笛を吹く人






 秋の風がもみじを揺らす。
 敦盛は定位置になりつつある屋根の上で小枝を吹きながら、優しい想いでかの人を思った―――桜姫。
 彼の恋人であるその人は、現在、平家方総領姫として、最後の詰めである評議に出向いているのであった。
 役にも立てない自分が、少し、悔しい。




 敦盛はふと顔をあげた。

「敦盛さーん!」

 ついで、予感の通りに声が響き、敦盛は自然と顔を綻ばせてしまう。

「……ここだ」

 常人ならざる跳躍力で屋根から庭に下りると、やはりそこにいたのは桜姫だった。
 愛しい恋人。

「やっぱり屋根にいたんですね。お邪魔してしまいましたか?」
「いや……貴女を待っていたから」
「そ、そうですか」

 ふつり。会話は途切れてしまう。だが、お互いに沈黙は苦にはならなかった。
 元より敦盛はそう口数の多い方ではなく、桜姫――望美はそんな敦盛が好きなのだから。
 いつもならこのまま微笑んで庭を眺める。
 だが、このとき敦盛は僅かに迷った。

(……評議は、どうなったのだろう。この方のことだ。うまく、まとめて下さったのであろうが……)

 偽物の和議を囮にした生田の戦は、さらにそれを囮にした桜姫の奇策によって平家方の勝利に終わった。
 そして、仕組まれた和議さえ踏み台にして呈された本物の和議に、もう誰も否やは唱えられなかった。
 怨霊姫の名は、憂国の神子として高く評価され直し、平家は還都が許された。
 季節は一巡し、また秋が来た。
 暑さは峠を越して、自然はゆっくりと移ろいゆく。
 ただ、この身を置き去りに―――

(いつまで、傍にいられるのだろう)

 消えゆくべき怨霊である我が身を思う。
 ただ共にありたいと、泣いてくれた愛しい人と恋人になってから、大分経つ。
 だが、この身はまだ存在を許されて、他の怨霊たちのように輪廻には還ってはいない。
 それがいいのか、悪いのか……。
 敦盛の表情は思案とともに沈んだ。しかし、それは長くは続かなかった。

「……はにをはれるのら」
「ふふ、何か余計なことを考えてるなーと、思って」

 びみょーんと頬を摘まんで伸ばされて、敦盛は困った顔で望美を振り返った。
 軽く笑う恋人の目は、何の憂慮もないようにただ明るい。
 だが、今回の議題が、怨霊である自分たちの処遇についてであることを、忠度に聞いて敦盛は知っていた。
 だからこそ、すべての評定を平家の男たちに任せ、もう奥に籠ろうとしていた望美が再び桜姫として表に立ったのだということも。

(貴女は、戦が終わってもまだ我らを守ろうとして下さる……)

 それを嬉しいと思う心と、重荷になっていることを憂う思いは、同じくらいの重さで敦盛の心を締め付けた。
 どちらも本心。
 だが、並び立たないもの。
 この身が怨霊でさえなければ、もっと――いや、それ以前にそれでもあなたを支えられるくらいに強くいられたら……。
 すべては仮定でしかなく、儚き願望でしかない。
 だから、敦盛はその夢想のすべてを心の中から振り払った。
 そっと、望美の手を取って離させる。

「……余計なことではない」
「じゃあ、何を考えていたんですか?」
「あなたのことだ」

 まっすぐな視線に嘘はない。
 構えていなかった望美はドギマギし、頼りなく視線を彷徨わせた。

「そ、そうですか…」
「ああ」

 間違いではない。ただ少し隠したのだ。
 だが、望美の照れた横顔が愛らしくて、幸せで、敦盛はそっとそれらを己の心の中に仕舞い込んだ。
 ……必要ならば聞かせてくれる。
 今はその時ではないのだと―――信じた。



 季節は廻り、過ぎる。
 望美はまた陣羽織をどこかに仕舞い、再び安らぎの日々へと戻っていた。
 平家さえ守れるなら、望美に戦う意思も必要性もない。
 ……先日の件は、イレギュラーだったのだ。
 必要だったとはいえ。

(いつまで傍にいられるの?いて、いいの?)

