ずっと傍に






 春にふさわしき名を持つ人が妻になったとき、景時は初めて自分の幸福を噛み締めた。
 最初は、傍にいられるだけで幸せだった。




 和議が成った最初の春。
 梶原京邸には、新たな花が咲いていた。
 本名は春日望美。または、桜ともいう。
 邸の主・梶原景時の正妻にして、平家一門秘蔵の姫である。
 朔はふと、その人を渡殿で見つけた。
 桜色の髪を背に流し、何故か渡殿の端に座り込んでいる。

「―――桜姫?どうしてそんなところに……あら?」

 朔は小走りに近づいて、それを確かめた。
 見慣れない表着。柄らしい柄はほとんどないが、織と色合いが美しい。
 白から薄紅の重ねに紫苑が差し込まれ、望美の髪の色を引き立てていた。

「綺麗な衣装ね。平家の方から?」
「ううん、違うよ。景時さんから」

 朔は目を丸くした。
 趣味のよい衣装。派手でも地味でもなく、着る人間をちゃんと知った感じの。

(政略結婚だったのに)

 ―――そして、そんなに時間は経ってもいないのに。

「これを、兄上が?」
「そうだよ?」

 小首を傾げる望美は、年上なのにどこか可愛らしい風情だ。
 自分のように意外には思っていない様子に、朔は心の中で二人の関係性を書き換えた。
 ……実は、少しばかり心配もしていたのだけれど。

「そう。綺麗ね。兄上にしては趣味がいいわ」
「ふふ、今年の晴れ着も景時さんが選んでくれたんだよ」
「―――あれも兄上が?」

 朔は、今度こそ本気でびっくりした。
 ……今年の正月は、特別なものだ。

 源平の和議後、初めての正月であって、京中が喜びに沸きかえり、その宴はいつになく豪勢なものになった。
 新年の宴は言うに及ばず、小正月の宴ですら、元旦よりは控えめであったというが、盛大なものだったという。
 小正月の宴には桜姫として望美も招かれ、纏った晴れ着は内裏でも評判だったという。
 朔から見てもそれは本当に美しいもので、てっきり雅やかなことが得意だろう平家の誰かから、身内として望美に贈られたものだろうと朔は思っていたのである。
 まさか、兄からとは。

「まあ……兄上でも褒められるところのひとつはあるものなのね」

 そうして朔が、感嘆のため息をついたときだった。

「――――どういう意味かな、それは」

 深くて柔らかい響きが、どこか苦笑するように響き、望美が気付いて立ち上がった。

「景時さん!」
「あら、兄上。今日はお早いのですね」

 直衣姿の景時は珍しい。
 景時は軽装を好むので、邸に帰ったら、いつも自室に直行し、着替えてから二人の前に現れることが多いのだ。
 それも、いつもならばもう少し遅い時間だ。

「……まったく、少し早く帰ってきたらこれなんだからもー」

 報われないなあ、と、景時がぼやいた。早く帰ってきて一番に聞くのがあれとは。

「兄上の普段の行いが悪いのですわ」
「そんな……朔ったら」

 朔は悪びれずに微笑み、望美は困ったように苦笑した。
 この兄妹の力関係は、平家では見られないものである。どっちに味方すればいいのやら。
 はあ、と景時は頼りないため息をつく。色々諦めて、話題を変えることにした。

「―――それで、こんなところで、二人して何をしているの?」

 望美と朔は、顔を見合わせた。

「私は、桜姫がこちらにいたから来ただけですわ」
「私は庭を見ていたんですよー」
「庭?」

 景時は庭を見遣った。
 まだ春浅き頃。
 梅はほんのりと咲いているがそんな程度で、他の公家と同じ寝殿造にはなっていても、武家邸であるがゆえに、庭はそう彩りに溢れてはいない。
 若い女性が魅入りそうなものはない。贔屓目に見ても、殺風景な庭である。

「何か珍しいものでもあった?」
「はい、たぶん……ですけど」

 望美はどこか寂しそうに、微笑んだ。

「あの辺り―――譲君が整えたんじゃないかなと思って」

 朔と景時は顔を見合わせ、望美の指す方に目を凝らした。

「え?―――まあ、そうだわ」
「花壇っていうんだっけ、あれ」
「はい。……やっぱりそうですよね」

 景時の問いかけに、望美はにっこりと頷いた。よく覚えてくれている。

「ここのお庭は、庭師さんが世話をしてくれているから……今日まで気づかなかったんですけど。ああやって石で囲うのはこの時代の感じじゃないし……そうかなって思ったら、何だかじっと見ちゃって」

