たとえば熱く激しい感情じゃなくて、ゆっくりとこの胸を暖める。
あなたといられたら嬉しいと、ずっと思っていたんだよ。
硝子細工の恋
「……いいのでしょうか」
たどたどしく書かれた文を手に、経正はぽつりと呟いた。
その少女と再会したのは、和議前夜だった。
成るとは本当は思っていなかった和議を、力尽くでなさしめてくれたのは敵方のはずの源氏の――白龍の神子。
彼女が平家を救う謂れなどない、と思う一方、夜陰の戦場でみた優しさが、それを納得させた。
総領たる彼が言った。
「あいつがやるなら、俺たちは全力でサポートするだけだ」
聞けば、ずっと探しておられた幼馴染なのだという。
最愛の弟である、敦盛も言った。
「神子は……優しい人だから」
やはりかの人は争うことを厭われたのか。
心優しい方なのだ、と経正はしみじみと感じ入る。
しかし、思い出すのは、峻烈な翠。
本当に惹かれたのはそこである事を思えば、やはりこの身も武門の―――
そこまで思いかけて、経正は自嘲した。
現在この身は怨霊で、だから、何も望むことはいけないはずなのに。
望めるとしたら、ただひとつ、浄化されることだけなのに。
(我ら怨霊を浄化しうる、唯一のひと)
(白龍の、神子)
和議の後、平家を訪れて宴会に加わった彼女は、また来ます、と言って、本当にまた来た。
最初は全員で取り囲むように。
最近はだんだん……ふたりきりで。
彼女は優しい笑顔で琵琶をねだるから、ついずっと弾いてしまう。
望むことは言えない。
まだ傍にいたくなる。
「……あさましいな」
こうして来る、文さえも拒絶できない。
お待ちしていますと、応えてしまう。
会う度に降り積もる、物思いの欠片も言えない身であるのに。
☆
「経正さんっ」
「……神子殿」
庭から軽やかな声がして、予告の通り、望美が現れた。
あざやかな翠に、吸い込まれそうになる自分を経正は抑えた。
「今日も、琵琶ですか?」
「はい、いいですか?」
……駄目とは言わないけれど。
琵琶を弾くのは好きなのだし、彼女の傍は無条件に心地いい。
けれど。
自分だけが、独り占めをしているようで。
「……毎日のように来られて、いいのですか?」
経正の静かな問いに、望美が強張った。
一瞬の傷ついた色に、経正は軽く後悔する。
「……ご迷惑、ですか」
「そんなことは」
「じゃあどうして……」
弱く、空が曇ったかのような翳りの声音。
それでも美しい。
優しい。
(―――愛しい)
紛れそうになる心を懸命に抑える。
抱き締めそうになる衝動も。
この身が怨霊でなければと、何度思ったかしれない。
「あなたを必要とするものも、人も…とても多いですから、何だか申し訳なくて」
「用事なら、ちゃんとしてます!」
聞いている。
彼女が京の町を歩き、浄化していること。
法皇に召ばれ、舞を舞うこともあるのだという。
彼女は神子としての役割を、ここで以外は存分に果たしている。
「神子殿……」
「望美、です」
宥めるようにかけた声を、望美は挑むように遮った。
意地になったように。
「もう戦は終わったでしょう?私は白龍の神子じゃない、ただの望美です!」
「……」
「あなたの前でも、私は神子のままなんですか・・・?!」
珍しい癇癪に、経正は少し驚いた。
戦場で会った彼女は、目に涙はためていたが、凛として強く。
こうして向き合うときはただただ愛らしく、快活で。
どちらにせよこんな風に感情的なこの人を、経正は見たことがなかった。
「私を必要とする人って……経正さんは、どうなんですか…?」
「必要です……とても」
ぐずるような声に、必死に答える。
必要です。
―――この身は怨霊だから。
いいえ、本当はそれだけではなく。
「怨霊だから?」
「……ッ」
哀しむような、自嘲するような言い方にか、言葉そのものにか、経正は思わず息を詰めた。
口に出したことはなかった。
それを知っているような素振りもなかったのに。
勘のようではなかった。
知っているのだ、と経正は悟る。
「浄化して欲しいから、私に優しいんですか?必要だから?」
「そんなことは…」
言いかけて、言えなかった。
あなたの手で浄化されるならと、それもまた、真実の思い。
望美が哀しそうに微笑む。
「……ごめんなさい、言いにくいこと言わせて」
望美は笑おうとしたようだった。
だが失敗して、涙が一粒、零れ落ちた。
その涙に、経正は自分でも思わなかったほどの衝撃を受けた。
「やっ、ご、ごめんなさい、帰ります……っ」
「―――お待ちください!」
経正は咄嗟に望美を抱き止めていた。
抱き締めた自分と、身体の華奢さにハッとする。
今まで触れることも躊躇ってきた。
ずっと、彼女が穢れると思っていた。
―――けれど、本当は違うのかもしれない。
そのぬくもりと香りが、離せなかった。
我に返って、尚。
それが怖かったのかもしれない。
「つ、経正さん……?」
「……すいません、御不快でないなら、暫くこのままで……」
「不快なんてっ…」
望美はまた泣きそうになる。
背中が暖かい。
力のこめられた腕が、嬉しかった。
暫くして、名残惜しそうに腕は離れた。
その隙間が、もう寂しい。
望美は肩越しにゆっくり振り返る。
経正が困ったように微笑んでいた。
「……本当は、怨霊だからあなたが必要なのではないのだと思います。私が……あなたがいると嬉しいのです」
「え……?」
「……私が想うべきではないのは分かっているのですが」
経正の手がゆっくりと差し伸べられて、望美は呆然としたまま、その手と経正を見比べた。
(今、……なんて……?)
嬉しい、そう言ってくれたのだろうか。
彼は優しいから、自分をよく平家の恩人だと言ってくれるから。
それだけで、自分の我儘を受け入れてくれているだけだと思っていたのに。
それでも傍にいたくて、望美はもう暫くだけ、京にいるつもりでいた。
あと一度だけ、と毎回思い続けて。
「経正さん……」
「先ほどの涙は…自惚れてもよいのでしょうか。あなたも憎からず思っていて下さると……」
「……っ、自惚れて下さいっ……」
望美は手を通り過ぎ、ぶつかるように抱きついた。
経正が少し驚いたようで、喉を鳴らした音がすぐ上で聞こえる。
直衣に焚きしめられた香りが望美をそっと落ちつかせ、経正のぬくもりが心を騒がせる。
優しく経正の腕が回されて、望美はホッとする自分を感じた。
「……この身は怨霊です」
「……はい」
「いつ、消えてもおかしくない」
「それまででもいい、一緒にいたいです……」
応えるように、経正の腕に力が込められた。
望美は擦り寄るように頬を寄せる。
―――この恋は、きっと硝子細工。
もろく、きっと壊れやすい。
それでも欲しいと、諦められなかった恋。
暫く経った後、経正が囁くように聞いた。
「私の傍に、いて…下さいますか?」
請うような、確かめるような声音。
…望美さん、と小さく経正が呼んだ声に驚いて、望美が顔をあげる。
優しい手が、望美の頬を愛しそうに撫でた。