小さく微笑むその人が、傍にいてくれるだけで。
…………それだけで。





優しい片思い





「敦盛さーん!経正さーん!」
「あ、み、神子……」

向こうの方から走ってくる姿を見て、敦盛は、ぽ、と頬を赤く染めた。
その様子が微笑ましくて、つい経正も頬が緩む。

「私は席を外そうか?」
「えっ、い、いえ、どうしてですか」
「ふふ、口にしていいのかい?」

経正がからかうと、敦盛は真っ赤になって俯いてしまった。
そうした反応がますます嬉しくて、経正の笑顔は深くなる。
本当に嬉しいのだ。
幼い頃のように、敦盛がこんな風に自分の感情を表に出してくれるようになったことが。

(それは、私や父上の罪滅ぼしにはならないけれど)

和議が成ったこと。
再び敦盛の笑顔が見られるようになったこと。
すべては、経正の出した成果ではない。
それらすべてを、成し遂げてくれたのは。

「こんにちは、神子殿。よかったらこちらをどうぞ」
「はあっ……は、ふ……う……こんにちは!ありがとうございます!」

二人のもとに辿り着いた望美は、よく冷やしてある手拭いを渡されると、それを頬にあてて微笑んだ。
気持ちいい。
……しかし、何故こんなものがここに?
見れば、氷を浮かべた盥があって、そこに浸されていたのだろうことがわかる。
だが、この時代に氷は貴重品である。
そうたやすく手に入るものでもないのに。

「……用意がいいですね?」
「ふふ、あなたが来られるのではと思ってましたから」

小首を傾げた望美に、経正はにっこりと微笑んだ。

「敦盛が朝からソワソワしてましたからね」
「あ、兄上っ……!」
「ふふ、恥ずかしがることはないだろう。お前は神子殿の八葉なのだからね」
「そ…そうですが、その」

――――八葉だから。
そんな理由で敦盛が望美の来訪を喜んでいるのではないことぐらい、経正だって気づいている。
その上で、そうやってかわしてやる。
「本当の意味」は望美と二人きりの時に、敦盛自身が口にすべきだと思うから。

ほのかな経正と敦盛の攻防の意味が分からず、望美は首を傾げていたが、不意に吹いた突風にたたらを踏んだ。

「わ、とと……」
「み、神子!」

思わず敦盛が手を伸ばすが、その前に望美はちゃんと自分で体勢を立て直した。

「大丈夫ですよ、これくらい。ちょっとびっくりしたけど」
「そ、そうか」

伸ばしかけていた手を、所在なく敦盛が仕舞う。
望美は気づかないまま、空を仰いで目を細めた。

「暑いと思っていたけど、風はやっぱり涼しい。………秋になるんですねー」

それは気楽なようで、どこか感慨深げな声だった。
当たり前だと敦盛は思う。
もう、一年が経とうとしている。
あの和議から。

―――世界は、懸念されていたほどの混乱もなく、つつがなく回り始めている。
神子も八葉も、もう必要ないほどに。

「……そうだな」
「紅葉が色づくのが楽しみですね」

敦盛が慎重に頷き、経正は明るい笑顔で微笑んだ。
何も気にならないかのように。

経正にしては場を読まない発言に、敦盛は僅かに目を丸くしたが、望美は静かに微笑んだ。

「そうですね。やっぱり北の方が早いですか」
「ええ、鞍馬なども早いかと」
「鞍馬か。先生の庵のあたりですね」

何気ない会話が続いていく。
敦盛は目をパチパチさせながらそれを聞いていたが、不意に理解した。
二人の気遣いに。
経正の、思いに。


生きてくれと、ただの敦盛に、一番初めに願ってくれた人。


「……洛中の紅葉もいい。その、神泉苑など……」

敦盛がぽつりと呟いた。
それに望美が笑顔で頷く。

「ええ、是非一緒に行きましょうね、敦盛さん!」

明るい声音。
怨霊として生きることが苦痛で、浄化されることだけを願っていた敦盛に新しい望みをくれたひと。

共に生きたいと、願うことは罪だろうか。
八葉でなくても、あなたが神子ではなくても、共にいたいと願うことは。

「―――私もご一緒していいですか、神子殿」
「はい、もちろん!」

経正の控えめな申し出にも望美は笑顔で頷いた。
こういうのは、人数が多い方が楽しい。

「ところで、今日は何の用でいらしたのですか?」
「あ、そうです!久しぶりに敦盛さんの笛を聞きたいと思って……経正さんの琵琶もお願いしていいですか?」

見れば、敦盛は既に笛を握り締めている。
経正は、鷹揚に頷いた。

「ええ、敦盛もいいかい?」
「は、はい」

既に何を吹こうか必死に思いを巡らせているのだろう。
どこか上の空な敦盛を残して、一旦、経正は琵琶を取りに立ち去った。






――――秋に移り変わろうとしている空は、高く澄んでいる。
そこに響き渡る笛の音と、曲の底流を支える琵琶に望美は耳を傾ける。
美しく、清冽な音は、奏者の気質を正しく表す。
怨霊という穢れた存在でありながら、どこまでもその音は美しい。






――――――生きて。
怨霊でもいいから、どうか、傍にいて……!







かつて、激しいほどに焦がれた想いは、今もまだ望美の胸にある。
失った恋の欠片を諦められなくて、廻って辿り着いた和議。
八葉としての任が終わるまでと、ようやく頷いてくれた敦盛を思う。

(八葉でなくても、傍にいて欲しいのは変わらないのに)

そして、きっと同じように思ってくれている経正を。


演奏は違う曲に移ったようだった。
何の打ち合わせもしていないようだった。
それなのに途切れなく、迷いなく、それは奏でられ続ける。

優しい音。
大好きな、音色。
それに身を任せながら、望美はどうしてか泣きたくなるのだ。
いつも。







――――たった一人の観衆で独占するには勿体なさすぎるほどの演奏だった。
望美はいっぱいに拍手を送る。

「すごい、すごい!ああ、やっぱりお上手ですね、二人とも……!」

弾けるような望美の笑顔に、二人の奏者も満足げに微笑んだ。

「ありがとうございます」
「貴女の舞にはかなわないが…」

はにかむように敦盛は言って、直後、それがまるで望美の舞を強請っているようだと気付く。

「あ、あの別に今舞えとかいうことではなく……!!」

真っ赤な顔で繰り出される弁明に、望美は一瞬きょとんとしたが、にっこりと微笑んだ。

「じゃあお礼に。私の舞でよかったら」
「ええ、是非。何か演奏しましょうか」

慌てふためく敦盛をよそに、経正がにこにこと頷いた。
望美は少し考える。

「では、胡蝶を」

――――そうして舞われた「胡蝶」は宮中にはべる白拍子もかくやという美しさで、敦盛は完全に見惚れた。
前よりも更にうまくなっているような気さえする。

ぐ、っと敦盛は無意識に笛を握り締めた。
その様子に、経正は微笑みを浮かべる。
そうしてどんどん大きくなっていったらいい。
敦盛が生きる理由。
生きていたい理由が。
彼女の他にも。

(そうしたら私は……いや、私も、そうか。探すべきか……)

舞はまだ続いていた。
琵琶をかき鳴らしながら、経正はその様子を見つめ続ける。
自分の心には蓋をしたまま。





誰もお互いの心を知らない。
優しい初秋の日は、穏やかなまま暮れていった。