 敦盛は怨霊の身を憂慮しているようだが、望美だってこの世界では異邦人だ。
 表立った政治の舞台になってから、望美が総領と呼ばれる立場から降りたのもそれが大きい理由の一つだ。
 我が身を犠牲に、戦うことは怖くない。

(だけど……)

 きゅ、と我が身を抱き締めたくなる。
 こんな日は、敦盛の笛が聞きたくなって、ふらり、と望美は御簾をかき分け渡殿に出た。
 静かな夜。
 耳を澄ませば、控えめな小枝の音が望美を導いてくれる。
 寝殿となった部分から少し離れた対の屋が敦盛たちの住まいだ。
 どうして寝殿と離したのか聞きたくない望美は、わざとここに通うようにしていた。
 無言の抗議代わりに。
 草木も眠るような宵の刻。みんなを起こしたくなくて、望美はそっと囁いた。

「―――敦盛さん」

 望美が呼ぶ声がどんなに小さくても、敦盛は気づいてくれる。それは、望美にとってどんなものより大切なことだった。
 胸に、優しさのように沁みる。

「……桜姫?どうしたんだ、こんな夜中に」
「約束もなしに、ごめんなさい」
「いや、私は、かまわないが……」

 怨霊の身に眠りは厳格には必要ではない。
 敦盛は夜通し起きていることが多かったから、この時間の訪問も問題はなかった。
 ただ、それは敦盛が怨霊だからで、そうではない望美の身体が心配だった。
 まだ秋の初めとはいえ、夜は冷える。

「桜姫、その、よかったら中に……」

 躊躇いつつも部屋の中に誘おうとした敦盛の手を、そっと望美が引いた。
 敦盛は振り返る。
 闇の中、静かに、桜色の髪が風の形にたなびいた。夢幻のような一瞬。

「いいえ。それよりも笛……敦盛さんの笛が聞きたいんです。駄目?」
「だ、駄目ではない……」

 敦盛は慌てて俯いた。
 夢幻の夢。その美しさを、直視することはできなかった。




 もみじが揺れる闇夜に、小枝の音色が控えめに響く。
 遣り水の傍の小さな岩に腰を下ろして、敦盛の隣で望美はそれを堪能していた。
 二曲終わって、望美はほうっと息を吐いた。

「……やっぱり落ち着きます。敦盛さんの笛」
「貴女もやってみるか?」
「……やりません。また、ぷぴーくらいしか出ないんだから」

 望美の膨れっ面に、敦盛が小さく笑う。

「いくらでも教えるのに……」
「いっぱい教えてもらいましたよう。それでも駄目だったでしょ?」

 さざ波のように敦盛が笑う。それは、遠い日の思い出。
 あの頃は、お互いに恋ではなかった。
 敦盛はただ憧れを、望美はただ親しさを感じて傍にいた。
 優しいぬくもりは変わらない。
 望美がこの世界に現れたときから、敦盛は既に怨霊であり、望美は異邦人だった。
 あの頃と変わらず、敦盛は望美を直視することができず、お荷物のままだった。
 何も変わらない。
 敦盛は変わることができない。
 変わったのは望美、そして、二人の関係の名前だけだ。

(……やっぱり話してはくれないか……)

 敦盛は心の中でため息を吐いた。
 あるいは話しに来てくれたのではと期待したが、そうではないものらしい。
 望美は表情が豊かだが、平家の守護女神としての桜姫はそうではない。
 何もかもを水底のように心の中に沈めて、秘めてしまうくせがある。
 そのすべてを窺い知ることはできない。
 ただ、望美が何かを話そうとしてくれているか、黙ったままでいようとしているかは、敦盛にだってわかるようになっていた。
 だが、それだけだ。

(貴女にとって、私は、何だ……?)

 敦盛が聞けば「恋人だ」と、望美は答えてくれるだろう。恥じらいつつも。
 だが、頼られはしない。
 望美のことが少しくらいわかっても、敦盛はその程度だからだ。
 それだけしかわからない。その重荷のすべてを肩代わりさえしてやれない。
 そして、それらを望美も敦盛には欠片も求めてはくれない。
 それが、敦盛には少し寂しくて、……とても正しいことに思えた。

「―――今なら違うかもしれないだろう?」
「え?」

 そっと、望美の手の甲に敦盛の手が重ねられた。熱を感じることができない掌は、それでも優しい。

「……敦盛、さん?」
「貴女は、あれから随分と成長された…」

 見つめてくる瞳に望美は息を呑み、奇妙な焦燥を覚えた。
 じわじわと、不安が這いのぼる。
 まるで聞きたくない何かを、敦盛が言おうとしているかのように。
 敦盛が何を言おうとしているかも、わからないくせに。
 敦盛は柔らかく笑った。

