恋の戦略






 この冬の寒さは特に厳しく、宮中でも風邪をひく者が続出した。
 九郎もそれは例外ではなかったものらしい。




 ぶえっくしょん!
 目の前で盛大なくしゃみをする九郎を、嫌そうな目で弁慶が眺めた。

「馬鹿は風邪をひかないと言いますが……」
「何か言ったか、弁慶」

 弁慶はにっこりと微笑んだ。

「いいえ。……珍しいですね、君が風邪をひくなんて」
「ああ。……どれくらいぶりだ?比叡にいた頃もひいた記憶なんてないぞ」
「………それは凄いですね」

 和議が成り、弁慶は正式に軍師としての立場を退いた。
 そして、五条の端で薬師を営んでいるが、そこに九郎は転がり込んできたのだった。
 ……ふらふらの身体で。

「まったく…君ならもっとご立派な医師でも薬師でも呼びつけられるでしょうに、こんなところまで無理をしてきて」

 ぐちぐちと言いながら、弁慶は手際よく薬を調合していく。
 薬草特有の臭いに、むう、と口を尖らせながら、九郎はごちた。

「仕方なかろう。俺は、お前が一番信頼がおけるんだ」

 朦朧とした頭の九郎に作意などなく、弁慶は思わず手を止めてしまった。

「……それはそれは」

 ぎこちなく、それでもさっきよりも丁寧に薬を捏ねていく。無防備に信頼されるのに悪い気はしない。だが。

「……それは結構なことですが、九郎」

 無条件に信頼されるのは嬉しい。
 だが、それでも譲れぬ一線はあるもので、弁慶はじとりと幼馴染の剣士を睨んだ。
 普段は体力馬鹿の元気者。
 今日はおとなしく来たとはいえ……。

「まさかとは思いますが、桜姫にまで君の風邪をうつしてはいないでしょうね。そんな身体で襲いかかったりして」
「なっ……!」

 あまりに露骨な弁慶の発言に、九郎は真っ赤になって咳き込んだ。

「そ、んな、ゴホゴホ!あるわけが、ゴホ!ないだろうッ!」
「ああ大声を出さないで。喉が切れますよ」

 急に大声を出したせいで前のめりに咳き込んだ九郎に、しれっとした顔で弁慶が水を差し出す。
 それをひったくるように受け取りながら、九郎は幼馴染を睨みつけた。

「―――うつしたくないから、先にこっちに来たんじゃないか……!」

 大事な姫だ。
 平家の守護姫であり、白龍の神子。
 ただ源平の平和の象徴というだけではなく、九郎自身の初恋の君なのだ。
 ……誰が好き好んで風邪などひかせたいだろう。こんなに苦しいのに。
 顔を真っ赤にして呟いた九郎を横目に、弁慶はそっと息を吐いた。
 ―――胸に残る薄紅。
 自身の永遠の人を手に入れてしまった九郎に罪はないと思いたいけれど。

「そう。それならいいんです」

 てきぱきと薬を用意し、弁慶は能面にそれを突き出した。
 私情は入れないようにした。だが、念は押すことにする。これくらいはいいだろう。

「では、くれぐれもそうして下さいよ。彼女が寝込んだら大騒ぎになるということも、忘れないようにね」
「……恩に着る」

 九郎はごほっと咳を吐きだした。
 持たされた薬の袋は何だかがさがさ動いている気がするし、瓶の方はどうにも嫌な臭いがする。
 ……医者の人選を間違えたかもしれない。







 六条堀川邸である。
 源氏の大将が住むにしてはこじんまりしたそこが、現在の望美の住処だった。
 望美はそこで源九郎義経の正妻・桜姫として奥を取り仕切っている。
 九郎がそこまでうるさい夫でないのが幸いして、比較的自由に過ごしているからストレスもない。
 政略で始まった関係ではあるが、望美はおおむねこの結末に満足していた。
 そんな、冬のある日の昼下がりである。

「………九郎さんが風邪ぇ?」

 このくそ忙しい時期に、とは、思わないでおいてやってほしい。
 女房の視線はそう如実に訴えていたから、望美はコホンとわざとらしく咳払いして、居ずまいを正した。

「大丈夫なの?」
「はい……それで、御方様にはしばらく寝殿には参られませぬよう、と」

 ここで望美は愁眉を曇らせた。
 来るなと言うのだから行かなくてもいいのだが、それもどうかという気がする。
 何せ自分たちは夫婦なのだし。

(……ついこの間、そうなったばっかりだけどね……)

