―――ずっと傍で、願わくば自分が守りたかった、年下の少女。
心ならずも離れてしまった炎の夜に、教経はその想いに蓋をした。
この恋は、知られてはならない。
「教経殿っ……!」
和議が成った席、一目散に駆けてきた桜色のひとを、教経は咄嗟に受け止めてしまった。
そんな資格、自分にありはしないのに。
「お、お前っ!仮にも敵対の間柄だぞ!もうちょっと弁えろ……!」
飛び込んできた彼女を叱れたのは、抱きつかれた当人の、教経ではなかった。
法皇の後ろに控えていたもう一人の平家勢である資盛だ。
資盛の言うように、敵方であり、しかも平家を見限った形の軍団は、桜姫の突然の登場に戸惑いを隠せない。だが。
「わっ、資盛殿もご無事で……!皆も……!よかった…!」
「ぎゃあっ!きゅ、急にこっちに来るな!抱きつくな!苦しいだろうが……!」
そんなことは、桜姫には何らの障害にもならないようで、都落ちの際、最も決裂した資盛にでさえ、桜姫は躊躇いもなく縋りつき、無事を喜んでいる。
ほだされはじめた郎党の一人が、涙を浮かべた。すすり泣き始めた声も聞こえる。
「……桜様……」
「姫様……!」
歴戦の雄ですらこの有様なのだから、況や資盛をやである。
「ぐわっ、ま、待て、苦し……!」
教経はその場から静かに離れた。
……言葉と裏腹に真っ赤に染まった笑顔で腕を彷徨わせる資盛ほど自分が素直な性質であれば、あるいは、もっと素直に喜べたのかもしれないが……。
そうして、平家が京に還ることを許され、新たな邸が築造される間にも、教経はなかなか戻ろうとしなかった。
☆
秋と冬は慌ただしく過ぎ、春の徐目も結構荒れた。とはいえ、おおむね、大方の予想を大きく裏切らない人事である。
鎌倉の頼朝は形ばかり右大将に任命されるも、これを翌日辞退。慌てた法皇が右大臣に任命し、これで落ち着いたかと思うとこれも辞退して、結局無位無官。
荒れたと言えば、この位だろうか。
教経は、昇官もすべて辞退して、法皇の西面の武士のまま、小さな邸に引き籠っていた。
平家の再三の呼び出しにも応じないままで。
―――合わせる顔がない。すべての理由はこれに尽きる。
そうするうちに梅雨になり、雨の対策でまた忙しくなりはじめた。
呼び出しは間遠になり、いずれ忘れられるだろう。教経は既に平家の将としての立場はなく、いないも同然の存在なのだから―――
そう教経は思っていた。半ば確信していた。
それぐらい、都落ち以降の平家の役に自分は立っていない。
すべてを成し遂げてくれたのは、残っていた面子であり、彼らを束ねた総領姫たる望美であった。今更自分は必要ない。これが、まだ若い資盛などなら別として……。
そう、本気で考えていたから、少しばかり出かけた帰り、自分の小さな邸の渡殿に眠る桜色を見た瞬間、夢でも見ているかのように思った。
時間が引き戻されたかのような。
まだ遠く、清盛が怨霊としてでも生きていて、都落ち前の邸の片隅で、桜姫はよくこうしてうたた寝をしていて―――
「………本物か…」
はあ、と、大きく教経はため息をついた。
持っていた荷物を床に置いて、とりあえず近づく。何にしても起こさなければ話が始まらない。
「―――桜殿、……桜殿、起きられよ」
ぺちぺちと、軽く頬を叩いても、よほど深く寝入ったものか、なかなか起きない。
間近で見た顔は、記憶よりも大人びているが愛らしさは残されたまま―――というか、ほぼ変わらない。
考えれば当たり前だ。
少女は、別れた都落ちの夜からほんの半年で、福原まで舞い戻り、ついには和議を成さしめてしまったのだから。
教経は、離反した小松一派の翻意さえ促せなかったのに。
『こんなところで寝ると風邪をひく』
……清盛の言葉まで思い出して、教経は深くて重いため息をついた。
あの後散々叱ったはずだったのに、こんなところでこうしてごろ寝しているということは、ちっとも効き目がなかったということだ。
教経は仕方なくすうっと息を吸い込んだ。
「―――桜姫!」
「はいっ!……あっ……教経殿……」
翠の瞳が急覚醒して見開かれ、その色に教経は吸い込まれかけた。
