生きていた頃は、見つめていることしかできなかった。
守るために怨霊になってさえ、十分それが叶ったとは思わない。
だから、今は、尚更守りたいと思うのだ。
かの人にもらった、命だからこそ。
京の夏は、暑い。
盆地特有の熱気が、どうにも惟盛は苦手であって、それはいつでも変わらなかった。
生前も、怨霊だった頃も、今も。
「……暑いですね……」
言っても変わらないのだが、つい愚痴ってしまう。
衣を知盛のごとく寛げていてさえ、暑さは些かもマシにはならない。
惟盛は心底暑さにげんなりとしていた。
だが、惟盛の最愛の恋人であり、平家の守護女神は、暑くても寒くても、人一倍元気なのだった。
今日も朝から動き回っている。惟盛から見ればどうでもいい、桜姫に無理ばかり押しつける京の民のために。
「―――まったく、人が好いというか……」
まだたまに出没するという怨霊退治。
それは、確かに白龍の神子である桜姫――望美にしかできないことだ。
惟盛は放っておいても構わないと思う。
大概の怨霊はもはや小物であって、そうたいした被害をもたらすものではなく、応龍の加護行き渡るこの世界では、そのうち龍脈の中に組み込まれていくだろうからだ。
だが、生真面目な望美はそうは思わないものらしい。
いつもならば、惟盛もついてゆく。
怨霊と対峙する以上そこは絶対に安全な場所などではなく、誰よりも守りたい存在である彼女がそこに行くという以上、守る役目を他の誰かに譲り渡したいものではない。
たとえ無意味なものだと思っていても。
それが、この体たらくである。
(くっ……私としたことが……!)
――――本当に、今年の夏は暑い。こんな夏は、味わったことがない。
日陰にいても、水を飲んでも、扇で仰いでも無駄。
郎党たちが庭に打ち水をしているが、半刻もしないうちにそれらはすべて干上がってしまうのだ。よって、これも無駄。
それでもこの暑さなのに、神泉苑は言うに及ばず、各地の水がめは一切枯れるような気配を見せないという。これも応龍の恩寵だろうか。
(―――当然ですね)
惟盛は暑さでうだった頭で、大きく熱い息を吐いた。
(水がめが枯れれば、彼女が悲しむ。応龍があの方の龍だというなら、彼女が悲しむようなことを看過するはずもない)
いつだって惟盛が桜姫の笑顔を守りたいのと同じように―――
癪なことだが、応龍もまた同じように思ってこの世界を守護しているのだろうということを、惟盛は疑ったことがない。
当たり前だ。
あの桜姫の龍だというならば、それぐらいはして当然で―――
……もはや頭が同じところをぐるぐるしているのに、ふと惟盛は気づき、億劫ながら身体を起こした。
「いけませんね……」
惟盛は億劫な手を動かして、傍に置いておいた水差しを傾け、すっかりぬるくなった水を玻璃の器に注いでそれを飲み干した。
少しは体調を戻しておかなければ、また心配をかける。
行きがけにも彼女は、随分心配して離れなかったのだから……。
くす、と惟盛は思わず笑みをこぼした。
あれは役得だったかもしれない、そう思ったときである。
急に晴れていた空が曇り、空から涙のように大粒の雨が降ってきた。
途端にあたりは雨で埋め尽くされる。
(夕立か)
惟盛は顔を顰めた。―――桜姫が濡れる。
ついている者たちが、多少なりとも気が利いていればいいが、そんなことはわからない。元々惟盛は他人に期待などしない。
いっそのこと、迎えに行こうか―――そんなことを考えている間にも雨はやみ、空には大きく虹がかかった。
七色の虹。
この時空では、虹は不吉。だが、桜姫の世界では、虹は吉兆なのだという。
その麓には幸せがあるのだとか。
綺麗なものが好きな惟盛には、生まれ育ったこの時空の言い伝えより桜姫が言う方が、ずっと正しく聞こえる。
だって、こんなに綺麗なのだ。
惟盛はため息をついた。どうせこんな綺麗なら、彼女と一緒に見たかった。
どんなに美しいものも、一人で見るより二人で見た方が一層楽しく、心が躍る。
より美しく見えるというのに―――
惟盛がひとつ、溜息を吐いたときだった。
「……盛さん!」
馴染んだ声が響いた気がして、惟盛は目を瞬いた。気の所為か?―――いや。
朗らかな声。惟盛がこの声を聞き間違えることなどない。
「桜姫、お帰りに―――」
微笑みいっぱいに振り返ろうとして、惟盛はぎょっとした。
「さ、桜姫!何ですその恰好は……!」
庭にひょっこりと現れた愛しの恋人は、惟盛が懸念した通り、びっしょりと濡れて、衣がぴたりと身体に張り付いている。
薄衣のように透けてはいないが……充分、目に毒だった。
うろたえる惟盛に望美は呑気に笑う。
「あはは、雨に濡れちゃって。もう近かったから、突っ切ってきちゃいました」
したたる水の雫が、再び顔を出した太陽の光を跳ね返してきらきらと光る。
桜色の髪が艶やかさを増して、惟盛の胸を高鳴らせた。
先ほど見た虹よりも尚、その姿は惟盛の心を打つけれど、正直それどころではなかった。
「なっ……だ、誰も何も言わなかったというのですか!」
惟盛は一瞬にして目の前が真っ暗になった。何て役立たずな者たちだろう……!