「きっと笛も吹ける」
「ふ、吹けませんよ」

 望美はぷいっと横を向いた。だが、敦盛の声音は揺らがなかった。

「……いいや、きっと吹ける」
「――――…」

 笛のことを言われているだけなのに、まるで別れの言葉のように思えるのは、先日の評議のせいだろうか。
 議題は、最初から知っていた。だから無理矢理出たようなものだ。


 ―――怨霊はすべて封じられるべきです。


 はっきりと名指しはされなかった。
 だが、あのうらなり男が何を言わんとしているかは、望美にも明確にわかっている。
 応龍の加護深き京において、未だ存在する平家の怨霊たち。
 和議の際にも、彼らをどうするかという問題は紛糾した。
 それらを強引におさめたのは、怨霊姫だ。
 唯一怨霊を封じる力を持つ白龍の神子としての発言権を、望美はここでフルに活用した。
 知盛・重衡といった面々がこれを支え、おかげで、この秋までは何とかもたせることができたのだ。

 ……だが、限界だった。
 怨霊という存在は、いるだけで龍脈を穢し、脅かす。
 応龍の加護が少しでも陰れば、すぐにこれはその原因として引き出されかねないのだ。
 そして、今までは、源氏の牽制に平家の存在が使えるから、貴族たちは黙っていただけに過ぎない。
 一年がたち、情勢は落ち着いてしまった。
 決断の時は近づいている。
 敦盛たちを封じるか、―――あくまで彼らを守って戦うか。
 どちらの選択が人として正しいかなんて、明白だった。
 だが、望美は諦めきれない。
 許せない。
 そもそも望美や平家が妥協できていたならば、もっと早くに戦は終わっていた。
 恐らくは平家の衰退という形で―――もっと、早くに。
 だけど。

「……だから、桜姫、どうか―――」
「嫌っ…」

 頑是ない子どものように、望美は頭を振った。その決断はしたくない。たとえ敦盛の言葉でも聞きたくない。
 それでも、冷静な桜姫の部分はどこかそれを「正しい」と断じている。同時に嫌だと叫んでいる。
 ―――それを、敦盛も受け入れてくれたはずだったのに!

「嫌、聞きたくないっ…」
「ならば!」

 逃げようとした望美の腕を捉え、いつにない強さで敦盛は望美を見つめた。

「……ならば、頼ってくれ。もっと……」
「あ、つもりさ……」

 淡く、唇を塞がれる。望美の身体からゆっくりと力が抜け、何度も熱が行き交った。
 ぬくもりを交わし合うような行為は、たとえ熱が片方にしかなくても至福だった。
 何度も口づけ合い、名残惜しげに唇が離れても身体は離れられなかった。

「―――貴女は成長され、何でもできるようになられた。だが……だからといって、何でも背負わないでくれ。……もし、貴女が我らを必要として下さるのならだが」
「必要ですっ…」

 間髪入れず、望美は訴えた。
 敦盛の口元に、寂しげで、満足そうな優しい笑みが浮かんだ。

「……ならばどうか頼ってくれ。頼むから…」

 力いっぱい抱き締められて、望美はそのぬくもりのない身体の優しさに目眩がした。
 この優しさに、応えられるのだろうか。
 ……いいのだろうか、自分が……?

「傍にいても、いいのかな……」

 それは望美の弱音だったに違いない。これまで心の底に秘めていた言葉。
 敦盛は怨霊であっても、まごうことなきこの世界の住人だった。望美は違う。それは、どこか望美の心を迷わせ、弱らせていた。
 ずっと心に抱いていた思いさえ、仮初の正義によって霞ませるほどに。
 敦盛は望美を抱く手に力を込めた。
 この身が許されなくても、正義でなくても、それよりももっと大事で確かな想いがある。

(貴女の傍にいたい)

 そして、そのために必要なこと。

「―――いて欲しい。私の、傍に」
「……敦盛さん……っ」

 ついばむような口づけは、徐々に熱さを増していき、望美は弾む息を持て余しながら、熱のない愛撫に溺れていった。
 誰に何を言われても譲ることのできない幸せの海に沈みこむ。
 かつては決して言われなかった言霊が望美を支えてくれる。

「……愛している、桜姫……」


 変わったのは、望美と名前だけ?
 ゆっくりともみじが落ち、風が甘い吐息を浚った。






 冒頭に戻る