教経は己を自制する。
「―――まったく。何をしているのです、こんなところで」
「す、すみません、教経殿。お留守のお宅で」
「そういう問題ではない!」
「は、はいっ」
相変わらず見当違いのところに謝罪する望美に、教経は苛立ちを感じた。
そんなことを怒ったことは一度もないのに、どうしてそれを謝るのか。
―――どこか、寂しさが胸をついた。
そんな資格、自分にありはしないのに。
感傷を打ち消すために、わざと教経は渋面を作り直した。
「……それで?何の用なのですか」
用がなければ来ないだろう。その用がどんなものでも、今の教経に関係するとは思えなかったが、結局のところ、教経も平家の動向は気にかかるのだった。
特に、この少女の先は。
「――――はい」
必死に頭を下げていた望美は、ふと居住まいを正した。
「教経殿に、平家一門として官位を受けていただきたく、お願いに参りました」
揃えられた爪先は桜色。
丁寧ながら断固とした声音は、すぐに「はい」とは言われないことを覚悟しているかのようだった。
「何を……」
「教経殿、平家はまだ危ういのです。どうか、支えに戻ってはいただけないでしょうか」
憂いを刷いた瞳の色は深淵の翠。先ほどのようにもう呑み込まれはしないけれど、それでもその色は、教経の心を揺らした。
「……平家には知盛殿、重衡殿もいらっしゃる。それに貴女も……」
言いかけて、教経はハッとした。まさか。
「―――もしや、還られるのか、桜姫。貴女の元の世界へ」
「………」
望美の瞳が、困ったように揺れた。
打てば響くような望美には珍しい逡巡に、本気の迷いを感じ取った教経は、そっと息を呑んだ。
―――桜姫が。
異世界の少女が、平家のことでなく、自分のことを考えられるようになったのなら、それはきっと正しいことだ。
そう思う、のに。
「……わかりません。そうした方が、いいのかも、とも……思う、けど」
躊躇いなのか、寂しさなのか。
揺れる翠と震える肩を、支えたくなる。
教経は、わざと大きくため息をついた。
「平家がそれほどに心配か……」
「………」
望美は答えない。それが何より雄弁な答えに教経には思えた。
献身の少女。
細身で大剣を操り、女の身で鬼謀の将と恐れられた桜姫。
だが、もう解放されてもいいはずなのだ。
教経は膝を折り、望美の間近に腰を下ろすと、躊躇いながらもその頭を撫でた。
「―――そう案じることはない。貴女も知る通り平家は武士の一門。ここまで返り咲いたからには、そうそう遅れは取らぬ。だから」
そこで、パン、と乾いた音がした。
望美が教経の宥める手を振り払ったのだ。
憂いの瞳には怒りにも似たものが広がり、烈火のごとき気配が纏われている。
「だから還れと、そう仰りたいのですか」
「―――桜姫……」
「そ、そんなに疎ましく思ってらっしゃるのですかっ……だから、お帰りにもなっていただけないの?どうしてっ……」
「桜姫……っ」
それまでの佇まいが嘘のように望美は取り乱し、その瞳からは今にも大粒の涙が零れ落ちそうになっていた。
いつだって凛然としていた桜姫とのギャップが教経をうろたえさせる。
―――守りたかった少女。
「落ち着きなさい……!」
とっさに抱き締めてしまった教経だったが、気づいたからといってすぐに放すことはできなかった。腕が、離せない。
また、望美も離れようとはしなかった。
抱き締められたままじっとして、しばらくして、吐息のように謝罪した。
「すみません……取り乱して……」
「……いや…」
離せない。
望美の謝罪をきっかけに、身体を離せばいいのに、どうしても動けなかった。
雛鳥のような柔らかい身体。
仄かに香り立つ花の匂いに、教経の理性が揺れた。伝えまいとしていた恋が、鼓動を鳴らす。
「……おかしいですよね、つい、涙腺が緩んでしまって。ごめんなさい、甘えて……」
「貴女に甘えてはいけないなどと言う気はないが……」
「ふふ、ありがとうございます……」
柔らかな声音はまだ涙声で、弱弱しい。
守りたいと、強く思わせる。だが、今更どの面下げて?
