本人だけが知らぬもの






 和議は終わり、源平の戦は終わった。
 だが、新たな戦の火種は既にまかれていたのである。
 源平の区別なく。
 ……それに気づいた者はこっそりと息をひそめていた。




 秋の晴れたある日、望美はふと月を見上げてそれに気づいた。

「あら……もしかして……?」

 空に浮かぶは満月。
 ならば、今月、もしかして知盛の誕生日が近い……?
 ふとしたきっかけで知ったそれを思い出し、望美は軽く腕を組んで考え込んだ。

 平知盛。
 平家随一の猛将にして現在の平家筆頭。
 いけ好かない男であり、望美の天敵とさえ言える存在であるのだが……。







「……欲しいもの、だと?」
「そう。不本意ながら」

 めずらしく自分から望美がやってきたかと思えば、仏頂面でそんなことを言う。
 知盛は怪訝に首を傾げた。

「戦の褒賞か何かか……?」

 考えられるとしたらそれだが、直近の戦は生田の戦で、あれはそう大規模にはならず、しかも一番手柄は目の前にいる望美が取ったはずだった。
 だが他に思いつくこともない。それで仕方なく知盛は聞いたのだが、返ってきたのはにべもないものだった。

「そんなわけないでしょ。いいから言いなさい、欲しいもの!」
「………欲しいもの、ね」

 知盛は吐息のように哂った。
 ……望美は、自分にだけはこうしたつっけんどんな態度をとる。
 誰もに向けられるような常春の微笑に興味は湧かないが、それでもこうしたときは、たまに癇に障る。
 これがきっと他の者に聞かれたのなら、懇切丁寧に、意図なり理由なりも説明するのだろうに……。

「欲しいものないの?ないならいいわよ。適当にやるから」
「適当にやる、だと……?」

 知盛は不快気に眉根を寄せた。
 確かに欲しいものなどないが、適当にやられるのはよろしくない。しかもそれが、望美主宰であるならなおさら。

「……待て。その質問の、期限や用途の制限はあるのか……?」

 既に立ち去りかけていた望美は、珍しいくらいに食い下がってきた知盛に、驚いたように振り返った。

「……やけにやる気ね」
「いいから、聞かれたことに答えろ…」

 知盛を乱戦の戦場で生き残らせてきたのは直感である。
 何よりも必要であり、桜姫との無二の呼吸を実現させたもの。
 それが警鐘を鳴らしたとき、そこがどこであっても無視すれば碌なことにはならない。
 あるいは、知盛が生き残ってきたのは、それに素直に従い続けた成果であるかもしれなかった。
 望美は怪訝そうにしながらも完全に身体を戻し、座らないながらもちゃんと答えた。

「……期限は、そうね、できれば二、三日中?あと制限はないと言いたいけど、私が用意できるものにしておいて。これでいい?」

 知盛は僅かに眉根を上げた。
 そしてにやり、と、俄然やる気をもって微笑んだ。

「………お前が用意できるもの、ね」
「…………そうよ。よろしくね」

 ここで、望美は本当は言わなければならないことがあった。
 だが、それを言うのがどうにも自意識過剰な気がして憚られたのと、知盛と長く二人でいたくない相性の悪さも手伝って、望美はそそくさとその場を立ち去った。
 残された知盛は、傲岸に微笑む。
 期限は多く残されたが、知盛の要求するものはもう決まっていたのである。




 ―――そして、問題の日。
 知盛の「欲しいもの」を聞かされた望美は不機嫌絶頂の顔で宴に出席していた。
 ちなみに、もう主賓の知盛にも意図は知られている。聞かせたのは望美であり、そのせいでますます望美は逃れられなくなった。

(ま、まああの男の嫌がらせよね。結局何もしないで終わるのよ。そうよ、そうに違いないわ……!)

