桜姫の浄化の光に包まれて、怨霊たる身が浄化され、彼女の世界に生まれ変わって、再び出会う。
これは奇跡ではなく、おそらく彼女の龍の恩寵だろう、と経正は思う。
だが本当は、それが恩寵でも偶然でも何でも構わないのだ。
貴女に再び逢えた。
ただそれだけが、確かならば。
冬は寒いが、寒さはそう経正にとって苦ではない。
ましてや、かの時空と違い、この世界では暑さ寒さを室内ならば自在に調整できるし、着る物だって機能的だ。
うまく使えばそう困ったことにはならない。
こうして「現代」に馴染みながらも、経正の心には常にかの時空があった。
―――彼女と出会った愛しい世界が。
「……ふう」
室内をクリスマス仕様に少しだけ飾り付け、経正はさすがに少し疲れて息を吐き、腰をとんとんと叩いた。
自分ではまだまだ若いつもりだが、最近こういう作業がつらくなってきたあたり年ということか。……彼女に知られたら笑われるかもしれないと経正は思う。
何せ、彼女ときたら、初めて出会ったころに立ち戻った十七歳の姿なのだから。
(見慣れてしまっていたのかな。より一層可愛らしいものですね)
桜姫然とした姿は、日に日に研ぎ澄まされてとにかく美しく儚くて、少しばかり経正は切なかった。
その美しさは、平家が彼女にかける苦労を思わせたから。
だから、今こうやって元の姿に戻った望美を見守れるというのは、経正にとって僥倖に他ならない。
それも、自分だけが独り占めできるというのだから、これは格別である。
「ふふ…喜んでいただけるでしょうか」
クリスマスに合わせて用意したモミの木を見上げ、経正は安らいだ微笑を浮かべる。
そこに、待ちかねていたインターフォンの音が鳴った。
「はい、どうぞ」
―――実は、これが今日三度目の正直だったりする。
ずっと思った人影ではなかったために、経正は落胆していたのだが、約束の時間に近いだけにさすがに今度は望美だった。
「こんにちは、経正さん!」
微笑む望美は寒さで頬を林檎のように赤くして、走ってきたのか息を弾ませている。
可愛い。そして、愛しい。
経正はにっこりと極上の笑顔を浮かべた。
「ふふ、こんにちは、望美さん。待ち焦がれていましたよ」
「そ、そんな……。あの、あがってもいいですか?」
小さく頬を赤らめる望美は愛らしい。
当然経正に否やのあろうはずはなく、その手を引いて、経正は自室に可愛い恋人を招き入れた。
―――案の定、クリスマスツリーに望美は夢中で、紅茶を淹れながら、経正はほんの少し苦笑した。
ここまで気に入ってもらえると、冥利ではあるが妬けてしまったりもする。
我ながら馬鹿馬鹿しいとは思うものの…。
「望美さん、お茶ですよ」
「あ、すみません、運びます……!」
ハッと気づいた望美が、慌てて駆け寄ってきて、紅茶の載ったお盆を持ち上げる。
「こっちでいいですか?」
普段はリビングまで運ぶ望美がダイニングを主張する。
モミの木の傍から離れたくないらしい。
「ふふ、本当に気に入ったのですね」
「本物のモミの木に飾りつけできるなんて、初めてなんです!」
望美の笑顔は輝くようで、心底嬉しいながらも、経正は「こんなに喜んでもらえるならもう少し大きいのにするべきだった」などと考えてしまう。
まあマンションの天井にはこれが限度だったのだが。
(やはり一軒家を検討すべきですかね……)
自分ひとりならば、マンション住まいというのは気楽だが、将来的にはそれもいいかもしれない。
そんな楽しい未来予想図を企てながら、経正はにこにこと好々爺のような笑顔で、望美にお菓子を差し出してやる。
「はい、どうぞ」
「わ、いいんですか?」
それについつい素直に喜びながらも、望美は内心ちょっと複雑だ。
それはこの先、お正月にも思うことなのだが、どうも子ども扱いされている気がする。
これは、実は全くの杞憂なのだが、この段の望美にそれは知る由もない。
経正はもともと策士であって、しかも柔らかい物腰に隠されがちであるので本心が悟られにくい。
