それは、望美が知盛の一つ目の願い事を叶え、二つ目を叶えるまでの間の話。

 その日も望美は軽やかにぴょこぴょこ歩き回り、あちらこちらの場所で騒動を起こしていた。
 本人に騒動を起こしている気がまったくないのが一番困りもので、しかし誰も何も言えなかった。
 愛らしすぎるのである。
 少女は魔人で人の子の常識の範囲外であるし、にこにこといつも機嫌よく振舞うので、いつの間にか誰もが絆されてしまう。
 今日こそ言ってやるぞ!と意気込んで言う者も中にはいるが、はて、言えたと聞いた試しもないのである。
 アラーにかけて!
 この国の王宮は今、魔人の虜となっていた。

 それは王も例外ではない。
 たとえ本人にその気がなく、そうと振舞っていないつもりでも、周囲に言わせれば、王の彼女に対する態度は滅法甘い。
 今日もまた、普段なら不機嫌に眉を顰めるところが、ため息をついただけだった。

「……何をしている」
「それ、浴場(ハンムール)?」

 望美は王の入浴中、広い砂漠の奥に隠されたオアシスの泉に似た翠の瞳を大きく開き、傍に近寄ってきた。
 知盛は傍の小麦色の肌の美女に腕を磨かれながら寛いでいる。

「それ以外に見えるか……?」
「みんなのと違うのね」

 当たり前である。
 知盛は王で、この王宮の主。
 だが、望美に人の理屈は通用しない。一番偉いのだろう、程度の区別でしかないらしい。
 それは望美が魔人だからというよりも、少女の本質からくるものであろうと王には思われた。
 だから、ここで特にそれを声高には言わない。
 いや、普段から声高に言わなくても、知盛は優美でいて暴虐なこの国の王であるのは、誰も間違えようもないのだが。

「そうだな」
「綺麗……いい香り」

 知盛の浴場は、望美から見て水盥の大きくしたもので、薔薇の香りが甘く漂っている。
 お湯は湯気が立ちあたたかく、澄んでいるため、光を受けてきらきらと光った。

「いいな。私も入りたい」

 知盛は小さく驚いた。何だと?
 望美はお湯に指先を浸し、知盛を掬うように見上げた。
 蠱惑的な誘い文句に聞こえなくもない。この無邪気な魔人が?
 しかし王の淡い期待は破られた。

「私のも欲しい。駄目?」
「……」

 人になりたい魔人は、人のやることに興味が尽きない。
 汗をかくこともなく、汚れればふるりと魔法を使いながら一回転すればいいだけの望美には浴場の必要がまったくなかった。
 普段目にする浴場もいいなとは思うようだが、この自分だけの浴場というのが望美の興味をいたくひいたものらしい。
 知盛が黙って手を振ると、知盛の背中に移ろうとしていた女官二人が音もなく一礼し、その場を離れた。
 望美はきょとん、とする。

「入りたければ入れ…」

 望美は首を傾げた。

「空けてくれるの?」
「俺はまだ入浴中だな……」

 加えて言えば、知盛が上がれば、お湯は捨てられてしまうだろう。
 この場合、知盛が望美のためにお湯を残すよう言ってやれば済むのだが。
 いや、偉大なる王には望美のために専用の浴場をあつらえてやるくらい、どうということもないはずである。

「……じゃあ私一人のものじゃないじゃない」
「クッ…俺と入るのは不満か?」
「そうじゃなくて」

 どういえば分かってもらえるのだろう、と望美は眉間にしわを寄せた。
 浴場なんて、現在魔人である望美には必要ないのである。
 そして人になれば、入る浴場はきっと石造りの浴場。
 ならば、一度でいいから手足を伸ばしてこの初めて見る浴場につかりたいではないか。
 それには知盛は邪魔。
 控えめに言っても知盛は小さくないし、望美だって遠慮も恥じらいもある。
 知盛がいたら好きにはできないではないか。
 それでは希望は叶えられない。
 そこで望美はふと気がついた。

(私の希望なんて、叶えられなくて当たり前なのに)

 この王宮の人たちは魔人の望美に優しすぎて、甘やかされて、望美はそれをすっかり忘れていたようだ。
 小さく憂いを瞳に含ませ、望美は立ち上がる。
 シャララ、と腕輪が鳴らしあって音を立てた。

「ごめん、やっぱりいいわ」

 魔人の望美は道具。
 道具にはすぎた我儘だった。

(浴場は、人になれたら入ればいいわ)

 思い直した望美の表情に、知盛は僅かに苛立った。
 知盛は勢いよく立ちあがった。

「……俺が出る。入れ」
「えっ?」
「それとも一緒がいいか……?」

 並の女ならばそれだけで腰が砕けるだろう艶めいた囁きも、落ち込んでいた望美には威力がない。
 知盛の彫刻のような裸体でさえ。

「ううん!一人で入る!」

 底抜けに明るい笑顔で喜ばれて、知盛としては苦笑するしかない。
 ―――まったく。
 自分が、誰かに何か譲ってやるなど考えることになるとは思わなかった。
 しかも相手は人でさえない。
 ろくに水滴も拭わぬまま、置かれていた衣装を纏いだした知盛に構わず、望美は湯に手を浸し、知盛が出て行ったらすぐに使うつもりなのだろう、鼻歌まで歌ってご機嫌だ。
 知盛を見もしない。
 知盛はもう一度苦笑した。
 そして望美のために出て行ってやる。

「あ、ありがとう、知盛!」

 背後で思い出したかのように弾んだ声で礼が響き、知盛は応えるように、ひら、とその手を振ってやった。

 これは遠い遠い古い国の、小さな恋のほんの一幕。