怨霊姫 重衡編





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 重衡は衾を除け、渡殿に出た。
 眠れない。こんなにも他人のことが気にかかるとは、と、重衡は苦笑した。
 寝待ち月もようやく顔をのぞかせて、その皓々とした光が、足元を照らしている。
 重衡はもう寝ようとしていたため、当然夜着である。
 だが、それに軽く引っ掛けただけで、重衡はそのまま歩き出した。
 夜陰深き雪見御所、その奥まった局を目指して。
 いくつかの局に分かれた雪見御所。
 清盛らの眠る寝殿の程近い場所に、桜姫の寝所は位置している。
 夜更けにこんな恰好で、と思わなくもないが、あの人は許してくれるだろう。
 また、重衡も長居する気はなかった。
 ただ一言だけ問いたかったのだ。
(あなたはここに、いて下さるのですか)
 ……縛ってはならない、と思う。
 かの人は異世界の住人で、探し人が見つかったなら解放してやるべきなのだ。
 彼女は平家とは無関係の少女だった。
 ただ優しく、花のように笑う少女だった。
 剣など知らず、争うことを嫌う優しい乙女。
 ―――その少女が、今や嫣然と花開き、戦女神として、平家の中枢にいるのは、単に彼女の献身に自分たちが甘えただけに過ぎない。
 平家はよく彼女に助けられた。
 この世界の争いに無縁の存在だったはずのひとに。
 これ以上縛ることはよくないことだ。
 もういいと、十分だと、誰かが言ってやるべきなのだから。
 それでも、その姿が見えなかった僅かな春、平家には微妙な動揺があった。
 すでに造反して久しい資盛らの手の者が雪見御所を騒がせた―――これはまだ知らせてはいない。
 知らせては卑怯だと思った。
 桜姫は、それを聞けば憂え、絶対に平家を離れなくなる。それは避けたかった。
 ひとつめの曲がり角で風に吹かれ、重衡は自嘲した。
 願わくば、彼女の意思で、ここにいて欲しいのだと気付く。
 何という甘えか。
 それが慈悲でも何でも、ここにいるという確答欲しさに、今自分は向かっているのだ。
 ならばいっそのこと、言ってしまうべきか?
 最後の手段程度にそれを心に留め置くことにした自分は、やはり酷いなと重衡は思う。
 それでもこのとき、重衡は望美の意思をまず聞こうと考えていた。
 知盛が女房の楓に追い出されるのを渡殿の角で見つけなかったら。
 御簾の奥、望美の頬が、赤らんでなかったら。




「―――俺が…何も気づかぬと、思うなよ…」
 望美はぎくりと震えた。
 振り返ると、知盛は僅かに笑い、目だけが笑っていない。
 透き通る菫。
 同じ色が、その背後にいる。
 どちらも望美には大事なものだ。
 かたや、望美の身体を奪った者。
 望美の心を揺らす者。
 どちらも、大事で。
「……何を気づくの」
 望美は努めて平静な声で、返した。
 知盛が哂う。
「お前が、そうして欲しそうだから……黙ってやっている…と…それだけの話だ……」
 知盛は背後の重衡を一瞥さえしない。
 望美だけ見つめ、望美だけに微笑みかける。
 望美は息を詰めた。
 想像していた烈火の怒りより、今の、芯から凍えるような怒りの方が怖かった。
 凍りつくように立ちすくんでしまった望美の傍を通り過ぎ、知盛もまた本陣に戻る。
 重衡が苦笑した。
「……これでも、あなたはお披露目はならぬ、と?」
「当たり前でしょう…」
 望美は剣を仕舞い、今度こそ踵を返した。
 厳しい目で、明けてゆく空を見つめる。
 源氏本陣のある鎌倉は、京から見て東の空。
 そこからだんだん白んでいく空。
 これは何かの暗示だろうかと皮肉に思う。
 望美は瞑目した。
 披露目?
 重衡との仲を公にする?
 そんなことをすればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
 仲間割れ―――少なくとも知盛は譲るまい。
 それが分かっていて、どうして?
「源氏の二の舞を演じられる余裕は、平家にはありません」