 望美は延々と念じた。ついでに知盛への怨念も念じてみた。
 そうしなければ、とても座ってはいられない。だが座らずにはいられない。
 これは、望美主宰の知盛の誕生日会という名目の宴なのだから。
 だが、やっぱりやるんじゃなかった。
 まさか、プレゼントの要求が「お前」だとは思いもよらないではないか。
 それを二人の時に聞いたなら、びしっと熨しつけてお断りしてやったものをあの男…!

(仕組んだとしか思えないわ。くっ……ホントに性格極悪なんだから!)

 望美はぎりぎりと扇に力を入れて真っ二つに折りかけ、慌てて力を緩めた。あんな戦馬鹿のために扇を駄目にしてどうする!
 ……ちなみに、望美の姿は、件の発言を聞いて興奮した女房達によってたかって飾られて、いつにないほど華美である。
 望美は大きくため息をついた。女房たちは分かっていない、と思う。
 知盛のあの発言は、単に嫌がらせなのに。

(あの男が本気で私が欲しいとか、思うはずないのに)

 望美は半分鼻で笑った。
 宴会じみてきた室内の中央では、呼ばれた白拍子が舞を舞っている。望美だってこんな衣装じゃなかったら舞ったのに。
 そうしたら気だって紛れたのに。
 何だか全部知盛が悪いような気がしてきた。いや、全部知盛が悪い。悪いに決まっている。あの男が最悪だ。生まれてきたことを謝ってほしいくらいだ!

「くっ!」

 望美はぐあっと杯を煽った。そうでもしなければ、やってられるか。




 知盛は女房に先導されてやって来た望美の仏頂面に、一見すればほくそ笑むとも取られかねない微笑みを零した。
 実際望美はそう思ったのだろう。
 薄く化粧の施された顔を、むっと歪めた。
 女房が灯りを残し、そっと立ち去る。
 望美は、普段の桜姫としてのたおやかさも脱ぎ捨てて、だん!と勢いよく床に座った。

「これで満足っ?」
「何がだ…?」

 望美の誤解も何もかもを理解しながら、知盛は素知らぬふりをして微笑む。
 案の定、望美はぷりぷりと一層元気に怒り出した。

「何笑ってるのよ!くっ……腹の立つ奴ね。もういいでしょうって言ってるのよ!」

 周りがあそこまで盛り上がっては否とは言い出せないため、望美は、知盛の発言が知れ渡った時点で腹をくくった。
 知盛の目的は、望美を困らせ、怒らせ、きりきりさせることだ。
 ならばそれが達成でき、なおかつ女房らに見つからない段階まで付き合えばいい。
 だから、望美にとってはここが「終わり」なのだ。
 しかし、知盛はそうはいかない。

「まあ待て……」

 立ち上がろうとする望美の手を取り、知盛は至極ご機嫌に微笑んだ。

「ここまできて、逃がすと思うか…俺が…?」
「……思うわよ。目的は達成されたでしょう」
「クッ……」

 おそらく本気で言っているのであろう。
 知盛だって、普段なら女は追わない。
 ここまできて、それでも怪訝な態度を崩さない望美に、知盛は本気で笑いかけた。
 ―――こんな女は他にはいない。

 ただ美しいだけの女はどこにでもいる。優しげな女も。中には望美より優れた女もいるだろうと知盛も思う。
 だが。
 戦場で見せる冴えた眼差し。蒼褪めた、しかし鋭い美貌。
 誰にでも見せる常春の笑顔には惹かれぬが、血色の優しさと、こうして自分だけに向ける烈火の瞳には煽られる。気の強い瞳。
 ―――手折ってやりたくなる。

「何故そう思う……」
「……何故って……」

 望美は困惑した。そんなの言いたくないが、知盛の好みに自分がそぐわないだろうからだ。
 知盛だって望美の好みでは当然ないからお互い様だが、何だか負けを認めるようでそれを言うのは悔しい。あとは…。

「……私を困らせるのがあなたの欲しい贈り物だからよ。だからこれで終わりなの!ハイ終了!手を離して!」

 ―――このとき。
 望美はかなり本気で言った。
 だが、知盛は手を離してなんかくれなかった。あまつさえ望美の手を引いて、望美を腕の中に引き込んできた。

「とっ、知盛っ……!」

 いきなり間近になった美貌に、望美は慌てて腕を突き立てて距離を取った。
 正確には、取ろうとした。
 だが、そんなことを許すくらいなら、知盛とて最初から腕の中になど誘い込まない。

