たとえば熱く激しい感情じゃなくて、ゆっくりとこの胸を暖める。
あなたといられたら嬉しいと、ずっと思っていたんだよ。





硝子細工の恋





「……いいのでしょうか」

たどたどしく書かれた文を手に、経正はぽつりと呟いた。

その少女と再会したのは、和議前夜だった。
成るとは本当は思っていなかった和議を、力尽くでなさしめてくれたのは敵方のはずの源氏の――白龍の神子。
彼女が平家を救う謂れなどない、と思う一方、夜陰の戦場でみた優しさが、それを納得させた。
総領たる彼が言った。

「あいつがやるなら、俺たちは全力でサポートするだけだ」

聞けば、ずっと探しておられた幼馴染なのだという。

最愛の弟である、敦盛も言った。

「神子は……優しい人だから」

やはりかの人は争うことを厭われたのか。
心優しい方なのだ、と経正はしみじみと感じ入る。
しかし、思い出すのは、峻烈な翠。
本当に惹かれたのはそこである事を思えば、やはりこの身も武門の―――

そこまで思いかけて、経正は自嘲した。

現在この身は怨霊で、だから、何も望むことはいけないはずなのに。
望めるとしたら、ただひとつ、浄化されることだけなのに。

(我ら怨霊を浄化しうる、唯一のひと)
(白龍の、神子)

和議の後、平家を訪れて宴会に加わった彼女は、また来ます、と言って、本当にまた来た。
最初は全員で取り囲むように。
最近はだんだん……ふたりきりで。
彼女は優しい笑顔で琵琶をねだるから、ついずっと弾いてしまう。
望むことは言えない。
まだ傍にいたくなる。

「……あさましいな」

こうして来る、文さえも拒絶できない。
お待ちしていますと、応えてしまう。
会う度に降り積もる、物思いの欠片も言えない身であるのに。













「経正さんっ」
「……神子殿」

庭から軽やかな声がして、予告の通り、望美が現れた。
あざやかな翠に、吸い込まれそうになる自分を経正は抑えた。

「今日も、琵琶ですか?」
「はい、いいですか?」

……駄目とは言わないけれど。
琵琶を弾くのは好きなのだし、彼女の傍は無条件に心地いい。

けれど。
自分だけが、独り占めをしているようで。

「……毎日のように来られて、いいのですか?」

経正の静かな問いに、望美が強張った。
一瞬の傷ついた色に、経正は軽く後悔する。

「……ご迷惑、ですか」
「そんなことは」
「じゃあどうして……」

弱く、空が曇ったかのような翳りの声音。
それでも美しい。
優しい。
(―――愛しい)

紛れそうになる心を懸命に抑える。
抱き締めそうになる衝動も。
この身が怨霊でなければと、何度思ったかしれない。

「あなたを必要とするものも、人も…とても多いですから、何だか申し訳なくて」
「用事なら、ちゃんとしてます!」

聞いている。
彼女が京の町を歩き、浄化していること。
法皇に召ばれ、舞を舞うこともあるのだという。
彼女は神子としての役割を、ここで以外は存分に果たしている。

「神子殿……」
「望美、です」

宥めるようにかけた声を、望美は挑むように遮った。
意地になったように。

「もう戦は終わったでしょう?私は白龍の神子じゃない、ただの望美です!」
「……」
「あなたの前でも、私は神子のままなんですか・・・?!」

珍しい癇癪に、経正は少し驚いた。
戦場で会った彼女は、目に涙はためていたが、凛として強く。
こうして向き合うときはただただ愛らしく、快活で。

どちらにせよこんな風に感情的なこの人を、経正は見たことがなかった。

「私を必要とする人って……経正さんは、どうなんですか…?」
「必要です……とても」

ぐずるような声に、必死に答える。
必要です。
―――この身は怨霊だから。
いいえ、本当はそれだけではなく。

「怨霊だから?」
「……ッ」

哀しむような、自嘲するような言い方にか、言葉そのものにか、経正は思わず息を詰めた。
口に出したことはなかった。
それを知っているような素振りもなかったのに。
勘のようではなかった。
知っているのだ、と経正は悟る。

「浄化して欲しいから、私に優しいんですか?必要だから?」
「そんなことは…」

言いかけて、言えなかった。
あなたの手で浄化されるならと、それもまた、真実の思い。
望美が哀しそうに微笑む。

「……ごめんなさい、言いにくいこと言わせて」

望美は笑おうとしたようだった。
だが失敗して、涙が一粒、零れ落ちた。
その涙に、経正は自分でも思わなかったほどの衝撃を受けた。

「やっ、ご、ごめんなさい、帰ります……っ」
「―――お待ちください!」

経正は咄嗟に望美を抱き止めていた。
抱き締めた自分と、身体の華奢さにハッとする。

今まで触れることも躊躇ってきた。
ずっと、彼女が穢れると思っていた。
―――けれど、本当は違うのかもしれない。
そのぬくもりと香りが、離せなかった。
我に返って、尚。
それが怖かったのかもしれない。

「つ、経正さん……?」
「……すいません、御不快でないなら、暫くこのままで……」
「不快なんてっ…」

望美はまた泣きそうになる。
背中が暖かい。
力のこめられた腕が、嬉しかった。

暫くして、名残惜しそうに腕は離れた。
その隙間が、もう寂しい。
望美は肩越しにゆっくり振り返る。
経正が困ったように微笑んでいた。

「……本当は、怨霊だからあなたが必要なのではないのだと思います。私が……あなたがいると嬉しいのです」
「え……?」
「……私が想うべきではないのは分かっているのですが」

経正の手がゆっくりと差し伸べられて、望美は呆然としたまま、その手と経正を見比べた。

(今、……なんて……?)

嬉しい、そう言ってくれたのだろうか。
彼は優しいから、自分をよく平家の恩人だと言ってくれるから。
それだけで、自分の我儘を受け入れてくれているだけだと思っていたのに。
それでも傍にいたくて、望美はもう暫くだけ、京にいるつもりでいた。

あと一度だけ、と毎回思い続けて。

「経正さん……」
「先ほどの涙は…自惚れてもよいのでしょうか。あなたも憎からず思っていて下さると……」
「……っ、自惚れて下さいっ……」

望美は手を通り過ぎ、ぶつかるように抱きついた。
経正が少し驚いたようで、喉を鳴らした音がすぐ上で聞こえる。
直衣に焚きしめられた香りが望美をそっと落ちつかせ、経正のぬくもりが心を騒がせる。
優しく経正の腕が回されて、望美はホッとする自分を感じた。

「……この身は怨霊です」
「……はい」
「いつ、消えてもおかしくない」
「それまででもいい、一緒にいたいです……」

応えるように、経正の腕に力が込められた。
望美は擦り寄るように頬を寄せる。





―――この恋は、きっと硝子細工。
もろく、きっと壊れやすい。

それでも欲しいと、諦められなかった恋。




暫く経った後、経正が囁くように聞いた。

「私の傍に、いて…下さいますか?」

請うような、確かめるような声音。
…望美さん、と小さく経正が呼んだ声に驚いて、望美が顔をあげる。
優しい手が、望美の頬を愛しそうに撫でた。