雨が降っていた。
降り続く雨。

そこに行けば彼がいると、私はもう知っていた。






触れ合った指先






「将臣君!知盛ー!」
「お前、また来たのかよ」
「何?駄目?」
「駄目じゃねーけど」

将臣たちが滞在している宿は、望美たちの宿と少しばかり離れている。
だからだろうか?
望美が毎日出かけても、捜しあてられたことがない。

不思議に思っていると、白龍と目が合った。
静かな眼差しは、何を語るでもない。
そこにあるのは、純粋な信頼。

それだけで望美は、安心することができた。

ここにいるのは間違いじゃない。
少なくとも、望美の龍は責めたりしないのだと。

「じゃあいいじゃない。ほらほら、怨霊探しに行くよー!」
「あー、へいへい」

考えてみれば当たり前かもしれない。
白龍に、人の世の争いは関わりはあっても関係はないだろう。
神子が誰といたって、最終的に龍脈さえ正されればいいはずで。

「ほらっ、知盛、起きて!」
「うるさい……まったく、元気なことだ……」

けだるげというより、心底嫌そうな男の下に敷かれた布団を強引に引っ張って転がした。
知盛が頭を打ち、嫌そうに立ち上がる。
何故だろう、涙が出そうになった。







夏の熊野はとにかく暑い。
京とはまた違った暑さで、望美たちが「怨霊探し」をするのは主に水辺である。

「ひゃあ、冷たい!気持ちいいよ、ほらっ!」
「……それは何よりで……」
「あ、気のない返事。知盛も入ればいいよ。暑いでしょ?」
「………そこに行くまでが暑い」

那智の滝の下流で、望美と知盛は二人きりだ。
将臣はどこかに消えた。
それを気にもしないような望美を、知盛は不思議に思う。

怨霊を葬る激甚の刃。
極上の舞姫。
初めて会ったときの、彼岸を見つめる翠の目は、今はただとにかく子どもっぽい。

「どこまでだだくさなの!ちょっと我慢して、こっち来たら?本当に気持ちいいから」
「クッ……お優しい、な」

呼びながら、望美は動こうとしない。
知盛の腕を引いて、動かそうとはしない。
将臣にはあれほど簡単に触れるというのに。


(やはり俺とお前は敵同士ということか……)


悪くない。
望美の態度があまりにこだわりがなさ過ぎて、よもや色々忘れているのではないかと思ったこともあるのだが、それはさすがに杞憂か。
また、そうでなければ困る。

彼岸を見つめる瞳。
あの翠。
あれに睨み据えられる瞬間を想うと、身体中の血が滾る。
敵同士だからこそ、いずれ訪れる瞬間。

たとえ、触れ合うことはなくても。
触れ合うことがないからこそ。








「おーい、望美、知盛〜」

将臣が崖の上から、呼びかけてきた。
用事は終わったものらしい。

「李があるぜ、上がってこいよ!」
「こっち来てよ、川の水で冷やして食べたいー」
「……しょーがねえなあ」

望美の我儘に苦笑して、しばらくして将臣は崖から下りてきた。
その手の中に、溢れてこぼれおちそなほどの李やら何やら。
望美は満面の笑顔で川から上がり、知盛をすり抜け、将臣のところにあっさりと行ってしまった。

通り過ぎる、藤色の風。

それを特別どう、と思うことはない。
何故なら。

(俺とお前は敵同士。触れ合わぬが定め、だろう……?)

それなら将臣も同じはずだが、知盛はそうは思わなかった。
望美が将臣には気軽に触れるからかもしれない。
もしくは、望美の敵は、自分だけだと思っているからか。

「わ、すっごくいっぱい。これどうしたの?」
「そこでちょっとな。情けは人のためならず、ってやつだ」
「怨霊?呼んでくれればいいのに」
「はは、いさましいな、お前」

たくさんの果物に歓声をあげている姿はただ幼く、知盛の興味の対象外。
知盛は木の陰で小さく欠伸をした。

「知盛も来いよ、うまいぜ」
「……ああ」

何も知らないような呑気な顔の将臣に促されて、知盛はゆっくりと歩き川べりに近づいてきた。
望美は小さく息をつく。
――――私がどれほど呼んでも、来ないくせに。

「ほらっ、冷えたぜ!」

明るい声に促され、望美と知盛の手が同時に李に伸びた。


「………っ」


同時に手を、引いてしまう。

「……どした?」
「う、ううん。ちょっと、向こうで飲み物もらってくる!」
「あ、ああ……」

駆け去る背中を呆然と見送って、将臣は、無言で自分の手を見つめている、平家の猛将を振り返った。

「………お前、なんかした?」

問われて我に返り、過保護な兄上に、知盛は短く哂う。

「いいや……?」
「そ、そうか?」
「ああ、何も、してはおらぬさ……」

はじめて、指先が、触れただけ。
ほんの偶然。
ぬくもりとも呼べぬ、わずかな触れ合い。

ただそれだけ。

「―――――今は、な…」
「お……おいおい、お前、何もすんなよ?」
「クッ……神子殿次第、と言っておこうか……?」

何がおかしいのか、満面に愉悦の微笑を浮かべて上機嫌な知盛に将臣は軽くひきつる。
冗談に聞こえないから、性質が悪い。
望美はまだ、戻らない。


敵、だった。
敵としてしか、価値がないはずだった。
なのに。


向こうからようやく戻ってきた望美の顔が、まだ僅かに紅い。
知盛は僅かに、笑みを深くした。


触れ合った指先の、熱の残り香。




触れ合わなければ走り出すことはなかったはずの、恋だった。