これが、望美が桜姫の時であれば何かしら感じたかもしれないが、今はあいにく望美である。
記憶はあるがいかんせん感覚は遠く、こうなってみれば年の差も気になる。
年齢よりも落ち着いた感じの経正を前に、どうしても自分が子どもっぽいかのように感じてしまうのだ。
どうにかしたい。年齢が近づけばいいが、そうはならなかった。
せめて龍神も、望美の年齢を戻したように、経正の年齢も出会った頃のものにしてくれたらよかったのに。
だが、それはもう今更どうこうできる問題ではなく、人生は諦めが肝心である。
望美は美味しいクッキーを頬張りながら、思考と話題を切り替えることにした。
「明日のクリスマスは、終業式が終わったらすぐに行きますね!」
「ええ。……でも」
望美の明るい笑顔につられて、頷きかけた経正だったが、少しばかり困ったように首を傾げた。
早く会えるのはもちろん嬉しいが……。
「私は嬉しいのですが……受験生なのに、いいのでしょうか?」
記憶に間違いがないならば、年明けてすぐ望美の大事な試験だったはずである。
しかも、そこからしばらくそういった試験が連続していたような………。
要は、その準備で望美が忙殺されるはずだ。
だが、望美はにっこりと笑って請け負った。
「その次の日からうんと頑張るから、大丈夫です!」
元気いっぱいの笑顔の前で、微笑みのまま経正は固まってしまった。
……次の日から頑張るから大丈夫……。
それは、明日会ったら暫く会えないということではないのだろうか。
お正月も会えるものと思い込んで、おせちを随分と注文してしまっているが大丈夫だろうか。いや、それよりも。
(明後日からは会えなくなるのか……)
もちろんそんなことはなくて、恋する乙女が節目の行事をパスするはずはない。
だから、それは経正の杞憂に過ぎないのだが、望美同様、それはこのときの経正にはわからないことだ。
「……経正さん?」
「あっ……いえ」
つい黙り込んでしまった経正である。
望美に気にさせてはいけない。
とっさに取り繕おうとしたものの、元来、そこまで経正は器用ではない。
そして、望美もそこまで鈍くはない。
……その割に肝心なところが鈍感なのは、まあご愛嬌というべきだろう。
ともあれ、望美は小さく微笑んだ。
「……少しは寂しいですか?」
経正は虚を突かれ、少しばかり罰が悪そうに微笑んだ。
(……まいったな)
完全に見透かされている。
ここにきて、どうも自分は強欲になっているような気がする。
以前の世界だったなら、彼女が幸せで、微笑んでくれればそれ以上は望まなかったものなのに。
こうして独占できる時間が増えてきたせいだろうか。
「はい、……少し」
経正の本心を少しだけ晒した回答に、望美は切なさとくすぐったい嬉しさを込めて、微笑み返した。
……これが子ども扱いで、ただの寂しいで、恋ではなくても、今はいい。
十分だ。
そう、望美は思おうとした。
経正を封じてしまった感覚は、今でも望美の中に影を落としている。
「私もちょっと、寂しいです。でもその……本当にすぐだし、まったく会えないわけじゃないですから」
望美は健気に微笑んで、小首を傾げた。
「―――はい」
果報者だ、と思う。
明日を約束できるだけでなく、その先も望んでもらえる幸せを噛み締める。
寂しさよりも幸福が胸を満たし、経正を安らがせてくれる。
経正は優しく微笑みながら、ふと、モミの木と一緒に用意した、あるものに気づいて、そこに望美を誘導した。
「ちょっとこちらにいらして頂けますか」
「えっ……、は、はい」
望美が食べている最中に呼ばれるなんて珍しいことだ。
戸惑いながらも、望美は経正が手招く窓際に、小走りに近づいた。そして。
「ッ―――」
「ふふ、ヤドリギのキスです。クリスマスには、この下では口づけが拒めないそうですよ」
頬に一瞬感じたぬくもりに、望美は真っ赤になってしまった。
こんな不意打ち!