「無駄だ……」
「な、ン・んんんっ……!」

 突然降ってきた凶暴な唇に、深く口の中に残る酸素まで奪われて、望美はすぐに酸欠になる。

「―――っ、や、やめなさい……!」

 不思議なことに、知盛はすぐに唇を離した。
 言ってやめるとは思っていなかった望美も、やめようと思っていなかった知盛も、不思議に思ったため、同じような顔で見つめ合ってしまう。不可解。
 その隙を利用したのは、やはり知盛だった。
 同じく戸惑ったとはいっても、知盛と望美では、この夜にかけるべき想いが違う。

「―――ンンッ……んっ……」

 身体中を抱き締めるかのような激しさはこの先を予感させ、どうしようもない熱さと未体験の感覚が望美を鋭敏にさせる。
 望美は身体中の力が抜けようとするのを、必死に抗っていた。
 そうでもしていなければ流されそうだった。
 目眩がする。
 誤解―――しそうになる。

「やめ、って……ッ!」

 もう一度、望美は知盛を押し返した。
 熱く潤みかけた翠と、熱情の欠片が見え始めた菫が交差する。
 これで知盛がいつものように欠片でも笑っていようものなら望美だって憤慨できたのに、知盛の表情は氷のようだった。
 しかもただ冷たいのではない。何かを抑え込んでいることが明白な菫色は、望美が見たこともないような色をしている。

「……何だ」
「こ、こういうのは、好きな人とやるんです!簡単にやらないで、っていうか、されて喜ぶ人にしなさいよ!いっぱいいるでしょう!」

 望美はまず真っ当に怒った。
 知盛は黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……それは、お前じゃない」
「え?」

 望美の頤に指がかけられ、間近な菫に望美の息が詰まる。

「俺が欲しいのは、お前だけだ……墨俣の前の夜のこと、忘れたとは言わさん、ぜ……」
「……なっ、あれは……!」

 ―――わざと頭から追い出していたものを、ここにきて明確に持ち出され、望美ははくはくと口を開けて、真っ赤に染まった。

「あれも嫌がらせ……!」
「そう、思うか?」

 間近な菫。見え隠れする情熱。
 ……本当はもう望美にもわかっている。
 ただ、わかりたくなかっただけ。
 虚勢を張っていたかった。わからない振りをしていたかった。

「………っ」

 完璧に黙ってしまった望美に、ようやく知盛は小さく笑った。立ち上がりついでにその身体を抱き上げる。

「ひゃっ…な、何するの……!」
「ここで…というのも無粋、だろう……?」

 傲岸な笑み。
 だが、それはいつにない艶を含んでいて、望美の息を止めてしまう。
 奥の塗籠に吸い込まれ、知盛が自分の直衣を解く衣擦れが響く。
 やがて、知盛の裸身があらわになった。
 闇に浮かぶ美しい身体に、望美はそっと息を呑んだ。

「どうした……やけにおとなしいな」
「あ、暴れて欲しかったら受けて立つわよ」
「クッ……」

 事ここに至って尚強気な望美に、知盛は苦笑する。風情のない。
 だが…それでこそ望美だ。
 知盛が初めて欲した女。

「じきに……暴れたくなる」
「あっ…」

 そうなのだろうか。
 知盛の手に腰を浚われながら逃げることもできない自分が、本当に暴れたりできるのだろうか。
 甘く熱い色に、心が溶かされてしまいそうになる。
 嫌がらせではなく、悪戯でもなく、知盛が本気なのだとしたら、自分はいったいどうしたらいいのだろう。
 異世界の、人間なのに。