教経は、今一度心を押し殺し、下腹に力を入れると、望美の身体を引き剥がした。
隙間風に心がきしむ。
それを教経は、感じない振りをした。顔を逸らす。
「―――そろそろ帰りなさい。夜とはいえ、この辺りは物騒だ」
「……帰りません」
離れようとした教経の衣の端を、望美が捕まえた。
どこか思いつめたような瞳。
これと同じ色を知っているような気がして、教経は目をもう一度逸らすことができない。
「教経殿と一緒にだったら、帰ります」
「……姫」
窘めるような声音にも、望美は首を振って教経に縋った。……都落ちのとき、一度は諦めて、離してしまった腕。
一度諦めたならば、二度と離したくないというのは、我儘だろうか。
―――もしそうだとしても。
「一緒に、いたいんです。……どうして?資盛殿だって戻ってくれたのに、……戻ってくれるって、文には書いて下さったのに……!」
望美は思わず、拳を教経の胸に打ちつけた。
一度打ちつけ、言葉にしてしまうと、止まらなくなる。またあんな風に取り乱すのは嫌なのに、止められない。
止まらない。
「あれは……」
「もう時効ですか。まだそんなに経ってないですよ」
どこか気の強い駄々こねに、教経は思わず苦笑した。
「……無茶を言う」
「わ、我儘なのは百も承知です!」
さざ波のように広がる苦笑に、望美は少しばかりむくれた。子ども扱い。
(うう、だから毅然としていようって思ってたのに。私の馬鹿……!)
だが、やってしまったものはしょうがない。
この際子ども扱いされていることを利用することにして、望美は勢いよく教経に抱きついた。
「えいっ!」
「さ、桜姫…っ?」
「駄目です、一緒に帰ってくれるまで離しませんよ……!」
引き離されまいと、力一杯しがみつく。
……教経にとって自分が子ども扱いなのはこの際、仕方ない。
年齢はずっと下だし、教経にとって、きっと弟子のようなものなのだろうから。
でも。
芽生えかけて隠れた恋心の宛先を、間違えたりしない。
「―――姫、離しなさい」
掠れた声に怒りの気配を感じつつ、望美は頑なにそれを拒んだ。この戦法は、そうそう使えるものではないのだ。羞恥心的にも。
一方、教経としてもたまったものではない。
柔らかい身体は、男の理性を簡単に揺らす。剛の者で鳴らした教経でさえ例外ではない。
ましてやそれが、恋した相手であるのなら。
教経は、決壊しそうな理性を瀬戸際で抱え、教経はぎり、と唇を噛み締めた。
いくらしがみついているといっても、教経には儚い力。
だが、その儚い力が平家を守ったのだと思うと、どうしても無碍に振り払うことができなかった。
愛しさと、自戒がせめぎ合う。
二人ともに。
「……桜殿、頼むから……」
「じゃあ私のお願いも聞いて下さい……!」
―――結局折れたのは、教経だった。
「わかった…」
粘り勝ちでもぎ取ったような返答だったが、望美は純粋に嬉しくてばっと顔をあげた。二人の瞳がかち合う。
そして、急に抱き上げられてしまった。
「ひゃっ…」
「そこまでの覚悟なら、いいだろう」
……折れたとは言えないのかもしれない。
教経はそのまま、望美を抱きかかえて御簾の奥に入ろうとする。
入れば、すぐそこに褥が敷かれていることを知っている望美はうろたえた。……望美が室内で待てなかった理由でもあるのだが。
「の、教経殿?あの…っ」
「離れないなら、それでもいい」
褥に、望美は壊れ物のように大事に横たえられた。
熱を帯びた瞳が望美を見つめる。そこに、子ども扱いするような色はなく、望美はこくりと喉を鳴らした。
―――望美の知る教経は、戯れや脅しでこんなことをする人ではない。
ならば、想いは、同じなのだろうか。それとも……?