 和議が成って、政略婚して。
 でも、その場では、結局九郎は何もしてこなかった。一緒の床で眠っただけ。
 名実ともに夫婦となったのは、本当につい最近だ。

(……まさか、それで風邪をひいたのかしら)

 望美は女房に気づかれないよう、ほんのり頬を赤らめる。
 だが、それにしたって自分は元気なのに。

「……ふむ、しょうがないわねえ」

 望美は、ふう、と大きく息を吐いて頷いた。
 女房はほっとして顔を上げる。

「では、その間御方様はお宿下がりを?」

 そうさせてやれ、と、九郎から直々に言われているのだ。
 あっさりと望美が頷いてくれて助かったと思った女房は、喜色満面に顔をあげたが。

「え、しないわよ?」

 ……あっさり撃沈された。

「……御方様」
「だって、風邪でしょう?ほんの数日じゃない。なんでわざわざ」

 今でも望美は好きな時に時子たちのところや修練場に通っている。
 わざわざ「宿下がり」なんかしたら、何かあったかと盛大に勘ぐられかねない。
 そう望美は思うのだが、女房は頑固に食い下がった。

「ですが、病は穢れでございます。恐れ多くも白龍の神子様であられる御身に何事かございましたら……」

 望美は変な顔をした。
「別にないでしょう。平家だって風邪くらいいっぱいいました」
「それとこれとは…」
「一緒でしょう!」

 はあっと大きく望美は息を吐いた。迫力に圧され、女房が息を呑む。
 望美は徳子に鍛えられた淑女の微笑みで駄目押しした。

「寝殿に参ります。あなたたちは、さがっていて下さい。いいですね?」
「は、はい…」

 艶麗な笑顔に何故か凄まじい迫力を感じて、女房は頷かざるを得なかった。




 ひやり、とした感触を額に感じ、九郎は目を覚ました。女の手。

「もういいと何度言ったらわかるんだ。いいから寝かせてくれ……」

 煩わしいばかりで九郎は振り払おうとして、当たった手の甲の感触に凍りついた。
 ――――これは。

「の、望美ッ……ご、ゴホゴホゴホッ」
「ああもう叫ぶからー。大丈夫ですか?」

 思わず起き上がって叫んだせいで、また喉が痛くなった。
 身体を折り曲げて苦しむ背中は、言葉よりもよほど優しい手つきで撫でられる。
 九郎は涙目でその人を確認した。……やっぱりそうだ。

「―――桜姫……お前、ちゃんと帰っていろと、俺は伝えさせたが……」

 望美は呆れて肩を竦めた。

「聞きましたけど、大袈裟ですよ。単なる風邪でしょう?平家で知盛だって、たまにはひきますよ」
「そ、それとこれとは」
「別じゃないですからね?はい寝て。さっさと治して下さい。もう、軟弱なんだから」
「なっ…」
「起き上がらない!」

 一喝されて、九郎は伏したまま、もごもごと言い訳した。

「……自慢じゃないが、俺は物心ついてから風邪などひいたことがなかったんだ。だから軟弱じゃない…」
「へえ」

 小さく望美は笑った。物心ついてからって。

「随分頑丈ですね。じゃあ年ですか?」
「そんな年でもない!」
「そうですよねえ。じゃあ、やっぱり軟弱になったんじゃないですか?」
「む……」

 九郎は口ごもる。
 年だからとは言いたくないが、軟弱な男だとも言われたくない。特に、彼女には。

「……知盛卿だってひくだろう」
「あれは鬼の攪乱っていうんです」
「だったら俺も同じだ!」

 ここで望美は軽く笑った。

「同じですかねえ」

 何だか違う気がする。というか大分。
 九郎は馬鹿にされているような気配は感じたが、不意に額の布が取り替えられて、望美が手ずから看病してくれているのだと気付いて口を噤んだ。
 沈黙が優しく続く。
 ここまではよかったのだが、望美は枕元を整えるついでに、女帯を見つけて目を丸くした。しかも一本じゃない。

「……九郎さん、何です、これ?」
「ん?」

 弁慶薬の効能もあって、まさに眠りに堕ちようとしていた九郎はぎょっとして起き上がり、それを望美から取り上げた。

「俺のじゃない!」
「……はあ」

 望美は適当に頷いた。それは、九郎のではないだろう。見るからに女帯だ。

「九郎さんが隠れて女装趣味があったっていうのなら別ですが、まあ違うでしょうね。で、これは何なんです」
「うっ、こ、これは……」

 冷静極まりない望美の能面に、九郎は思いきり言葉を詰まらせた。
 これは何。何って見たまま女帯だが、そんなことは望美も聞いてないだろう。

(お、俺は悪くないぞ!俺はちゃんと全部固辞して……!)