(役に立たないのもほどほどにしろと言うんですよ……!)
惟盛は心の中で八葉たちを罵倒する。
望美はぺろっとおどけたように舌を出して首を竦めた。
「うーん、だから、……えへ、実は置いて来ちゃったんです」
「お、置いて来ちゃったッ……?」
惟盛は目を剥いた。顔は蒼白だ。
役立たずどころではない、どうしようもないではないか!
惟盛の形相にかまわず、望美はのほほんと頷いた。
「はい、用事は終わったし、虹が出ていたから、惟盛さんと見たいと思って」
「っ……!」
「ちょっと虹を見るだけなら、暑くても大丈夫ですよね?」
光を弾く水の雫よりも笑顔が眩しく、惟盛は言いたいこと全部を封じられて、心の中で悶絶した。
(くっ、何ですか、この可愛らしさは……卑怯です、桜姫っ)
以前よりも望美は明るくなった。
そして、惟盛には甘えた仕草を見せてくれるようになった。呼び名も変わった。
それは戦時中には―――そして、恋仲でなかった頃にはありえないことだったので、これに振り回されるのも、惟盛には至福のひとつであることは間違いがない。
だから何も言えなくて、……けれど負けたままではいられなくて。
「―――桜姫、こちらにいらしてください」
不意に呼ばれ、消えゆく虹を見ていた望美は振り返って、小首を傾げた。
「……惟盛さん?」
浮かんでいたのは艶冶な笑み。
差しのべられた手は白く、望美は誘い込まれるように、それに自分の手を重ねた。ひんやりとした感触。
惟盛はほっそりしたその手を引いて、渡殿に至る階段の中ほどまで歩かせた。
そして、抱き上げる。
「ひゃっ、こ、惟盛さんっ?」
夢見心地から醒めた望美は、とっさに惟盛につかまりながら、目を白黒させた。
何だっ?
困惑する望美に、惟盛はにっこりと笑う。
「……こんなに濡れてしまわれて……夏とはいえ、用心が必要です。さ、湯殿にお連れ致しましょう」
「えっ」
腕の中のたおやかな肢体は、やはり儚い。
柔らかくて、力だって男には敵わない。
惟盛はそう屈強な方でもないというのにだ。
それなのに、桜姫という女人に、置いていかれる不甲斐なき八葉。
やはり、自分が守らなければ。
彼女の一番、傍で。
……たっぷりと。
惟盛は、逃げられないように望美を抱き直すと、すたすたと歩き始めた。
渡殿に雫が零れて跡を残す。
「あ、あの、惟盛さん!自分で行きます…!」
雨にびっしょりと濡れてしまったためにいつもより重いはずだ。
それでなくとも惟盛まで濡れてしまうことが忍びなく、望美は心底慌てるが、惟盛は取り合わない。
「ご自分で歩いたら、渡殿の床がもっと濡れてしまいますよ?」
「うっ…」
いたずらに郎党や女房の手間を増やすことを厭う望美を見越しての言葉である。
案の定、望美は口ごもった。
しかし、素直に引き下がったりはしない。
「ゆ……湯殿までですよね……?」
「………」
完全に親切から出てきた行動であるにもかかわらずこの質問が出てくるあたり、望美は惟盛の性格をよく分かっていると言えよう。
惟盛は、基本的に人を信用しない。やり始めたことを人任せにしないのだ。
その性格自体は悪いことではないのだが、行こうとしている場所が場所。
そして、これは、恋人になってからなのだが……。
惟盛は、自分には時折意地悪になる。
要は、愛されているからこその意地悪なのはよく分かっているから、望美にも抗いづらいのだが―――
「こ、惟盛さん……っ」
「何ですか、桜姫?」
答えない惟盛の襟を、頼りなく引いた望美に返ってきたのは、気持ちいいほど清々しい微笑みだった。
悪いことなどひとつも企んでいそうにない―――絶対に企んでいる笑顔。
この笑顔、実は重衡によく似ている。
