「・・・・・・・・・」
皇となってから、数ヶ月。
アシュヴィンはただ一人、黒麒麟に乗って高台に来ていた。
生まれ変わったように、肥沃な大地が眼下に広がる。
それでも中つ国を見慣れた目には、まだ物足りぬ緑。
これから育ててゆく緑。
千尋と、そして国の民と。
アシュヴィンはあるかなきかの、しかし傲慢な微笑を浮かべてマントを翻す。
宮に戻る。
千尋に会いたかった。
不安のとける腕の中
千尋は気付いた時、見知らぬ天井に驚いた。
自分の執務室でも寝室の天蓋でもない。
ここは何処?
慌てて起きると強烈な目眩が千尋を襲った。
「・・・・・・・・・っ」
暫し頭を押さえる。
ここのところ悩まされている偏頭痛も襲ってきた。
気分が悪い。
「・・・・・・・・千尋様、大丈夫ですか?」
「――――リブ」
控えめにかかった声は、皇の側近であり宰相のリブ。
千尋は記憶を辿る。
今日は執務室にいたはず。
東の方の石高を纏めて・・・・
「・・・・・・そっか、ごめんリブ・・・・」
「謝られることはありませんよ。・・・・・・どうぞ」
思い出した。
リブの執務室に行って、倒れたんだった。
リブがそっと差し出した香草茶を受け取る。
爽やかな香気が千尋をそっと和ませた。
しかし心は晴れきらない。
―――もう何日、アシュヴィンの顔を見ていないだろう?
「もうすぐお戻りですから・・・・」
柔らかくかけられた声に、千尋もまた微笑んだ。
分かっている。
あの人は復興のために必死なのだから。
皇なのだから。
愛されているのか、本当はまだ少し不安だけど。
その不安は、顔にも出すべきではないのだ。
二人は平和の象徴なのだから。
千尋が倒れてより二日後、アシュヴィンは帰宮後すぐ、愛妻の姿を探した。
公にも愛妻家振りを発揮しているが、実のところそれは演技に過ぎない。
実際は愛妻どころでない。
溺れきっているのである。
「・・・・・・・・・ここにもいないか」
昼日中、執務室に千尋はいなかった。
廊下でも、庭でも、謁見室でもない。
先触れも出さず帰ってきたアシュヴィンは、旅装束も脱がず千尋を探し回っている。
侍従たちが皇に気付いて駆け寄るも、うるさいと追い払う始末。
とにかく千尋に会いたい。
自分が探して、抱き締めたかった。
きっと驚くだろう。
喜ぶだろうか?
しかし、漸く千尋を見つけたとき、アシュヴィンは声をかけるわけにはいかなかった。
再び戻った謁見室。
そこにいたのは、千尋一人ではなかったから。
(・・・・・・・・ちっ)
いたのは中つ国の将軍の一人、千尋の股肱の臣・葛城忍人。
彼がいるということは中つ国の話である。
千尋が中つ国の王である限り、「常世の皇」は中つ国の話に基本、加わることは出来ない。
常とは違う、后としての顔とも違う、将軍王としての千尋の横顔を見つめる。
凛として、それでいて優しい面影。
・・・・・・・話はまだ終わりそうになかった。
アシュヴィンは嘆息し、旅装束を解く為に部屋に引き上げた。
強行軍に疲れて眠ってしまったため、千尋とこの日、顔を合わせることは出来なかった。
千尋はすっかり落ち込んでいた。
朝起きたら、女官がアシュヴィンが帰っていることを教えてくれた。
ただし、昨日から。
・・・・・・教えてくれれば、たとえ夜中でも会いにいったのに。
寝顔でも見れば、それだけでも嬉しいのに。
帰ったことも伝えてももらえないなんて。
「・・・・・・・はあ・・・・・」
自分に禁じていたため息まで出てくる始末。
何かをしようという気力が湧いてこない。
「姉様!」
「シャニ?」
朝御飯も進まぬままに、パンのようなものをつついていると、義弟のシャニが飛び込んできた。
破顔一笑。
彼の笑顔は素直で、見る者を自然に笑顔にさせる。
千尋もこの日初めてそっと微笑んだ。
「兄様帰ってきたんでしょう?あれ、いないの?」
「・・・・・・うん、まだ疲れてるのかな?」
「かなって・・・・・まだ会ってないの?」
「うん・・・・」
千尋の笑みが翳った。
シャニは顔を顰める。
侍従も女官も頼りない!
