それは凪の海。
 数多の命を呑みこみ、ようやくしじまを迎えた冬の壇ノ浦。
 少女はひとり、立ち尽くす。

「―――これは、鄙には稀なる…」
「あなた―――平知盛!」

 本当の出会いは炎の京だった。
 燃え盛る京邸の近く。
 あなたは今まで戦った誰よりも強く、私の前に立ち塞がった。
 酷薄の笑み。
 いささかも変わらぬそれが、今目の前にある―――

「……ほう、俺を知る、か。ただの村娘ではなさそうだな……」

 何が知盛の気を引いたのか分からない。
 何であってもおかしくはないし、何でもおかしいとさえ思った。
 京を焼き、勝利を目前にしながら少しも嬉しそうでなかった男。
 負けの見えた壇ノ浦でもそれは変わらず。
 剣がすべてと言いつつ勝利も敗北もこの男に変わりはないのなら、他の何が彼を動かすというのだろうか。
 男も女もひとくくりに、誰のことも通過していきそうなのに。


 今も望美は分からない。
 あの熊野の日々は、確かに知盛の何かを掴んだと思っていた日々は、幻だったのだろうか?





「……闇討ちか?」
「違うわよ。探してたの。たどりつけるとは思わなかったけど」

 見つけられるとは思わなくて、知盛の背後にながく望美は声をかけることもできずにいた。
 望美は決まり悪そうに口を尖らせた。
 知盛はクッと短く哂い、それ以上何も言おうとはしない。
 静かな静寂と、沈黙。

「……何もないのね」

 ぽつりと望美が言った。
 知盛が顔を上げる。
 ここは夢。知盛の夢。
 ただ漆黒の闇のようで、他には何もなく、ただお互いだけがはっきりと見えた。
 不思議な空間。

「何もないのね」

 望美が再び呟いた。
 たとえば将臣の夢には、たとえ無人というありえない要素があったにせよ、学校という舞台があった。彼の思う場所が。
 知盛には何処も思う場所はなかったのだろうか。
 福原の邸や宮中、あるいは……熊野とか。

(―――熊野だったらいいのに)

 望美は思う。
 熊野だったら、言えるのに。
 追いかけられるのに。
 知盛はしばらく黙っていたが、やがて落とすように笑った。

「……お前がいる」





 目を開けると、間借りした邸の高くない天井の梁が見えた。
 隣には朔の規則正しい寝息。
 しんと冷えた、屋内でさえ吐く息の白くなる季節。
 あの夏はすでに遠い。
 明日には決戦が始まる。
 明日―――

(あなたを、殺す)

 もうずっと巡っていた運命。
 涙が流れているかと期待したのに、頬は乾いていた。
 望美は涙の代わりに少し笑った。


 一体―――あなたが変わることを期待したのか、私が変わることを期待したのか。
 ここにいたって、何が変わるというのか。
 多勢に無勢で、ヒノエの立案による福原強襲の成功のため平家の劣勢は今までにないほどで、もう平家が助かる道は何処にもない。
 それを決めたのは私で、この先、たとえば御座船は囮だと言ったとしても、それを見逃さなくていいだけの兵力が今の源氏軍にはある。
 あなたは助からない。
 一人だけ助かろうともしないでしょう。





 剣戟が響く。
 多くの怨霊、今までとは強さもケタ違いのそれらを必死に葬りながら、望美は一心に御座船を目指した。
 さながら鬼神のように。
 誰も今の望美に白龍の神子の慈悲は感じないだろう。
 それとも、それでも怨霊を剣で斬る行為は、浄化に間違いはなく、それならこれも慈悲なのだろうか。

(邪魔しないでっ!)

 私の道を塞がないで。
 あの人以外、あなた以外、塞がないで!
 祈るように、願うように、ただそうあれと望むように。
 息は切れて、血を浴びて、凍える冬の寒さも今は火照る身の冷ましにもならない。

「―――来たか」

 朗々と詩を謡っていた知盛は、ゆっくりと振り返った。
 あの日と同じ目をして。
 いや、あの日よりもなお、強く興味に目を輝かせて。
 笑う。

「三種の神器は、どこ?」

 答えるはずもない。
 分かっていて問う望美を、どこか哀れなように知盛は感じた。
 お互いに退けない―――退かないことは分かっていた。

「気になるか?俺を倒して……調べてみればいい」
「……そうするわ」

 望美は頷き、短く呟いた。
 望美が剣を構えて、知盛がそれに応えるように笑った。
 始まればもう、終わりはひとつしかない。
 望美が終わればもう誰も助けに行けないから、望美は終わるわけにはいかないのだ。

「―――知盛―ッ!」

 剣で刺し貫いた瞬間を、望美は忘れない。

 満月の夜には、夢を渡れるという。同じ相手を思っていれば。
 それでは知盛も、思ってくれたのだろうか、自分を。





「……まだ座っているのか」

 望美は不意にかかった声に身を強張らせた。
 振り返らなくても分かる。分かってしまう。だけど。

「……知盛?」

 再び会えると思っていなかった人の姿に、望美は初めて、泣いた。       Fin.