それはまだ、誰も何も知らない春の京。
そして福原の話。
デ・ジャ・ヴ
ある日、突如として単身京に乗り込むと言いだした還内府を巡って、福原は大騒ぎになっていた。
「そんな、お一人でなど……危険です!」
「だーから、大丈夫だって……」
「御身に万一のことがあったらどうするつもりですか!!」
「ないって」
一旦は都落ちしたものの、何とか福原までは返り咲いた平家勢である。
ただし、それは時運のもので、またいつ何時何がおこるやもしれぬ。
そうした不安を解消するべく、将臣としては和議の打診に京に行く必要性を考えていた。
(都落ちの時の愚は犯せねえ。今度は、失敗する気はねえ)
法皇を取り逃がしたハンデは大きかった。
ましてや、将臣は「源氏が勝つ」という未来を知っている。
ここまでは予定通り。
だが。
―――もう、躊躇ってなどいられない。
「俺も十分強いし。ま、そんなに心配すんなって」
心配性の経正に、わざと明るく将臣は言う。
実際、道行の不安はない。
しかし、経正も、何も道中の危険のみを言っているのではなかった。
「道は完全に把握しておられるのですか」
「……ま、行きゃ何とかなるだろ」
「後白河院まで辿りつけるのですか」
「へ?」
「つては?いったいどのような方法で、還内府殿はあの方に直談判するつもりなのです」
「………えーっと………」
行く必要性は考えていた。
若干の面識もある。
……行けば会えるだろうという行き当たりばったりの思考だったことは否めない。
答えに窮した将臣の横、退屈そうにごろ寝していた知盛が短く哂った。
「………ご大層な事だな……」
経正と将臣は無言でその背中を見つめる。
やる気なさげな「弟」の有用性を将臣が思い出したのは、言うまでもない。
☆
「ちゃんとご飯までに帰ってきて下さいよ!」
「わかってる!行ってきます〜」
この世界に跳ばされてから、一月近くが経とうとしていた。
雪が降らなくなり、桜が咲き始めている。
まだ満開とは言えないが、随分咲いた。
この世界にも随分慣れた。
九郎に認めてもらうため剣を振るい始めた望美にとって、昼下がりから夕暮れまでは、絶好の稽古時間である。
だが、この日、望美が一人で向かったのはいつもの神泉苑ではなかった。
(せっかく教えてもらったもんね……)
馬酔木の花飾りがよく似合う清楚で優しい面影。
舞を習いたいと言うと、その人は笑顔で頷いてくれた。
右も左も分からない望美の手を、優しく引いてくれた人。
対だという彼女に恥ずかしくないように、望美は舞の復習に下鴨神社に来ていた。
桜がひらひら、舞い遊ぶ。
洛中の桜よりも何故か満開が早いようだ。
この前よりもたくさん咲いて、花弁が舞っている。
「……よし!」
この中でなら気分よく舞えそうだ。
望美は小さく拳をつくって気合を入れると、扇を広げて、習った舞を反芻しはじめた。
知盛は面倒そうにため息をついた。
……やっと解放された。
将臣を法皇のもとに送り届けたのがついさっき。
経正が懸念したように、平家の使者に対して法皇側の警戒は相当なものであった。
都落ちの際、いち早く見捨てたことを恨みにきたと思われたか……まあ、妥当な判断である。
舌先三寸で丸めこむのも、懐かしい声に法皇本人がつられなければ、面会は叶わなかったに違いない。
ここからは、「還内府」殿次第であると、知盛は早々に退出した。
『まっすぐ帰れよ!面倒起こすなよ!!』
……と、将臣は無駄な釘を刺していったが……
知盛はすぐに戻る気はなかった。
と、いって、何をするわけでもないのだが。
要は「言うことを聞く」のもつまらない―――だけで。
(……くだらぬな……)
離れても、戻っても……この世界は変わらない。
知盛にとってはすべてが読める、驚きの乏しい世界である。
将臣あたりを適当に眺めてでもいる方がまだ余程愉しいというもの。
……ならば福原に戻らずこのままここにいるか?
きっと、将臣は怒って……何か言うだろうが……
「クク……それもまあ悪くはない、が……」
そんなことを考えながら、戯れに歩いて辿り着いたのは花の盛りの神社である。
このまま暫く見物するのも悪くないくらいの。
知盛が適当に腰を落ち着けようとしたその時である。
(……誰か、いるか……?)
見咎められては面倒だ、と知盛は不機嫌に踵を返そうとした。
そのとき。
不意に突風が吹き、視界は一度遮られた。
舞い散る桜。
飛び込んできたのは見慣れぬ衣装の舞姫――――
「………っ……」
一瞬で息を奪われた。
しかし、それは錯覚だった。
「んー、駄目。ここからが分からない。あーん、朔〜」
おぼつかない足取りの舞手は、すぐに匙を投げて座り込んでしまった。
そこに知盛が感じたほどの艶は一切ない。
しかし、息を呑みこんだのは本当で、知盛は事態の不可解さに首を傾げる。
とりあえず事の成り行きを見守る気になったが、暇だったから以外の理由は特にない。
少女は匙を投げたように見えたが、何やら顔を叩いて再び舞い始めた。
最初はあんまりよく分からなかったが、どうやら胡蝶を舞っているものらしい。
勘は悪くないのか、見る間に上達していく姿は知盛を暫く飽きさせなかった。
だが……。
「―――舞足の向きが……違う」
「えっ?」
不意に響いた低い声に、望美はぎくりと身を強張らせた。
誰もいないのを確認してから始めたが、いつから見られていたのか、桜の木の下に男がいる。
銀の髪の―――端正な顔立ちの。
触れれば溶けて消えるような氷細工のような繊細な美貌。
吸い込まれそうな菫の色に、望美は咄嗟に逃げかけた足を止めてしまっていた。
そんな望美にかまわずに男は歩み寄ると、望美がずっと違和感を感じていた箇所を望美の手を取っていとも簡単に舞わせてしまった。
「そこは、こう、だ……」
「わ……!」
するりと身体が動き、自然と次の動作に繋がる。
望美は驚き、振り返ってお礼を言おうとした。
「あ、ありが―――」
……いない。
いつの間にか夕暮れになった下鴨神社。
男はまるで溶け込むようにその姿を消していた。
銀と菫の面影は、一瞬だけだったから記憶には曖昧だ。
まるで夢のような瞬間。
(誰だったんだろう、また会えるかな……?)
夕焼けの逆光と相手が背後から来たせいもあって、もう顔もよく思いだせない。
触れられた手が、やけに熱い。
もう一度会って、お礼が言いたい。
―――だけど、今程度じゃ、何だか格好がつかない。
「……よおし!」
望美は気を取り直すと、さっきの感覚を忘れないうちに、とまたはじめから舞い始めた。
「………何でまだいるんだよ」
「さてな………」
狸との交渉に疲れて宿に戻った将臣が見たのは、雪見御所と何ら変わらない悠々とした姿で寝転ぶ知盛だった。
……素直に帰るとは、確かに思っていなかったが。
何か言う気にもなれなくて、将臣ははあっと疲れたため息をつく。
よく見れば何だか知盛は生き生きとしていた。
やっぱり故郷は肌に合う、とかだろうか。
……この先何度か、連れてくるんじゃなかったかもと、将臣が思ったとか思わなかったとか。
―――この先の運命を、今はまだ誰も知らない。
再び京で会うことも。
立場も、何も。
「あ、あなたは……っ」
「よう……お前が、源氏の神子、か……?」
炎の京。
再会に感じる既視感は淡い恋の壊れる音か。
それとも………