静かに満ちる優しさ。
誰をも通り過ぎようとしたこの自分に踏み込む暖かい人たち。
だんだん心がぬくもりを取り戻す。
いつの間にかかけがえのない存在になる。
千尋。
そう呼んでも、君は笑ってくれるだろうか?
飛べる理由
「カリガネ知らないか?」
「カリガネですか?千尋といましたよ」
「千尋ォ?」
カリガネが誰かといるとは珍しい。
しかも女。
それも姫さん。
サザキは一瞬どうしようかと思ったが、割り込むことに決めた。
「それでどこだって?」
「厨房じゃないでしょうか?」
「・・・・・・・・」
割り込もうと思った理由のひとつは満たす。
もうひとつは・・・・・・割り込まなくても大丈夫、かも?
とはいえ・・・・油断も禁物か?
サザキの微妙な表情に、風早は呆れたようなため息をこぼした。
「・・・・・・サザキ・・・・・」
「まあいいや、俺行くわ」
「あ、ちょっと待ちなさい!」
待つわけがない。
腹は限界。
千尋に誰かが近づきすぎるのもなんか嫌。
サザキは己の欲望に忠実に、厨房に向かった。
結局彼は入れなかったのだけど。
☆
「カリガネー、もういいと思う?」
「・・・・・・もう少し」
「もう少しね?どれくらい?」
「・・・・・・・あともう30数えたら」
カリガネが適当に言った「もう少し」を千尋は懸命に数え始めた。
視線はじっと石窯に注がれたままで。
カリガネはそっと微笑む。
厨房で、最初カリガネが作っていたのは煮込み料理だった。
そろそろサザキが腹を減らす頃。
・・・・・作っておくか。
いらなければ夕飯にまわせばいい。
そう思ったのだが。
『カリガネ!?』
千尋が軽やかに笑って手を振る。
厨房に入ろうとした直前だった。
『何だ?』
『何でもないけど・・・・あ、何か作るの?』
『ああ・・・・・・』
『この間のお菓子、美味しかった!よかったら、また教えてくれない?』
千尋は人の心に入るのがうまいと思う。
褒められて嬉しくないわけがない。
また、という「いつ」を特定しないおねだりは聞きやすく、つい頷いてしまう。
そこで更に嬉しそうに笑うものだから、カリガネは思わず言ってしまったのだ。
『よかったら今から作るか?』と―――
千尋は思ったとおりはしゃぎ、嬉しそうに頷いた。
そして今に至る。
サザキにはもう少し待ってもらうことになるだろう。
もうすぐお菓子が焼けそうだ。
「んー、いい匂い!」
「そうだな・・・・・」
カリガネは主に相槌を打つだけだが、会話が途切れることはない。
千尋は柔らかに笑う。
千尋は優しく傷を癒す。
千尋はそっと翼に触れてくる。
カリガネの中でその度に愛しさが増す。
いつの間にか、護りたいと思えるようになった少女。
可憐な彼女の重責を、肩代わりは出来ないにしても。
こうして少し、楽しみに付き合うくらいなら。
「きゃあ、美味しそう!」
千尋は焼きあがった菓子に嬉しそうに手を伸ばす。
カリガネが止めようとして・・・・・遅かった。
「あつっ・・・・・」
「・・・・・・不用意な」
「うう・・・だって」
焼きたてのお菓子の誘惑に耐えられる女の子がいたらお目にかかりたいものだ。
ちょっと赤くなった指を見つめて千尋が拗ねると、カリガネが懐から小さな壷を取り出した。
「塗っておけ」
「・・・・・・・」
千尋は差し出された壷を一瞥。
手には取らずに、カリガネを無言で見上げた。
何かをねだるような視線。
「・・・・・・なんだ」
「塗って?」
「・・・・・・・・・・」
利き手なんだもん。
いいでしょ?
いいでしょ?
目は口以上に物を言った。
おねだり光線にカリガネは陥落する。
カリガネはそっと塗り薬を取って、千尋の指に塗りこめる。
ごくわずかにひやり、として。
一瞬千尋は指を引きかけた。
しかしカリガネの静かな視線に見つめられて止まってしまう。
静かに甘い数秒。
単にちょこっと甘えたいだけだったのに。
どうしよう。
何かドキドキするよう。
しかし幸か不幸か、すぐに終わった。
カリガネが嘆息して薬をしまう。
「・・・・・次から気をつけろ」
「・・・・うん」
千尋は顔を赤くして、頷いた。
照れ隠しのようにお菓子をざかざか皿に盛る。
「さ、さて、みんなにあげてくるね!」
千尋は急いで扉を開けると、中を窺っていたサザキにぶつかった。
「キャ・・・・!」
「おっとォ!」
掬い上げるように抱きとめられて、危機一髪。
千尋はにこっと破顔した。
「ありがと!」
「いや、姫さん、これは?」
「カリガネと作ったの!」
「へえ?もらっていい?」
「はいどうぞ!」
「・・・・・ん、うまい!この礼に後で空を飛んでやるぜ?」
「ホント?やった!絶対ね?」
ぽんぽん会話は進む。
その間カリガネは無言。
ちょっと壁にもたれて傍観している。
寂しいような、微笑ましいような。
―――不意に千尋が振り返った。
「また、カリガネも飛ばせてね!」
その笑顔はサザキもカリガネも見惚れて、止まってしまうほど。
少女は眩しいほどの輝きで、いとも簡単にカリガネの心を照らしてしまう。
「・・・・・・・また、な」
そして今度こそ、千尋は駆けていく。
サザキの微妙な視線を受けて、カリガネが視線で問い返すと、サザキの腹が答えた。
「・・・・・・・もう少し待ってろ」
「・・・・・おう」
苦笑したカリガネが何やら作り出す。
サザキはばつが悪そうに口を尖らせた。
邪魔しようと思ったのに。
流れた空気が独特で、部屋にも入れなかった。
なら見せ付けてやろうと思ったのに。
嬉しそうに見守られたうえ、超ド級のストレートを食らう。
面白くないの。
背後にサザキのイジケを感じながら、カリガネはひっそりと笑った。
『また、カリガネも―――』
胸の奥の棘がゆっくりと溶けていく。
新しい小さな約束。
千尋とならば、飛べるだろう、いつか。
カリガネの心の奥。
氷の扉を溶かし、翼の鍵を握るのは、小さなひだまりの少女。
千尋の淡い恋が実るのは、もう少し先の話――