腕の中に咲く花






 心の底から恋した人は、故郷の海の瞳と桜色の髪を持つ。
 そして、満月のように美しい心を。
 熊野に彼女を浚うように連れてきて以来、ヒノエはこの季節を心待ちにしていた。
 かの人の名でもある―――桜の季節を。




 ヒノエは、言うまでもなく熊野別当にして熊野水軍の長。多忙の身の上であり、その業務は多岐に渡る。
 それだけやっていればいいものを、たまに趣味を変えてはそれに時間を割いたりもするので、ヒノエの時間というのは幾らあっても足りないものだ。
 多忙・過労気味は常だった。
 だが、それは少しばかりではあるが、平和的に解消されそうだった。




「はい、これは黒海にまわして。―――それはこっちに頂戴。うん、その代わりにこれを持ってって」

 ヒノエが時間を見つけて足を運んだ奥方の室は、いつになく騒がしかった。
 人の行き交う真ん中に、彼の正室・桜姫―――望美が佇んでいる。
 絶え間なく指示を出す横顔は美しくも凛としていて、見惚れつつも、烏たちはおとなしくそれに従っている―――ともすれば、頭領であるヒノエに対して以上に従順に。
 それは、桜姫に対する心酔の度合いと信頼の高さを思わせて、ヒノエとしては、どんな態度を取るべきか、ちょっと迷うところだ。

「へい、奥方!」
「桜様、次はこれを…」

 来客は絶え間ない。
 それを、望美は嫌な顔一つせず迎え、ヒノエが見ている限りでも、最適かつ目の醒めるような指示を与えていた。

(……さすがだね)

 平家の中でも鬼謀の将、と謳われたのは伊達ではないわけだ、とヒノエは内心で呆れ交じりに感嘆した。
 とはいえ、熊野でもこんなことをしなくていいのに。

(オレが、やるのに)

 ちり、と胸の中で焼け焦げるような熱情は、初めてゆえに持て余し、ヒノエを落ち着かなくさせる。―――結果。

「邪魔するよ」

 誰かに気づかれるのも待てずに、ヒノエは猫のようにするりとした仕草でそこに入り込み、望美の傍に腰を落とした。
 周りの烏や水軍衆が顔色を変える。

「と―――頭領っ」
「ヒノエくん!帰ってたの?」
「ああ、お前の顔が見たくて、飛ばしてきた」

 真実である。
 ヒノエの本来の予定では、帰宅がかなうのは明日の午後だった。
 桜姫による後方支援が功を奏したのと、ヒノエ自身が言葉の通り、それを願ったせいで、今日になったけれど。
 あくまでもヒノエの視線は桜姫に据えられたまま―――だが、周りの男たちには、ヒノエが今、何をどう思っているのか、手に取るように分かってしまうのだった。

(うう、まだ決裁が)
(でもここで頭領の機嫌を損ねるよりは…)
(だ、だけど……!)

 望美に何事か甘く囁きながら、早く失せろと如実に語るヒノエの空気を前に彼らが悩むのも無理はない。
 彼らの葛藤は正しい。
 ヒノエは、久しぶりに奥方と二人になってしまったら、その後しばらく本当に行方をくらましてしまうのだから。
 その後の決裁がいつ叶うかは、本当に彼の気分次第になってしまう。
 それは困る。
 現在の熊野は、桜姫抜きには語れない。かのひとを取られたら、熊野中が困る!
 ちなみに、渦中の桜姫。
 色恋沙汰にはとんと疎いが、こんなことには非常に聡かった。

「待っててね、ヒノエくん。みんなの用事が先だから」

 全員の哀願を敏感に感じ取った望美は、ヒノエににっこりと微笑んだ。

(桜様……!)

 烏が喝采を心で叫び、

(さすがだぜ姐さん……!)

 水軍衆がガッツポーズをこっそり取る。
 当然、ヒノエは面白くない。

「……オレがせっかく帰ってきたのに?」
「こっちが優先なの」

 ヒノエの甘えたような声音にもかまわないで、望美は素気なく対応に戻ってしまった。
 以前はこれだけでほだされていたが、最近は何とか慣れた。何せ、流されたが最後、望美のペースに戻ることはまずないので、必要性にかられたというのが正しい。

「……桜」
「だーめ」

 ヒノエはまだ少し粘っていたが、ヒノエの帰宅を知った別口が押し掛け始めて、それどころではなくなってしまった。
 望美はちら、とヒノエを覗き見る。
 ―――普段は甘い少年の横顔が、今は頭領として引き締まっていて美しい。
 気恥ずかしくなってすぐに逸らす。
 くすぐったい。
 そして、二人がすべての仕事を片付け終わる頃には、もう午後になっていた。







