自分が「狂う」。
それがこんなにも疎ましいものだったとは、思わなかったのだ。







チョコレイト







京・薩摩藩邸。
小松はようやく手に入れたそれをしげしげと眺めていた。
少し、齧る。
そして顔を顰めた。

(苦っ………)

ゆきはこれを好むというが、本当だろうか。
あんな砂糖菓子のような少女が、こんなに苦いものを?
ちょっと想像がつかなくて、小松は眉をひそめた。

贈り物は二度目である。
まさか再び失敗するわけにはいかない。
果たしてこれは、使えるのか?
家老の立場を利用して、せっかく用意できたものではあるのだけれど……。

「うーん、どうしたものかな……」

貴重だというそれを転がす。
溶けるというわりには、そんな兆候はない。
冬の外気温のせいなのだが、小松には欠陥品の証拠のように思えた。
そんなものを渡すのかと思うと、どうにも気が進まない。
だが、ゆきのために取り寄せたのだから、他に使い道などない。

ゆき―――
不思議な少女。

風にも倒れてしまいそうな儚げな外見と、清らかな微笑み。
陽炎の痛みになんて反応して、自分を前に陽炎を庇った少女。
最初はなんて甘い娘だろうと思っていた。
白龍の神子の能力を知ってからも、利用できるとしか思わなかったのに。


『小松さん』


あの声が私を呼ぶ。
微笑みが向けられる。
それだけで全部乱されていく。
理性が狂う。

非合理的な選択をしそうになる―――感情に負けて。

(この、私が)

小松はごろりとふう、とため息をついた。
……恋なんかで自分が悩む日が来るなんて。
こんな小さい菓子ひとつ、渡すのにここまで悩むようなことになるなんて。

「まったく男は馬鹿だよねえ……」

小松がひとりごちた。
その時だった。

「そうなんですか?」
「……っ」

急に聞こえてきた少女の声に、小松はハッとして脇息から身を起こした。
何故ここに?

ゆきは突然跳ね起きた小松に驚いたようで、微妙な姿勢で固まっている。
小松は自分の無様な動揺に舌打ちして、綺麗な笑顔を浮かべ直した。

「やあ、ゆきくん。一人で来たのかい?」
「あ…はい、小松さん、今日来られなかったから」
「ああ―――ごめんね。藩邸の用事が溜まってたものだから」

言い訳だった。
仕事は確かに溜まっていたが、その気になれば半日で終わる。
八葉の務めをはたしにいく時間が作れないなんてことはない。
だが、ゆきは素直に頷いた。

「ああ、そうだったんですか…」

まるで頭から信じるみたいに?
いいや、最初からどうでもよかったみたいに?

(……っ、馬鹿馬鹿しい……!)

ゆきがそんなことを思うはずないのに。
本当にそう思っていたら、こんなところまで来ないだろうに。
大方自分の体調とか、仕事量とかを心配して、善意で彼女はここまで来たのだ。
そんなことは分かっている。
それなのに小松の理性は「ゆきを嫌う理由」を探そうとする。
惹かれていく過程で、自分が変わるのが嫌だから。

(いや……変わる、なんて段階じゃないな……)

小松の冷静な頭は弾きだしている。
もう自分がゆきに夢中であることくらい。


理性がそれを否定して。
感情がそれを肯定する。


「ああっ、もう!」
「こ、小松さん?」

突然髪をがしがしとかき乱した小松に驚いて、ゆきが目を丸くする。
何か葛藤していたらしい小松は、ずい、とそれをゆきの前に突き出した。

「ゆきくん、はい」
「……え?」
「もらって。贈り物第二弾」

仏頂面で差し出されたそれを、ゆきは恐る恐る受け取った。
何かは分からなかったが小さいみたいだし、贈り物を何度も突き返すのはゆきの良心が痛むのだ。
はたして、それは……。

「これ……」
「チョコレイト。好きなんでしょ?」
「はい!えっ……でも、いいんですか?」

この時代の日本にチョコレートがあるとは思っていなかったゆきである。
もしかして凄く高価なのではないだろうか。
それこそ、この前の贈り物に勝るとも劣らないほどに。

ゆきは恐縮したが、小松は呆れたように肩を竦めた。

「いいも悪いも、もう受け取ってるでしょ?それに……これは、君のために手に入れたんだから」

受け取ってもらえなければ困る。
自分では美味しいと思えなかったし。

いらなければ捨てていい―――
そう言おうとした小松の前で、ゆきは本当に嬉しげに微笑んだ。
高価なものに興味はなくても、甘味に弱いのは乙女の常である。

「じゃあ、お言葉に甘えて。……いただきます」
「………ああ」
「美味しい……!」

一瞬笑顔に見惚れていた小松は、更なる蕩けそうな笑顔にぷっと吹き出した。
こんな顔、初めて見たんだけど。

「そんなに美味しいの」
「はい!」
「苦くない、それ?」
「そこがいいんですよ」

……そんなものだろうか?
小松はゆきの手から一粒奪って、チョコレートをもう一度口に運ぶ。
ただ苦いだけだったそれは、不思議な甘さを小松にもたらした。

「………美味しいね」
「でしょう?」

おかしいよね?
だって、本当にさっきは苦いだけだったのに、何なのこれ?

どうにも割り切れないことが、ゆきの前では多すぎる。
―――小松は諦めた。
ゆきに関しては、悩むだけ馬鹿らしいし、これほど非合理的な事もないのだから諦めが肝心だった。

「うん、美味しい。君と食べたらだけどね」
「???」
「ふふ、分からなくていいよ」

自分が「狂う」ことは疎ましい。
だが、それが自分だけでないのなら―――?

(いいかもしれないね)

だったら、そうなるように仕向ければいい。
自分はもう、とうにそうなっているのだから。
小松は淡く微笑む。
ゆきが、分からないなりに微笑み返してきて、その表情を小松は独り占めする。
ああ、いい顔だ。


「……ほろ苦くてちょっと甘い。まるで恋の味だね」


小さく呟いた、これはまだ内緒。
とりあえず小松はこれからも機会があればチョコレートを手に入れようと、ゆきの笑顔を愉しみながら誓うのだった。