源平の戦は終わり、その後の波乱も何とか幕を閉じた。
……いや、決して火種が絶えたわけではない。
それでもただ、京は応龍の加護のもと、平和を保っており、望美――桜姫の周りは、いたって平和だった。
ずっとこの平和が続けばいい―――
心から、誰もがそう思うほどに。
心惹かれて
「知盛ー?どこー??……んもう」
京、六波羅に再建された平家の邸の一角で、望美は恋人の姿を探し、歩き回っていた。
いつもは呼ばなくてもそのへんにいるくせに、今日に限って、いない。
……いつもいるのもどうかと思うのだが、こういうときにいないあたり、困った奴だと思う。
「………自分の部屋かな?」
滅多にないが、まあちゃんと自分の部屋にいないでもないのだ。
望美はくるっと、身体の向きを変えた。
表着が重く、いつもの装束のようには回れない。
だが、望美は、今日これを脱ぐ気はない。
何故なら……
「……ふふっ」
望美は小さく微笑んで、元気に駆けこんでいった。
いったのだが……――――
「………いない」
邸の女房達が見たらどう思っただろう。
低い声は恐ろしい。
萎れた肩ははかなげで痛々しい。
怖がるか、慰めに回るか?
―――きっと後者だろう。
この邸の中で最も信奉されているのは、他でもない、桜姫本人だからである。
この平穏を導いた立役者。
献身の姫将軍、平家方最強の、鬼謀の将・桜姫。
普段見せるたおやかな美しさと裏腹に、その強固な意志は戦時も平時であっても揺らぎもしなかった。
決死の覚悟で血路を開き、ただ一兵のために涙した心優しき乙女。
いかにその声が恐ろしかろうと、根柢の優しさは疑うべくもない。
女房らが桜姫擁護にまわるのは、それだけが理由ではないのだが。
「もう……どこに行ったんだろ……」
望美は若干疲れて肩を落とした。
見せたかったのに。
知盛が、婚礼にと揃えてくれている中で、一番最初に出来上がった表着。
……きっと、似合うと言ってくれるのに。
「…………」
望美はきょろっと、室を見渡す。
実は、望美は知盛の室にはそう入ったことがない。
昔は何をされるかと警戒していたし、今は……呼ばれなくても知盛が勝手に、望美の室に来てしまうからだ。
昨夜も愛されたことを思い出し、白磁の肌が瞬時に火照った。
……まだ、慣れない。
囁かれることに。
優しく―――激しく身体ごと愛される、ということに。
望美はこっそり一人で悶絶し、ふと、香りに惹かれた。
涼しい中にも匂いやかな香の中に混じる一筋の………香り。
「……ここ、かな」
物の少ない室内に無造作に置かれた脇息に近寄ってみる。
予感の通り、そこからは知盛の匂いがした。
室内に漂う、彼の香ではなく、彼自身の……
疲れもあって、望美はその脇息にもたれかかってみる。
直に頬を触れさせると、よりそれは強くなった。
知盛の匂い。
獰猛で繊細な。
……この匂いに包まれて眠る日は、もう望美にとって日常である。
「……知盛……」
反射のような作用で、つい、欠伸が出た。
吐息のように囁いて、望美は自然に目を瞑る。
望美が完全に寝入ってしまうまで、そう長くはかからなかった。
☆
望美がいない。
堅苦しい宮中を早々に抜け、六波羅の邸に帰ってきた知盛が最初に目指したのは、桜姫の室である。
しかし、主たる望美の姿はそこにはなかった。
いつもならそこでそのまま寝転んで待つ知盛だったが、望美が知盛を探していたという。
(……何かあったか……?)
他のことならば、知盛も別に気にしない。
しかし、望美に限っては別である。
目が離せない。
ちょっとからかったら剣まで習うし、戦場にだって出てくるし、実際に腕が立ち、華やかに舞い……
すぐ泣くし、すぐ怒る。
普段はどちらかというと直情的なのに、戦場においては氷の華の如き硬質な透徹さも見せる。
戦場の愛すべき相棒。
そして―――愛しい女。
(お前が敵であれば……と、どれほど願ったか…知れない。同時に味方でよかった……と)
知盛にそんなことを思わせる存在はそうはいない。
望美だけだ。
たった一人、彼女だけ―――
そして、その本人はどこにいる……?