さすがは一族というべきか。何という一族というべきか……。
「お、降ります!自分で行きます!」
「ふふ、急にどうしたのですか?おとなしくしておいでなさい、落ちますよ?」
いっそ落としてくれ、と望美は思ったが、惟盛がそんな失態を犯すはずもない。
湯殿には残念ながら助けになるような人はいなくて、望美は再び、麗しい笑顔の惟盛と対決しなければならなかった。
……無言の戦いを交わした後、奥へ一緒に、二人きりで連行された。
☆
―――夕刻。
渡殿にて、経正はふと、珍しいものを発見してしまった。
ここのところ、暑さでぐったりしていたはずの惟盛がいきいきと微笑んでいる。しかもその膝でくったりとしているのは……逆にいつも元気なはずの桜姫ではないだろうか。
「……いつもと逆ですね、惟盛殿」
「おや、経正殿。―――ふふふ、そうですね」
惟盛は上機嫌に微笑んだ。
そういえば、ここのところ、よく桜姫に膝枕してもらっていた気がする。
その時は暑さでやられて、何も考えられなかったのだが……そう言われれば、いつもとこれも逆か。
惟盛はしれっと扇を閃かせて微笑んだ。
「普段のお返しです」
「……そうなんですか?ですが……」
その割には、眠る桜姫の顔が、幸せというより疲労困憊の風情なのだが……気のせいだろうか。経正は首を傾げる。
……そこでふと、経正は気づいてはならないものに気づいて、困ったように苦笑した。
(……このせいか)
小さく咲いた、赤い花の所有印―――疲れきってしまった様子の桜姫。いきいきとした惟盛殿。
示すものは明白で、二人の関係を承知しているだけに、経正も咎めようという気は起こらないが……。
「―――ほどほどにして差し上げて下さいよ、惟盛殿……」
「何のことでしょう」
「よく御存じのことですよ」
「さっぱり見当がつきませんねえ」
怨霊であった時も、人に戻れた後も、桜姫に関してだけは譲らぬ惟盛に、もう一度苦笑を零して、経正はその場を立ち去った。
暮れなずむ空。
夏の空は暑すぎて、暮れ始めてようやく、涼風が吹き始める。
乾き始めた桜姫の髪がさらりと風に揺れ、惟盛はそれを幸せそうに眺めた。
対して、膝枕されている望美の表情は、どこか苦悶に満ちている。
……腕の中で啼く姿は極上で、ついつい可愛がり過ぎてしまったかもしれない。
湯殿はそれなりに広く、昼間の明るさも手伝って、桜姫の肢体をあますところなく見ることができたから、ついつい全身で可愛がってしまったではないか。
だからこれは、当然の帰結か。
「ん…」
声に気づいたのだろう。望美がむずがるように身じろぎするのを、惟盛は優しく押しとどめた。
「もう少し、おやすみなさい、桜姫……」
貴女のことは、私が必ず守りますから…。
頬にかかった髪を慎重に取り除き、赤みのさした頬をつつく。
そうしていたら、望美の呼吸はまた安らかな寝息に変わり、身体の緊張が抜けていく。
何もかも委ねられているようなこの感じはかなりいい。惟盛は満面に微笑んだ。
そしてふと、惟盛は庭に視線を転じる。
いつもと同じ庭の風景。
それでも、昼間うだるような気分で眺めた庭とは全く違って見えるから、我ながら現金なものだと思う。
だが仕方ない。
どんなに美しい風景も、一人で見るには味気なく、彼女と見ればその美しさはいやがうえにも増すのだと、自分はもう知ってしまったのだから。
知らない頃には戻れないし、戻る気もない。
ずっとずっと、傍にいる。
「愛してますよ、桜姫……」
そうして、夕餉の準備が整い、楓が探しに現れるまで、二人は―――主に惟盛は、夏の夕べを満喫していたという。
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