だけど怒るに怒れない。なぜなら、経正が非常に嬉しそうだからである。
(こ、この風習を知ったばっかりで、試したかったんだよ、きっと)
……ということを言い聞かせておく。
どうしても望美は、年の差がコンプレックスで、前向きには考えられないのだ。
しかし、乙女の本能は期待してしまい、それが裏切られることを極度に恐れてもいる。
ジレンマぐるぐる。
期待したい。したくない。
困惑する望美の表情は、桜姫である時よりもずっとわかりやすく詳らかで、それが経正にはとても嬉しく、楽しい。
「ま、まだクリスマスじゃないですよ」
「ふふ、もうイブだから」
「そうですけど……」
もう一度、頬にキスが降りてくる。
優しく、触れるだけの。
これが唇にだというのなら、誤解だって完全にできるのに。
望美は照れながらもそれを受け、小さく経正を睨んだ。―――いじわる。
「……怒ってしまいましたか?」
そんなわけはない、と見透かしたような経正の声が楽しげに望美の上で響き、望美は更にむうっとした。
完全に手のひらの上で遊ばれている!
何だか面白くない。
望美は後ろに逃げるように下がって、唇を尖らせた。
「知りません!」
確かに怒ってはいない。……いなかった。つい、さっきまでは。
だけど、こうやってそっぽ向いてしまうと何だか引くに引けなくなってしまって、望美は振り向くことができなくなってしまった。
だけど。
「困ったな……どうしたら機嫌を直してくれますか?」
……経正の、本当に困ったような空気が伝わってきて、望美はソワソワする。
経正―――望美の、大好きな人。優しくて、少し悪戯好きで、面倒見がよくて。
彼を困らせるのは、望美も本意ではない。
でもどうしても振り向けなくて、相反する気持ちの狭間で望美は困る。
自分の気持ちも、経正の気持ちも、両方ともわからなくてもやもやする。
(私は、本当に経正さんを、好き?……経正さんは……?)
ちらり、と望美が振り返ると、経正が少し困ったような、けれど満開の笑顔で待っていてくれる。
この笑顔を、無条件に信じていればいいのだと、頭ではわかっているのだけど。
「………名前」
「え?」
やがて、低く呪詛のように呟かれた単語に、咄嗟に経正は反応できなかった。
望美はまだ膨れっ面のまま、ほんの少しだけ歩み寄ってきた。
「名前、ちゃんと呼び捨ててくれたら、機嫌直します」
「……呼び捨てですか」
「だって何だか、他人行儀なんですもん。私の方が、ずっと年下なのに、さん付けはおかしい!」
望美としては大幅に譲歩したつもり。
だが、経正は、今度は本当に困ったように首を傾げてしまった。
「……それは。……ですが、貴女は桜姫で……要は私よりも目上であられたのですから」
「そ、そんな、目上とか思ったこともありません!それにもう、桜姫じゃありません!……そうでしょう?」
望美は必死に言い募る。
……桜姫の影。
確かに自分であるはずのものが、こうして度々立ちはだかる。
経正はまだ少し考え込んでいたようだったが、やがて、落とすように微笑んでくれた。
「……仕方のない人ですね。本当にそれで、機嫌を直してくれるんですね?」
「はい!」
望美が意気込むと、経正が苦笑した。
そして、こん、と小さく咳き込む。望美は動揺しないように身構えた。
「……望美」
「――――っ……」
小さな囁きは妙に恥ずかしく、望美は顔を真っ赤にしてしまった。
だが、見れば経正も恥ずかしげに頬を染めているから、もうこれでいいことにした。
一歩ずつ進んでいけばいい。
「……これでいいんですね?」
「はい!」
ご機嫌を直した望美と経正は、キッチンで並んで明日の料理をこしらえていた。
それがどんな料理になるかは、……推して知るべしだ。
「春が、楽しみですね」
「……明日のクリスマスでなくてですか?」
「それもまあ楽しみですが、春の方が楽しみですね」
「どうして春の方が?……あ、受験が終わるからですか?」
「それで喜ぶのは、私よりも貴女でしょう」
「むう、それはそうですけど」
望美は小さく膨れてみせた。可愛らしい横顔に、経正もまた微笑む。
春は楽しみ。だがもう既に幸せな日々で、経正は淡く微笑んだ。
ヤドリギの下のキスの秘密を、打ち明けるのを更なる楽しみにして。
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