 望美は淡々と語る。
 だが、その横顔には、普段は見られないような切なさがにじんでいて、景時は言葉を詰まらせた。
 凛とした風情―――可憐な横顔。
 平家の姫将軍、怨霊姫。
 異世界の少女。
 どんな意味でも、自分の傍にいてくれるというのが不思議な存在である愛しい人。

「―――…」
「まあ……もっと早く教えてあげればよかったわね」
「ふふ、懐かしいだけですよ」

 望美はふんわりと笑う。
 だが、景時はたまらなくなって、ぐ、と拳を握り締めた。自分なんかが口にしてはならない、言葉がある。

「―――俺は部屋に戻るね」
「兄上?」

 唐突なタイミングで景時は踵を返すと、朔にも答えようとしないで、そのまま歩き去ってしまった。







 異変は、夜になっても続いていた。
 夕餉になってもろくに景時は喋ってくれなかったので、何だかご飯を食べたという気がしない。

(……何か、やっちゃったかなあ……)

 望美は小首を傾げる。何だか、寝所に行くのが億劫だ。そこは、二人きりなのだし。

(そ、それどころか、来てもいなかったらどうしよう―――)

 望美はぐるぐる考えたが、心当たりがない以上、打開策なんて見つかるはずもない。
 恐る恐る、望美が寝所を覗くと、そこにはちゃんと景時がいた。
 望美は少しばかり胸を撫で下ろす。
 だが、声をかけるのに若干の勇気はいった。

「か……景時さん」
「ん?どうしたの?」

 完璧な笑顔。
 望美は一瞬凍りつき、どうしたものか、本気で困った。
 平家では良くも悪くも正直者が多い。
 こんな笑顔を探らなければいけないとしたら重衡くらいで、彼だって、もう少しわかりやすかったはずだ。
 それは、共に過ごした時間の違いなのかもしれないが。
 望美はどうしたらいいのかわからなかった。
 だから、その一言は本当にただ零れ落ちたものだった。

「―――…好きですよ…」
「えっ」
「う、あ、あれ?」

 言われた景時だけでなく、言った本人も驚いた。な、何でこんなことを。

「す、すみません―――出直します!」
「待って!」

 恥じらいどころでない羞恥を覚え、望美は駆け出そうとして、腕を掴まれた。

「―――もう一回、言って」
「えっ、な、何をですか」
「君が言ってくれたことだよ」

 望美はうろたえた。言ったこと。……覚えている。だけど、どうして?
 だって、何の脈絡もない言葉だったのに。

「あう、その」
「言って」

 望美は何とか逃げようとする。だが、景時は本気だった。
 本気で懇願する。希う。

「……言って。聞きたいんだ」
「ううう」

 景時の甘く掠れた声に、困惑しつつも望美は陥落した。へたっと腰が砕ける。いつも思うが、この声は反則だ。
 景時が近づいてきて、無理に口づけでもされるかと思ったのに、景時はそうしなかった。
 囁く。

「―――お願いだよ」
 望美は困惑した。でも、景時の様子がおかしかったのもあって、ずっと口を噤んでいるわけにもいかない。
 望美は覚悟を決め、そっと息を吸い込んだ。
 戦場より緊張する。

「……す、き」

 ようやく零れた言葉は、さっきとは比べ物にならないくらいに小さく、儚かった。
 でも、景時には聞こえた。耳を澄ましていたから。
 そっと―――破顔する。

「……嬉しいよ。ホント?」
「ほ、ホントです。嘘なんかつかない……」
「でも、初めてだったから、俺は嬉しい」

 ―――好かれていないとは思わなかった。
 彼女は、意外と潔癖で正直なところもある人だったから、嫌いなら傍にいてくれたりはしないだろう。平家の邸に景時が通う形だってよかったのだから。
 だけど。

(君は……ひどく理性的で、献身的でもあるからね……)

 政略婚を続けるために、あの夜の約束のために、ここにいてくれているのだと、それも疑ってはいなかった。
 彼女に自分が好かれている、なんて、思ってもいなかったのだ。

「景時さん……」

 じんわりと染み入るような罪悪感のようなものを、望美は感じた。
 美しい衣を折に触れて贈ってくれるように、ただ惜しみなく注がれる愛をただ受け取って、癒されて、返してもなかったような気がする。