 それでもめげずに、ヒノエは望美を目的の場所へと連れ出した。
 今はまだ明るいし、桜姫親衛隊と化した連中にも見咎められることはないだろう。というか、領地で妻を連れ出すだけで何でこんな苦労しなくちゃいけないんだ。

(お前はただ、笑って過ごしてくれるだけでいいのに)

 そっと手を引く恋人の指は細く可憐で、彼女が指折りの剣豪であるなんて、実戦を見ていないと誰も信じられないだろう。
 もっと信じられないのは、彼女が熊野に納まってくれたことだったけれど。
 桜姫は、平家の守護女神だったから。

(ま、そこは和議様さまかな)

 胸の中、軽口を叩きながら足を進める。
 そこはヒノエの秘密の場所。

「長く歩かせて悪かったね」

 もうじき、というところで、ヒノエは不意に振り返った。

「ううん、大丈夫。見せたいもの、ってここ?」

 見たところ何もない。
 きょろきょろ、とあたりを見回した可愛らしい恋人に、ヒノエは優しく笑った。
 ―――どんなに自分の留守に他の誰かが傍にいても、こんな望美を見られるのは自分だけだと知っている。
 可憐な恋人。

「いや、この先。まずはお前が先に行ってよ。……驚く顔が見たいんだ」
「驚く?」
「ああ、危険なことはないから」

 ヒノエはそれ以上明らかにせず、ただにこにこと微笑んでいるから、望美は追及を諦めて足を進ませた。
 茂みの先、現れたのは―――桜の古木。
 満開の、桜。

「……わ……!」
「―――綺麗だろう?」

 後ろからゆっくり歩いてきたヒノエがとっておきの微笑みで囁きかけた。

「オレの、とっておきの桜」
「うん!綺麗!」

 ―――お前の方が綺麗だよ。

 ありきたりの台詞を言いかけて、やめる。
 桜の下で舞うように笑う望美は、ヒノエが思い描いていた以上に美しい。
 どんな言葉でも言い尽くせないほどに。
 古木の桜は、散るのが早い。間に合って、本当に良かった。

「―――いにしえの、奈良の都の八重桜、けふ九重に匂いぬるかな」
「ヒノエくん?」

 不意に何事か口ずさんだヒノエを、望美は振り返った。

「都の桜も綺麗だっただろうけど……この桜にはかなわないだろうね……」
「う、うん……?」

 望美は曖昧に頷いた。
 ヒノエは桜を褒めながら、桜を見ていない。
 紅の瞳は、望美の勘違いでなければ、自分を見ている気がするのだが―――

「ほ……本当に綺麗だね!桜!」
「うん」

 ……どうしてだろう。何か、追い詰められている気がする。
 徐々に、だんだん、桜の木の方に、追い遣られていくような。

「ちゃ、ちゃんと見てる?少ないでしょ、熊野の桜……キャッ……」
「―――見てるよ。オレの腕の中の『桜』」

 息が、一瞬詰まった。
 数日振りに見る紅の瞳は、褥にいるときと同じ熱に揺れていて、望美を呪縛する。
 桜の嵐がヒノエの肩越しに見え、薄紅の壁に囲まれてしまったようだった。

「綺麗だよ。お前以上の桜を、オレは他に知らない―――知りたくもない…」
「んっ、ンンッ……ひ、ヒノエくんっ…」

 奪うような口づけからどうにか逃れ、望美はほっと息をつくが、もちろんヒノエは逃がしたわけではない。

「湛増―――お前には、許したはずだけど?」
「だ、だって慣れっていうか、その」
「ヒノエくん、だって、お前は呼び慣れてなかっただろ」

 去年の今頃はまだ親しくはなく、夏の初め、ようやく一対一で会った。
 熊野別当と平家秘蔵の姫。
 二人の恋は、まだ始まったばかりだ。

「―――で、でも」
「呼んで、桜……それとも、望美って呼ばれたいってこと……?」
「そ、そうじゃな……っ、ン、ンンッ」

 それでも……少しずつ分かってきたこともある。たとえば―――望美の弱いところ。
 気高い美しさの裏にある可愛らしさや、慈悲よりも甘い優しさ。
 自分だけの望美が増えるにつれ、ヒノエにとって望美は愛しさが溢れてたまらなくなってきた。……かけがえないほどに。
 小袖の裾をかき分け、ヒノエは性急にその場所を目指した。

「……濡れてるよ、桜」
「やっ、い…言わないでっ……!」

 こうなると、望美の抵抗は、かえってヒノエの悪戯を助けるものになってしまう。
 身を捩るせいで小袖の上もはだけ、豊かな胸があらわになった。
 ぴんとそそり立って主張する桜色を、ヒノエはそっと唇で食む。

「ふあっ!」
「いい声……」

 うっとりと陶酔するような声に、望美は酔いそうになりながら、何とか自分を立て直そうとする。だが、うまくいかない。

(こっ……こんな状況で、湛増、なんて呼んじゃったら……!)