散々探しまわった末に、休憩に立ち寄った自室で、ようやく知盛は望美を見つけた。
自分の脇息にもたれかかり、素晴らしい織りの表着に埋まるようにして眠る儚い体躯。
それは凄艶な色香と儚さを醸し、男の雄を、呼び覚ます―――
「……望美……」
どこか聖域に踏み込むような、らしくない敬虔な気持ちさえ覚えながら、知盛は踏み出す。
自分の贈った花の衣に埋もれて眠る、華のもとへ。
「ん、……知盛……?」
「……ああ」
まだ眠りから覚めない。
眠たげな声が、妙に知盛を煽る。
愛しい。可愛い。――――欲しい――――
知盛が欲望のままにその身を暴こうとしたその瞬間、望美は完全に覚醒した。
「知盛っ!もう、どこにいたの!」
知盛は、愛しい本人に邪魔された心地で眉根を寄せる。
「……宮中だが」
「あ、……そ、そう、仕事してたの。ごめん、知盛」
「……ああ」
剣幕は激しかったが、すぐに肩を落とし、しょんぼりした風情で望美は謝ってきた。
たおやかな大輪の華。
普段の望美はまぎれもなくそれだが、ひょんな拍子にこんな風に幼い様子を見せることがある。
だが、こんなときの望美に逆らえたためしが、知盛にはない。
「俺を探していたとか……?」
「そう!そうなの!ほらこれ、一番に届いたんだよ!」
しょうがなく水を向けてやると、望美はパアッと顔を輝かせ、立ち上がって一回転した。
重たげな表着がふわりと揺れ、望美の香りを知盛に届ける。
香をあまり焚き染めない望美には、桜のようにほとんど明確な匂いがない。
だが―――その微細な香りは、既に知盛に馴染んだものだ。
「……似合うな」
「ふふ、ありがとう……知盛」
予想に違わず、酷薄の笑みではあるが、知盛は褒めてくれた。
望美は匂やかに笑い返す。
しかし。
「似合いすぎて……剥きたくなるぜ、望美……」
「―――――駄目」
「………」
微笑みはそのままに、望美はきっぱりと知盛の邪な手は拒絶した。
知盛が憮然とするのにも、望美はかまわない。
「他にも見せてこなきゃなの。一番に見せなきゃ、知盛怒るでしょ?あ、楓は別だよ。私ひとりじゃ着つけられないもの」
「……………他とは誰だ」
確かに。
一番に見せろと言ったのは自分であって、望美がこれを着崩したくない理由も分かりはする。
だが、知盛としては、本当は望美を誰の目にもさらしたくなどないのだ。
奥に閉じこもる女人でないからこそ、ここまで惹かれたのも充分に理解しているものの―――
しかし、なけなしの抵抗は、あっさり封殺された。
「時子様と徳子様。二人とも、お待ちかねでいらっしゃるの」
……他ならばともかく、その二人には譲らねばならないだろう。
知盛は深く重いため息をついた。
「……その後は?」
「経正さんに、忠度殿と惟盛殿と重衡殿と敦盛殿と―――」
「―――わかった。もういい」
ここまで来ると敦盛以外の「八葉」とやらの名前まで出てきそうだったので、知盛は苦々しそうに止めた。
望美は小首を傾げる。
「どうしたの、知盛?……やめた方がいい?」
「……別に構わん」
本心としてはやめて欲しい。
望美をただ、腕の中だけに閉じ込めていたい。
いつ飛び立つかわからない女。
だが、そうした嫉妬をみせるのは、知盛の矜持に差し障るのだった。
だが、隠しきれていない。
望美は嬉しそうに―――くすぐったそうに微笑みを浮かべる。
「嫌、って言ったら、考えてあげる」
「…………」
昔なら、考えなかった。
知盛は嫉妬なんて感情と一番縁遠いとさえ思っていた。
だけど、今の望美は知っている。
知盛の見せる独占欲と、その裏にある愛情を疑っていない―――
「……知らん」
「ふふ、意地っ張り」
「何だと……?」
「何でもなーい」
尚も意地を張る知盛に、これ以上遊ぶのを、望美はやめてあげることにした。
その「可愛らしさ」に免じて。
(時子様と徳子様にだけ、お見せしよう)
後は、どうせ披露の時にでも着るのだから―――うん。
「じゃあ、行ってくるね、知盛」
「………好きにしろ」
気だるげに吐かれたため息に、望美はもう一度笑う。
………「可愛らしさ」にほだされた望美は、このとき、夜になってそれが牙を剥くことを、すっかり失念していたのだった。