(……それで、様子がおかしかったのかな)

 望美は罪悪感の底に流れる、優しく育まれていた想いが突き動かしてくるままに、景時にそっと、自分から口づけた。
 景時が僅かに強張ったのがわかる。でも、避けられるような気配がないのに甘えて、望美は小さく甘えるような口づけを何度も繰り返した。想いよ、伝われとばかりに。

「さく、らひめ」

 閨で、こんな風に望美が自分から行動してきたことはない。
 戸惑いと愛しさがないまぜになりながら、景時は望美の口づけを受け続け―――それだけでは足りなくなってしまってきた。
 繰り返される夜の営みは、徐々に景時を欲張りにしていくようだった。
 最初は、ただ傍にいられるだけで幸福だった。一番近い位置を思いがけず手に入れて、それで十分満足していた。そのつもりだった。
 ―――だけど。

「あっ…景時さ……!」
「ごめん、火がついちゃった」
「―――っ…」

 押し倒された望美は、見下ろす景時のいつにない熱の浮いた目に魅入られる。
 身体が、動かなくなってしまいそう。
 景時の手が、しゅるりと夜着の紐を解いてしまい、望美は火照る肌に羞恥する。
 この先を、知っている。―――だが。

「衣装、綺麗だったね。よく似合ってた」
「えっ、あ、はい、…その、ありがとうございました…」

 景時が言うのが、今日届いたばかりの表着のことだと察して、望美は慌てて礼を言った。そういえば、まだ言ってなかったのだ。
 不意に別の話題を持ち出されたため、望美の思考は余所にいき、身体の緊張は一瞬解かれた。
 景時は、甘く、いじわるに微笑んだ。

「だけど、晴れ着のときみたいに、一番に見せてはくれなかった」
「へっ?……ンンン!」

 そんなことを言われるとは思っていなかった望美は、噛みつくような口づけに身構えることを忘れ、口の中の酸素も全部奪われてしまった。

「ん、はっ……景時、さ」
「綺麗で、見た瞬間、本当は息が止まったよ―――だけど」

 景時はせわしなく動き、唇で望美の言葉を封じてしまう。
 吐息が行き交い、二人の衣はすぐにわきに追いやられた。
 白い身体を組み敷いて、景時が、既に息が上がってしまった望美を見下ろした。
 ああ今も―――何て綺麗なんだろう。
 景時は、望美の無防備な耳朶を食んだ。

「朔がいて―――君が、譲君を懐かしむから、……言えなかったけどね」
「ン、そんな、…見せようと、着たのにっ」
「そうなの?」

 首筋、そして、小さな肩口に下りてゆく。
 望美の身体は、どこもかしこも白くて甘い、何かの果実のようだ。
 景時は酔い痴れ、一方で、翻弄されつつ、主張はしようと望美が奮闘する。

「そ―――ですよ、苦労、してっ……」
「俺に見せたくて?」
 ―――ここで、望美の顔が、さらに赤く染まってしまった。
 威勢はそぎ落とされ、吐息が困ったように吐き出される。

「……そ…ですよっ……」

 すき、と、囁いてくれたときよりも小さな声音に確かな愛を感じて、言わせたかった言葉をもらった景時は、充足感を噛み締める。
 だが、欲張りにももっと欲しいと餓える思いが胸を焦がした。
 傍にいて、幸せで、愛されて、もう十分なはずなのに。
 全然、足りない。

「―――なのに、朔に先に見せちゃったんだね……」

 望美は、何故だか悪寒がした。
 声は優しいのに、どうしてだろう、ひんやりとした何かが、望美を冷やす。

「か、景時さん……?」

 優しい夫を、懇願するように、見上げてみるが―――

「先に朔に見せてしまった、罰だよ」

 景時の微笑みは崩れなかった。
 ―――ひく、と望美の喉が引き攣って、逃げ出す前に、景時が望美を貫いた。

「ひあっ!」

 ずん、と身体を貫く重量に、それだけで達しそうになりながら、望美は身体を震わせる。
 しかも、景時は、そのままじっとしてはくれなかった。

「今日は…寝かさない、から…っ」
「えっ、ひ、アッ・あんっ!あっ……!」

 激しく動き始めた熱に、望美は逆らえず、身体を委ねるしかなく―――


 次からは何でも一番に景時に見せようと、望美は心に固く誓ったという。





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