「と……知盛……ッ……」

 唇が下りてくる。帯が解ける音が、やけに耳に響いた。

「ン……っ」

 もっと乱暴にされるかと思っていたのに、知盛の手つきは慎重だった。まるで大事に慈しまれているかのように錯覚しそうになる。
 ―――そうだとしても、このまま流されてしまっていいものだろうか。
 相手は知盛なのだ。
 最高の相棒にして、不倶戴天の敵である。

「ふ、あっ……」

 胸元があらわにされ、そこに知盛が吸いついた。小さく電撃のような刺激が走り、下腹部に疼きが走る。これは何?
 困惑と信頼と、咲きほころび始めた悦びがないまぜになって、望美を翻弄する。
 逆らえない。

「んっ…ああっ……」
「ク……感じやすいな……」

 白い肌は知盛の指先に吸いつくような触り心地で、反応は極上だった。
 知盛が落とすように微笑むと、その吐息だけで感じたのか、望美が恥じらうように身じろぎする。

「そ、なの知らな……っ」
「いいことだぜ……?」
「あ、なたに、でしょうっ……」

 気の強く、それでいて甘く揺れる声音に、今度は知られないように知盛は哂った。

(そうかもしれぬな……)

 できるなら望美を傷つけたくはない知盛にとって、望美が感じやすい身体であるのは僥倖だ。時間さえかければ、そう負担なく望美の身体は拓けるだろう。
 それの恩恵を被るのは望美だが、知盛もそれが嬉しいから問題ない。

「―――安心しろ…」

 低く掠れた声は、どこまでも艶やかだ。
 安心しろと言われたのに、ちっとも安心できない気がする。すごくする。
 望美は逃げかけたが、そうはならなかった。

「あっ……!」

 最後の帯が解かれる―――
 知盛は凄艶に微笑んだ。

「忘れられない夜にしてやるよ……」




 翌朝である。ちゅんちゅん鳴く雀の声で望美は仄かな仮眠から目覚めた。
 ……物凄い夜だった。確かに忘れられない。
 二人の噂は既に広まっているだろう。
 ふと横を見れば知盛がいなかったから、これ幸いと望美は逃げることにした。
 望美は何とか着つけると、知盛の室からのそり、と這い出して、重衡とかち合った。

「こんにちは、桜姫」
「……こんにちは、重衡殿」

 完璧な笑顔。だが、そこにうそ寒さを感じるのは何故だろう……。
 なんとなく直感で知盛の室に戻りかけた望美の手を、素早く重衡が掴んだ。
 身体が常より重くだるい望美は、うまく逃げることができない。

「昨日は盛況でしたね、兄上の誕生日を祝うという宴……」
「は、はあ」
「実は、今日は私の誕生日に当たるのですよ」
「えっ?」

 重衡はにっこりする。

「よかったら、私も祝っていただきたくて。そう大がかりでなくてもいいですよ。ええ、贈り物は、兄上と一緒で構いませんから…」

 まさに立て板に水のごとく流れる言葉と、強引に迫ってくる繊細な美貌に望美が押し倒されかける。そのとき。

「へっ?あ、あの……!」
「―――させるか、馬鹿め…」

 御簾の中から、知盛が望美の身体を浚った。
 望美は再び知盛の室に引き戻される。
 望美の手首に重衡の手が残ったままなのに気づいて、知盛は能面にそれを叩き落とした。……まったく油断も隙もあったものではない。

「これは、俺のものだ…」
「桜姫のご意思を聞きませぬと」
「クッ……聞くまでもない……だろう?」

 望美は知盛の室から出てきたのだ。
 静かで痛烈な牽制が響きあい、バチバチと木霊する。
 知盛に抱き寄せられたままの望美は目を白黒させる。

(な、何でこんなことに?)

 桜姫に寄せられる想いの数も深さも、本人だけが知らない―――知らなかった。
 戦時中であり、桜姫の憂いを思って誰も動かなかったから、ずっと静かだったのだ。
 しかし、均衡は動いた。
 かくて、戦いの火ぶたは切って落とされ、これから乱世に突入するのだが、望美はまだそれを知らない。
 だが、これもまたすぐに、嫌というほど知る羽目になるのだった。






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