋夜は優しい。
真奈のちょっとした悩みや我儘にもすぐに応えてくれて、本当にすごいものを作ってくれる。
今回の「シャンプー」はまさに画期的だったらしく、綾姫までもがそれを片手にいそいそと湯に浸かる。
「いつもありがとう、秋夜」
真奈は色んな思いを込めて、微笑んだ。今度「くっきー」をもう一度作ってあげよう。
そんな真奈の思惑も知らず、秋夜は静かに微笑むだけだ。
「いや・・・・・・御使い様のお役に立つのは、俺の仕事だ」
・・・・・・これが「くっきー」で豹変することになるなんて、真奈が来るまでは誰も知らなかったというから驚きである。
ともかく真奈は上機嫌で、秋夜もホッとしてその場を立ち去った。
・・・・・・シャンプーを勝手に仕事のために持ち去った、本日の警護役の軒猿がそっと息を吐いた。
性懲りもなくその男は単身越後に、真奈の前に現れた。
しかも、その手に「さんぷう・改良版」なるものを持って。
「・・・・・・それを何であんたが持ってるのよ」
「何でと言われてもな・・・・・・作ったのだが、気に入らぬか、奏」
「だ・か・らっ、私は奏じゃないって、何度も言ってるでしょ!」
何度言っても聞いてくれない男を前に、きいっとばかり真奈は敵意をむき出しにして、臨戦態勢を取った。
すぐに軒猿は駆けつけてくれるだろうが、それまでにやすやすと浚われるわけにもいかない。
「フン・・・・・・強情な」
それすらも楽しむ余裕で、勘助は僅かに微笑した。
「それでこれはいらぬのか?」
「そんなの!秋夜がもっとすごい、シャンプーDXを作ってくれてるからいりません・・・・・・!」
真奈は渾身の「イーッ」という顔をした。こんな顔をしたのは子どものとき以来だ。
「しゃんぷうでらっくす・・・・・・?」
勘助は、己の百を超える知謀をもってもまったくわからぬ不思議な単語に首を傾げる。
だが、真奈は大仰なまでに勝ち誇った。己の手柄でもないのに。
「そうよ、だからあんたのなんて願い下げよ、いらないのよ!」
「・・・・・・そうか、出直そう」
「おとといおいでよ!」
もう来るな、とばかり、真奈は勘助の後姿にあっかんべーをした。
・・・・・・軒猿の誰かに見られたかもしれないという事実は、そっと心に蓋をした。
この後、越後と甲斐では、ひそかに「さんぷう」開発競争が繰り広げられるのだが―――
――――その起源が一体誰であるのか、本人はまったくもって知らないまま、時代の渦に巻き込まれてゆくのであった。