「……逃げるか?」
不意に囁きかけられて、望美は戸惑った。
(……逃げる?逃げたい……?私……)
まだ、この想いを打ち明けても、確かめてもいない。こんなつもりで、ここに来たのではないし、ここに来た目的だって、達せられていない。
だが、既に思考は初めて見る瞳に絡め取られていた。
逃げる―――逃げたい?
「逃げません……」
まるで自分の声ではないようだった。
胸が、早鐘を打つ。逃げたくないのに、逃げ出したいような気分になる。
「―――んっ…」
それは、口づけられて一層深くなった。
「ン、…教経ど、……ンッ」
こんなつもりではなかった―――というのは、少しだけ、嘘な気がする。
教経の褥を見たときに、少しだけ邪なことを考えてしまった。
(戻ってもらえない、ときは)
平家に戻って欲しかった。それは、嘘ではない。
今いる面々の能力に不安は覚えないが、人柄には不安が残る。望美が始終尻を叩かなければ、平気で手を抜きそうな男もいるのだ。
だが、教経ならば、その点の心配はない。
だからお願いして、それでも叶わない時は、……自分の恋だけでも終わらせられないかと、思わなかったと言えば嘘になるのだ。
小さく芽吹く、想いがきしむ。
「ンン、のり、んうっ……」
わずかずつ、肌が晒されていく。
未体験の感覚に翻弄され、望美は恥ずかしさのあまり、逃げたくてたまらなくなった。
でも―――逃げたくないと強く思う。
相反するそれらを抱え、施す愛撫に未発達の反応を返す望美に、言い知れぬ愛しさとそれを上回る吸引力を教経は感じた。
何も言わず、問わず、このまま押し流してしまうことに、頭の片隅で警鐘は鳴るのだが、どうしても抗えないものが、教経を急き立てようとしている。
「……美しいな」
「あ、あまり見ないでください…」
小さく教経は笑って、黒髪を解いた。艶やかな闇が広がり、望美の顔を囲む。
教経しか見えなくなりそうだった。
「無理を言うな。見ずには触れられぬ」
「そ、ですけど……ッン……!」
唇が辿る―――そこから新たな熱が生まれ、別の何かに作り替えられていくようだった。
熱と、教経の瞳に溶かされる。
そう望美が思うように、教経もまた、いつにない自分の変化を感じていた。
これは、自分の想いが特別なのか?それとも、桜姫自身が?
(この娘は、白龍の神子。……異世界から顕われし、救国の存在)
もはや少女とは呼べぬ優艶な肢体を組み敷きながら、どこか厳かな思いを抱かずにはいられない。
聖域を侵すような恐ろしさと、征服欲が行き来して、理性の塊である教経でさえ自分を見失いかけていた。
塗り潰される闇を導くのは、自分の欲、そして、桜姫の声だけだった。
「ッ、あっ…ふあっ……!」
尖っていく声。それでも拒まない甘い声に誘われて、最果てに向かうまで、教経は我を忘れた。
そして―――
「……まだ言ってなかったな……貴女のことが好きだと」
月の昇った頃合いに、ようやく教経は打ち明けた。望美が―――潤む。
「願えるなら……貴女とともに、平家に帰るが……貴女はどうか……?」
優しい問いかけに、望美は万感の思いを込めて抱きついた。
恋人の生まれた夏の短夜を、ただ月だけが見守っていた。
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