冷えた指先を暗い部屋でアシュヴィンは組み合わせる。
――――遅い・・・・
彼が待っているのは、たった一つだ。
柊の帰還。
そして携えてくるであろう、千尋のその後だった。
「――――待ちくたびれたぞ」
「我が君がお放し下さいませんでしたので」
でれでれと言ってのける男を、一瞬くびり殺したくなる。
それが恋ゆえでなくとも、千尋が自分以外に心を傾けることが、今のアシュヴィンには耐え難い。
――― 千尋と肌を合わせてから。
「それで?」
イライラと問う皇に、美貌の軍師は恍惚とした表情で語る。
「我が君は相変わらず可憐でいらっしゃいました。私の無事を涙を溜めて喜んでくださり、その華奢な御手を・・・・・」
「――――俺が聞いているのは、千尋の周囲だが?」
「おや、我が君のご様子はいりませんか」
「・・・・自分で確かめる。省け」
聞きたくないと言ったら嘘になる。
だが、この男に語らせておけば時間はどれほどあっても足りないし、聞くだけで腹が立った。
柊は分かったような瞳で妖艶なほどの微笑を浮かべた。
「可愛いですねえ」
「ほざけ」
柊からしたら、アシュヴィンだって「可愛らしい」。
もちろん、千尋になど比べるべくもないが、まあ譲ってもいいかと思える相手でよかった、と思うのだ。
でなければ、千尋の意思をも蹂躙してしまいかねない自分の困った性を、柊は十分に承知している。
リブがお茶を運んできた。
それを契機に、柊はすっとすべての表情をかき消した。
「山背の王に、我が君はお輿入れとなるようです」
「え、な、中つ国の王位は・・・」
「那岐に譲位されるとか」
「な、那岐ですかっ?」
リブの慌てた声に、柊の美声が答える。
アシュヴィンは詰めていた息を少し、吐いた。
「・・・・・・・なるほどな」
その地を這うような声音にリブはハッとして、身を強張らせる。
千尋にどこか似ていた、鬼道使いの少年。
風早が千尋とともに連れ逃げたというからには何かあると思っていたが。
そして、山背。
「・・・なるほど、千尋は王位を降り、政略の駒となるか」
アシュヴィンの凍ったようで熱い声音に、誰も口を差し挟めない。
その逆鱗をたやすく撫でうるものはこの世にいない。
――――いや。
「忍人の死を盾にされたのでしょう。我が君は、そういう目をしておられた」
「ひ、柊・・・・!」
隻眼の軍師には関係のないことだった。
アシュヴィンも八つ当たる気はないのか、フン、と鼻を鳴らしただけだった。
「放置されますか」
「まさか」
アシュヴィンは傲岸に笑った。
「あれは、俺の女だ―――リブ、すぐに軍を動かすぞ!」
「えええっ、ら、皇・・・少しお待ちを・・・・!」
言うや否や立ち上がろうとする男を、リブが必死に抑えた。
「待てん!」
「そ、そこをなんとか・・・・っ」
荒廃しきっていた国。
一度は千尋の中つ国に屈した常世の兵力は、少し前の威容はない。
宰相たるリブが慌てるのも無理はない。
だが、アシュヴィンは追い縋る側近を振り払ってでも行こうと歩き出した。
本当に一人ででも行きかねない。
その様子をただ眺めていた柊が声をかけたのは、アシュヴィンが扉に手をかけたときだった。
「――――常世の手により、軍功数多の虎狼将軍が死んだ・・・」
「・・・何が言いたい」
「いえ、常世に何の得があるのかと思いまして」
「馬鹿馬鹿しい!」
柊ののんびりした今更な問いに、アシュヴィンは荒く言い捨てる。
「現状がすべてだ!物流は止められ、詫びの使者も受け入れられず、ただ俺の面目が地に落ちただけだ!」
いいこと等ひとつもない。
というより、あれは一部の反乱分子の暴走なのだから、常世のことなど考えてもいないだろう。
それを分からぬ柊ではない。
その柊が何故問うのかアシュヴィンには分からない。
だが、リブは顔色を変えた。
「・・・・・では誰が、一番得をしたと?」
「・・・・・何?」
アシュヴィン―――常世ではありえない。
反乱分子も、忍人によって死んだか、牢屋で、いいことなどない。
千尋は政略の駒となり、中つ国以外の民は、すべて住まうことを禁じられた。
得など誰もしていない。
あえて言うなら――――山背の王、以外は。
「あとは狭井君・・・・ですねえ。だって、捕らえた文官は、それほどの高官だったんですか?」
揶揄するような、嘲笑うかのような声音でさえ、柊の美声は損なわれない。
その凍える月のような美しさが、アシュヴィンの心を冷まさずに、醒めさせた。
「・・・・・・リブ、お前はどう思う」
「・・・辻褄は合います」
だが、今表立っては動けない。
狭井君を正面から糾弾できる立場ではない。
しかし、思えば戦をすれば、千尋が泣くのだ。
恐らく目の前の男は、それだけを厭って、アシュヴィンを止めたのだから。
「・・・・・・狸め」
目の前の男にか、遠く王の前にいる女にか。
アシュヴィンは低く吐き捨てる。
柊がにっこりと微笑んだ。
「策はあるのだな?」
「ええ」
「―――任せる」
「御意・・・・」
自分には決して膝を折らぬ男を少しだけ眺めてから、アシュヴィンは退室した。
千尋に関してだけ、信用できる男。
そうしてまた夜が来ても、アシュヴィンは一睡も出来なかった。
「千尋・・・・・・」
甘く名を呼ぶ。
その花を手に入れることを、もう躊躇いはしない。
彼女が「選んだ」のだという、自負があるから。