何故だろう、こんなにも、君を大事に思うのは。
腕の中で眠る千尋の、汗で額にはりついた髪を、忍人は慎重な仕草で払ってやった。
安らかに眠る千尋は愛らしい。
こんなふうに君が安らげるなら、ずっとこうさせてやりたいとも思う。
・・・・・・現実には不可能だけど。

千尋。

普段は呼ばない名を呼んで、忍人は千尋をそっと抱き締める。




その命尽きても




「忍人さんっ」
「・・・・・・・・・また抜け出してきたのか」
「今回は、官人が出してくれたんですっ!」
「・・・・・・ほう?」

千尋は豪快に膨れっ面をする。
官人が出した、というのが本当なら大したものだ、と忍人は思う。
狭井君の統制下、官人は必要以上に千尋に厳しい。
岩長姫以下軍事の者は、大将軍としての千尋に信を置いているものの、政治となると頼りないのが現状である。
それを補うためといえば聞こえはいいが、実のところ、目的は他にある。
千尋の傀儡化である。
それを狙う官人がそれ以外の行動をしたのなら、千尋の努力が認められてきているのかもしれない。

「本当ですよ?王が疲れては正しい決済が出来ないから、って」
「・・・・・・・・なるほど。それで、君はここで何をしている」
「忍人さんについて、散歩でもしていようと思って」

忍人は一瞬目を見張った。

「仕事の邪魔はしません。傍にいるだけでいいの。・・・・駄目?」
「駄目ではないが・・・・・」

もともと千尋には甘い忍人である。
千尋はそう思っていないらしいが、それは千尋の甘さの基準が風早あたりにあるからだ。
しかし、実際困る。
言いよどんだ忍人に、千尋はうなだれてしまった。

「・・・・・・邪魔ですか?」

そうではないが、そうなのだ。
忍人はますます言いよどみ、どう言ったものか、困惑する。
自分はこういうのに慣れていないのだ。
つくづく兄弟子たちを多少なりとも見習っておくべきだったと反省する。
でたらめな兄弟子たちは、この年になり考えれば、それなりに柔軟で立派だった気もする。
・・・・・・・普段は認めたくないけれど。
すっかりしょぼくれてしまった千尋は、ややもすると溶けて消えてしまいそうなほど、儚い。
痩躯な少女は、弱々しく庇護欲を煽った。
官人の譲歩も、理解できる気がした。
忍人も少女の姿にほだされて、変わっていったクチだからである。

「・・・・・・・・わたし、帰ります」
「ま、待てっ・・・・・!」
 
物思いに沈んでいると時間の経過はつかみにくい。
忍人が悶々としている間に、千尋は駆け去ろうとした。
気付いた忍人が、慌てて腕をつかみ引き寄せると、振り向いた千尋の蒼瞳に大粒の涙が滲んでいる。
忍人は胸をつかれた。


――― 千尋はね、大事な人に拒絶されるのが怖いんです ―――


甦る兄弟子の苦笑。
そういえば、この前もこんな喧嘩をしたような気がする。
思い出して、進歩のない自分への怒りまじりに忍人はそのまま千尋の唇を奪った。
唐突な口づけに、千尋がびっくりして逃げようとする。
忍人はそれをゆるさない。

「んぅ・・・・・ん、んん・・・・・!」

息がお互いに上がるまで、忍人は千尋の口内を激しく蹂躙した。

「――君が邪魔なんじゃない。俺が・・・・・君がいると抑えられなくなるだけだ」

千尋が目を見張る。
忍人は熱っぽい目で千尋を見つめると、再び口づけた。
木の幹に押し付けられて、顎までしっかりとらえられて、千尋は受け入れるしか出来ない。

「あ、・・・・・んんっ・・・・・・」
「こんなことまで・・・・・・したくなる」

衣装の上から胸を揉まれただけで、千尋は体中から力が抜けそうになる。
忍人はそっと離れた。

「・・・・・・・わかっただろう。仕事中であろうと、どこだろうと・・・・・君がいれば俺は・・・・・」

忍人は顔を背けた。
赤らんだ顔が、忍人らしくなくて、千尋はドキドキする。
キスは激しくて、でも優しかった。
忍人は照れ隠しか、腕組みをして、憮然とした表情をつくる。

「だから傷つくな。・・・・・もっと俺も修練して―――」

言いかけた言葉は、千尋のキスで遮られる。
柔らかい唇がぷにっとゆっくりめに触れて、離れた。

「修練なんかしなくていい。余裕のない、忍人さんが好きです・・・・」

そのままきゅっと抱きついてしまう。
忍人の体が一瞬強張ったが、諦めたように緊張は解け、その腕が千尋を優しく包んだ。

「・・・・・・・まったく君は」
「ふふ。・・・・・・・よかった、嫌われたんじゃなくて」

職務に忠実で、規律に厳しい忍人だから、息抜きで仕事についていこうなんて、と言われるのも覚悟していた。
それでも傍に、いたかった。

即位式の悪夢。
少しでも気付くのが遅かったら、千尋は忍人を、中つ国は虎狼将軍を喪っていたのだ。
その恐怖が、そしてそれ以上の恋慕が、千尋を忍人の元へ向かわせる。

千尋を抱き締める忍人にもその恐怖はあった。
千尋はおそらく自分の死の乙女。
それでいいと思う。
千尋を護って死ねる、その運命が用意されているなら、そんな幸せな死に方はない。
それでも泣くだろう千尋を思うと、まだすぐには死ねないとも思うのだ。

「・・・・・・・・抱いてもいいだろうか」
「・・・・・聞いちゃ駄目です。いつだって、抱いていて・・・・・」

もう一度唇が重なった。
淡い淡い思いを伝え合うように。
千尋の頬が赤く染まる。
甘い吐息が忍人を誘う。
ひとしきり口づけると、忍人は無言で千尋を抱き上げた。
千尋は大人しくじっとしている。


傍にいるだけでいいなんて、嘘。
ずっとずっと抱いていて。