姉様が帰っちゃったらどうするんだろう。
尤も、彼の中で一番頼りないのは当のアシュヴィンだが。
「・・・・・姉様、中庭に行こう!花が咲いたんだ。ね、いいでしょう?」
「え、でも・・・・・」
中庭は血族専用だ。
そう言われ、后となった今でさえ、中庭への立ち入りを千尋は禁じられている。
躊躇う千尋にシャニはにこっと笑った。
「姉様も家族だもん!ね、行こう!」
ぐいぐい引っ張られ、千尋は曖昧に笑ったまま、連れ出されてゆく。
正直気は乗らなかったが、歩くうちに思い直した。
気分も変わるかもしれない。
そこで千尋を待っていたのは、意外な風景だった。
「・・・・・・・・寝入っていたなら起こせばいいものを!」
「そうは言いましてもねえ・・・・お疲れだったのは傍目にも明らかですし・・・」
リブがのほほんと、しかし困り顔でアシュヴィンの世話を焼く。
寝入った自分が悪いのを自覚しているアシュヴィンは愚痴ることも出来ずに、苛立ちを抑えるしかない。
今日も今日とて、千尋探しにずかずか歩こうとしだした。
リブは察して、千尋の所在を向こうから来た女官に聞こうとした。
だが。
「―――俺が探す」
「・・・・・・・はあ、さようで」
リブは笑いを堪えつつ、アシュヴィンに付き従う。
ちなみに呼び止められ、すれ違った女官も微笑ましそうに微笑んでいた。
「・・・・・・・・・・」
何故笑われているかは自覚しているから、文句も言えない。
馬鹿なほど溺れている。
この俺が?―――この俺が!
千尋に会いたい。
アシュヴィンは朝食もさておき、千尋探しに邁進した。
☆
執務室にも、寝室にも、謁見の間にも、千尋はいない。
中つ国に戻ったか?
一瞬そう考えたアシュヴィンの耳に、ちょっとした喧騒が届いた。
すぐにやむ。
その方向が、特になんでもない場所ならアシュヴィンは気にも留めなかったろう。
けれど、声の聞こえた方角にあるのはアシュヴィンにとって大事な場所。
そこに千尋はいないだろうが、アシュヴィンは反転した。
駆けてゆくと、衛兵が困った顔で出迎えた。
―――それですべてを悟る。
「・・・・・・・・シャニか」
「は、あのう、お止めしたのですが、千尋様も・・・・・」
衛兵がすまなそうに頭をさげる。
彼一人に、シャニを食い止めるのは難しかったのだろう。
それに千尋。
ここ最近、根の宮にも千尋の信奉者は多い。
千尋は長年この国を支配してきた黒き太陽の代わりに、優しき陽光としてこの国を照らし始めていた。
彼女を無碍に出来る者は、確実に少なくなってきている。
「千尋に知られたか・・・・・・・」
もう少し先の予定だったのに。
まあいいだろう。
アシュヴィンはこそばゆいような、嬉しいような、不思議な気持ちで先に進む。
ゆっくり歩いた中庭の先。
求めた姿はそこにいた。
「――――千尋、会いたかった」
「アシュヴィン、・・・・・・これは」
「うん?皆まで言わせる気か、俺の后は。分かっているだろう?」
茫然自失とした顔の千尋を背後から抱く。
千尋の匂いが久々に感じられ、アシュヴィンは自分でも呆れるほどに肩の力が抜けるのに笑う。
気を利かせたシャニが出て行くのが目の端に写った。
「・・・・・・・ささゆり」
「本当はもう少し、満開になってから呼ぶ気だったのだがな」
自分には入れなかった中庭。
そこには、笹百合の群生があった。
咲いているのはたった一輪。
けれどもうじき、見事に咲き乱れるだろう。
「私のため・・・・・?」
「それ以外に何かあるのか?」
「・・・・・・・・・」
喜んでくれていないのか?
思ったほどに反応がないのに焦れて、アシュヴィンが千尋を覗き込み―――ぎょっとした。
「ち、千尋?」
「だいじょうぶ。大丈夫なの、大丈夫・・・・・!」
大丈夫と繰り返す千尋の目からは、大粒の涙がこぼれて、溢れて、止まらない。
アシュヴィンはおろおろと、とりあえず千尋の涙を拭ってみる。
愛しててくれた。
愛してくれると言っていたのに。
・・・・・・・馬鹿みたい。
「・・・・・・ねえ、会いたかった?アシュヴィン?」
「さっきそう言っただろうが」
「ふふ、そうだね・・・・!」
千尋が涙まじりに笑って、アシュヴィンもほっとした。
やっぱり涙より笑顔がいい。
千尋の脇に手を差し入れて、空高く抱き上げる。
「会いたかったぞ、俺の后!」
「・・・・私も!」
・・・・・・・その日の夕方、政務の滞りをくい止めたリブは、シャニから事の次第を聞く。
晴れやかな笑顔の二人に文句を言おうか否か、ちょっと迷った。