千尋は忍人の眠る丘に、一人訪れていた。
手にした花とは違う、いくつもの花がそこには添えられている。
花を手向ける風習は「日本」のもの。
知るのは、ずっと、千尋や忍人と戦い続けてくれていた人たちだけ。
千尋は泣き崩れた。
即位式の悪夢は重くて、やるせなくて、苦しくて・・・
二重三重に、今も千尋を苦しめていた。
即位式のとき、千尋は夢にも思っていなかった。
厄災は振り払われ、もうあとは、よくなるばかりだと疑ってさえいなかった。
そんな千尋の甘さを嘲笑うかのように、事件は起きた。
――――虎狼将軍の殺害である。
しかも、協力国となったはずの常世の策謀で。
それは一部の暴走に過ぎず、アシュヴィンをはじめ、常世側は誠意ある対応を貫いたが、中つ国の動揺は凄まじかった。
当然といえた。
(あなたが・・・ずっと戦っていたもの。ずっと率いていたんだもの・・・)
厳しくて、優しい人。
その背中を慕うものは数知れない。
千尋とてその一人だ。
彼に認められる王になろうと、奮闘し―――その即位式で、彼は呆気なく喪われてしまった。
千尋は立ち竦んでしまった。
その隙を埋めるように、狭井君らが立ち回ってくれ、おかげで混乱自体は収束した。
が、常世との融和論は急激に冷えた。
千尋の手のうちようがないところまで、一気に。
(馬鹿だよね、忍人さんに怒られちゃう)
(もっとちゃんと立派に、みんなが仲良くなれるように・・・したいのに)
最終的にサザキも遠夜も受け入れてくれた忍人だ。
常世との現状を見れば、どれほど悲しむだろう。
それとも当然だと言うだろうか?
・・・分からなかった。
彼はもう、答えてはくれないから。
柊もいない。
彼も即位式後に姿を消した。彼の安否も千尋には気がかりで。
呆然としているうちに、千尋は孤立させられていた。
どんな情報も、千尋に渡るものは狭井君の渡すものだけだ。
たとえば、仲間だったサザキらの消息という千尋の望むようなものはほぼ上がってこない。
「そんなもの」よりやることがあるから。
その理屈はどうにも馴染まなかった。
だがそれも、
「即位式の悪夢を二度と起こさぬよう、国家を建て直すことが急務なのです」
―――と、さとされてしまうと、千尋にはもう何も言えなかった。
(忍人さんが死んだからだ、って思っちゃったの・・・ごめんね)
千尋はここに詫びにきたのだ。
たった数日で、千尋の周囲は大きく変わった。
忍人の死をいたむ間もなく、忍人の死を理由にして、急速に体制が作り変えられた。
それを千尋は止めることはできない。
だが、それは常世の冷遇を意味し、それは千尋の理想の治世から大きくかけ離れたものとなる。
そして、千尋個人の恋も、押し潰すものとなる。
(忍人さん・・・・アシュヴィンが好きって言ったら、あなたは怒る・・・?)
千尋にとって、師でもあった忍人。
その彼を殺害したのは紛れもなく常世で、アシュヴィンは紛れもなくそのトップだ。
育とうとしていた恋心は、誰にも打ち明けられなくなった。
忍人の死は、ただただ衝撃だった。
過ぎ去れば、哀しみが今更に千尋を苛み、急に作り変えられた体制は恋を行き場のないものへと変え、忍人をつい恨ませた。
けれどそんな自分が恥ずかしく、千尋はいたたまれない。
ふがいない自分が一番悪いのだと思うから、お門違いに忍人を一瞬でも恨んだ自分を千尋は責めた。
彼が生きていれば謝れるのに、彼はもういないのだ。
千尋が自分で、自分を許すことはない。
今、千尋の傍には誰もいない。
哀しみを分け合うものも、苦しみを和らげてくれるものも、日々現れる不意の空虚を察知してくれるものも・・・
誰も。
そんな毎日は千尋にとってただ苦痛で、それでも歩くのをやめられないうちに、狭井君がもってきたのは、縁談だった。
『えん、だん・・・?』
『ええ、我が君、お喜び下さい。これで中つ国は立ち直れます』
隣国の、山背国。
即位式で千尋を見初めたという、武勇の王。
千尋が嫁ぐことで両国はこれまでになく栄えるとか、あとは血族とわかった那岐様に任されればいいとか。
狭井君の語る言葉は流れるようで、千尋を空虚に通り抜けた。
呆然と立ち尽くす、何も映さないようなガラス玉の千尋の瞳に、狭井君が深々と頭を下げたのが、無感動に映った。
立ち直れる―――それなら拒否など、出来ないではないか。
『・・・・わかり、ました』
『さすがは我が君、ご英断ですわ』
千尋は曖昧に笑ってみせた。
凍りついた涙は、心の奥、そっと固まった。
――― 千尋が宮を抜け出したのは、その次の日のことである。
千尋は今も思い出す。
夢中で触れた、溺れるように愛した異国の皇の熱さ、その傲慢で優しいささやきを。
思い出して、それでもただそっと、人形のように我が身を抱いて、眠るのだ。
もう一度アシュヴィンにまみえられるなど、このときの千尋は考えてさえ、いなかった。