 ついに膝が割られ、小袖はかろうじて帯で留まっているだけだ。
 ヒノエの唇は望美の身体を這い回り、指は断続的に望美の弱いところを責めていて、望美は崩れ落ちるのを堪えるだけで精一杯だ。
 当然、声なんて、堪えられるはずもない。
 そうでなくても、ヒノエは声を堪えることなんて、望美に教えてはいないのだ。

「あっ、ああっ……、駄目っ、ひっ、ア、ヒノエ、くっ…」

 ―――不意に、ヒノエはすべての愛撫をやめてしまった。

(えっ、お、終わり……?)

 望美は唐突な終わりに、きょとんとする。

「―――湛増」

 ヒノエは甘く囁いた。望美は瞠目する。

「呼んで、―――望美。……そうしたら、続きをしてあげる」
「そ、そんな…っ」

 腕の中で咲く花は可憐にして優艶。
 突然途切れた愛撫を欲しがって、震えている―――それに自ら気づいてほしくて、ヒノエは罠を張り巡らせる。

(求めて欲しい、自分から)

 桜姫の慈悲はあまねくもの。
 どんな場所でもそれはくまなく降り注ぎ、誰でも与えられて惜しまれない。
 だけど――――だから。

(お前が、オレを、求めて―――)

「ひ、ヒノエくん……っ」
「駄目」

 望美は、困る。
 いつもだったら、いなして終わりなのに。ヒノエはそれを許してくれるのに。

(綺麗な、瞳)

 紅に酔わされる。
 触られたくて、身体がじわりと望美を困らせる。焦れる。
 こんな場所で呼んじゃ駄目。
 そう思うのに、言ってしまいそう。駄目と言ったのは自分なのに……!

「た―――…湛増……っ」

 泣きそうな囁きに、ヒノエは満面の笑みで応えた。
 まずは口づけを、贈る。

「愛してるよ、オレの桜―――」
「ふあっ!アッ……!」

 更に濡れてしまったその場所を確かめられたかと思うと、ヒノエの剣が貫いてきた。望美は息を止める。
 ヒノエの動きが止まったのは、その一瞬だけだった。

「クッ……いい、締まり……!」
「ひ、あっ、あんっ!アッ……!」
「桜――――望美……っ」

 ―――花の嵐に抱かれる。
 激しい律動に望美は身を委ね、何度となく来る波に身を任す。
 桜の花が狂ったように舞い踊り、二人の艶姿を覆い隠した。




 月が顔を覗かせている。
 望美を肩に凭れさせて休ませながら、ヒノエはぼやいた。

「あー、帰りたくねえ……」

 今回出かける前に目だけは通した、あれもこれもそれも残っているはずである。
 せっかく早く帰ってこられて、恋人は可愛らしい。―――とくれば、こう何日かは溺れていたいのが人情だ。
 だが、どれもそれなりに重要な案件であり、ヒノエにその責任を放棄することはできない。
 だからこそぼやくのだが、本気の響きに、恋人はクスクスと笑った。

「……桜。何笑ってんの」
「ふふ、だって、面白くて」
「オレが仕事に追いかけまわされるのが、そんなに面白い?」

 その分、一緒にいられなくなるのに。
 ヒノエはそう言ってふてくされたが、望美は眠たげに瞳を伏せたまま、そっと笑った。

「……大丈夫だよ。片付けておいたから」
「へ?」
「ヒノエくんが出ていく前の分と、帰ってくるまでの分は多分大丈夫。だから待って、って言ったでしょう」

 いかにも気軽に望美は言うが、相当な量があったはずだ。……なのに?

「これで、ヒノエくんも休める、でしょ…」

 ……オレのため?
 聞こうとしたら、望美はすでに夢の中にいるようだった。
 ヒノエは苦笑し、そっと望美を抱き締める。
 そして自分も眠ってしまうことにした。






 冒頭に戻る