 説明すれば一言で終わるが、もともと奥手で、現在熱で頭も回らぬ九郎に、この手の説明は荷が勝ちすぎる。
 放っておけば頭が沸騰しかねないほど身体中を赤くした九郎だから、望美はため息ひとつで許してあげることにした。

(……これで女房達は私を出ていかせておこうとしたわけね……)

 九郎の思惑はたぶん違うのだろうが、源氏のこの屋敷の隅々にまでその思考が浸透しているとは思わない。
 もともと、政略婚で一緒になったのだし、この時代では九郎が女房に手を付けたところで、望美が怒るような筋合いはないのだし。
 だが、やっぱりちょっと気には障った。

「まあいいですけど。ほどほどにして下さいね。風邪が本当なんだったらですけど!」
「な、何だと……!」

 九郎は絶句した。
 まあいいとは何だ。風邪が本当なんだったらとは何だ!

(俺はお前に嘘は吐かぬ。お前以外に、欲しい女もいないというのに……!)

 これで、いつもの九郎だったならば、真っ赤になって怒って終わりだっただろう。
 望美の口が辛辣なのは、今に始まったわけではない。
 だが、このときの九郎に、一切の抑えはきかなかった。
 風邪のせいか―――あるいは、滾るような想いの果てにだったかもしれない。
 ようやく得た妻を、九郎は褥に押し倒した。

「ンッ・んんんっ……」

 褥に引き倒されたかと思ったら、知っているより随分熱い九郎の舌が躍り込んできて、望美はその熱さに絡め取られた。

「俺はお前の他に女は抱かぬ!」
「はあっ?って言ったって、この女帯……、あっ!ちょ、九郎さ……あ、ああっ…」

 熱く、激しく九郎の手がせわしなく動き、望美は碌な抵抗ができないまま、裸に剥かれて貫かれた。

「く、熱いな……っ」

 まだ慣れない望美の中は、ぎこちない動きで九郎を締め付ける。だが、その慣れなさが、愛しさを煽って九郎の動きを加速させた。

「くろ、さんほど、じゃ……あっ、も、っ……動かないでっ……」
「聞けん……!」

 あれほど近寄らせたくない、風邪などひかせてたまるかと考えていたはずだったのに、触れてしまえばそんな理性は露のように消えてしまった。
 愛しくて、愛しくて、たまらない身体。
 何故彼女でないとだめなのか、説明もできないのに、そうであるとしか言えない。
 何度他の女に迫られても邪魔だとしか考えられなかったのに、何故望美だけは何度でも欲しいと思うのか。

(敵方だったし、口は悪いし、気も強い女子なのに)

 それでも好きなのだから仕方ない。

「ン、あっ……アッ、くろ、九郎さ、駄目っ、風邪……!」
「……諦めろ」

 九郎は熱に浮かされたように囁いた。
 うつされると思って望美が言ったのか、悪化すると思ったのかはわからない。
 でもどっちにしろ手遅れだった。
 どうにも全身が疼いて仕方ない。望美の最奥を打ち付けているときだけ、焦燥と熱さがほんの少し和らぐのだ。

「ふあっ、アッ…も、無理……っ!」

 三度目の頂点を極めた望美が、息も絶え絶えに懇願するのに、自分がまたもむくむくと大きくなってしまったことを自覚して、九郎はすまなげに項垂れた。
 心はついていかなくても、身体は散々煽られていたものらしい。

「すまん……」
「ひゃっ…」

 ごろん、と回転し、九郎は自分が楽な体勢――横になって、望美を馬乗りに乗せた。
 そのままで最奥を突く。

「ふあっ……」
「最後まで看病してくれ、望美……っ」

 落ちてくる汗の雫が至上の甘露に九郎には思えた。




 後日、全身をずぶ濡れにされ、裸のまま一昼夜を過ごした望美が潜伏していた風邪に憑りつかれたのは言うまでもない。

「……実家に帰らせてください」
「ならんッ!お前はここで養生しろ!……して下さい!」

 ……こんな遣り取りがあったとか、なかったとか。
 ともあれ、六条堀川邸は仲睦まじく、平和に新年を迎えようとしていた。







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