その一言は、とても意外なものだった。

「・・・・・・・は?」

望美は耳を疑った。
単衣をかき寄せながら、問い返す。

「今、結婚するとか言った?まさか私と?」

単衣を羽織っただけの知盛は肩越し、いつも通リ酷薄に微笑んだ。

「お前以外としてどうする・・・・・・?」

望美は唖然とした。
これはプロポーズなのか。
それとも決定事項なのか。
――――どちらにしろ。

「私の意志は!」
「クッ・・・・・・・」

真っ赤になった望美に、知盛は薄く微笑んだだけだった。





水の月





知盛の動きは早かった。
あれよあれよという間に、すべての段取りを調えてしまっていた。
望美は顔を顰める。

「ねえ、私の意志は?」

御簾をくぐり、京邸に三日通うことで既に望美の夫として認められた知盛は、短く笑った。

「そんなものを待っていては・・・・・・・つまらんだろう・・・・・・?」
「つまらないって・・・・・・」

怒るのでもなく、悲しむのでもなく。
ただただ呆れたようなため息を望美はこぼす。
知盛は笑いながら直衣を緩め、望美の近くに腰を落とした。
そして、唇を寄せる。

「んっ・・・・・・」
「お前こそ、どうして逃げなかった・・・・・・・?」

口づけの合間、知盛の甘い囁きに、望美は小さく身じろぎをした。


――――どうして・・・・・・


「・・・・・・そんなことが気になるの?」

私の意志なんて待っていてもつまらないって、言ったくせに。
いつも自分勝手で、傲慢男のクセに。

拗ねたように望美が言って、ひらり、蝶のように知盛の腕から逃れた。
知盛が落とすように微笑む。

――――自分に対してこんな事をいう女は、望美以外にいない。
望美以外に許す気もないが。

・・・・・・望美はいつでもこうして知盛から逃げられる。
なのに、必ず逃げるとは限らないのだ。

たとえば。

「来い―――」

艶冶な笑みで差し出された手に気づき、望美は嫌そうに、しかし自分から近づいてくる。
その手に絡めとられ、再び口づけられても、抵抗さえしない。

「んっ、んんっ・・・・・・」

甘く啄ばまれ、望美は自分から知盛を求めた。
応えるように、知盛が深く舌を絡み合わせてくる。

口づけの回数を、望美はもう数えていない。
覚えていない。
どうしてというなら、それが理由なのかもしれないと思う。
あとはもうどうにでもなれというか。

ここにしか、居場所が見つけられない。
平和になったこの世界が嬉しいのに、たまに胸がざわざわする。
知盛に抱かれているとき。
あるいは剣を合わせているときだけ、それは少し、遠ざかる。

だから、望美に知盛と結婚する理由めいたものはある。
だが、望美こそわからなかった。

(知盛は、何で結婚するって言ったの・・・・・・?)

縛られることも、結婚という形式も嫌いそうな男である。
しかも、知盛はかなり精力的に動いた気がする。
何故?どうして?
疑問は実のところ、増すばかりなのだ。
しかし、聞こうとはあまり思えない―――疑問はいつも、泡沫のように消えた。


知盛の手が望美の衣を脱がし始める。
既に馴染んだその所作に、今日の望美は身を任せることを選択した。















夜通し知盛に抱かれるせいで、望美は出歩くことをしなくなった。
昼間は京邸でのんびりと過ごし、夜になると知盛を迎える。
それでも望美に来客は絶えないから、なんだ、此処にいればよかったんだ、などと望美は思ったものだ。
退屈しない。
・・・・・・・知盛といるときほどではないにせよ。


その日も、望美は朱雀の片割れを迎え、部屋の中で談笑していた。
そこに知盛が踏み込むまでは。


「きゃあっ!ちょ、何するの知盛!」
「うるさい・・・・・」

昼間に珍しく現れたかと思えば、動じず笑うヒノエを見て、知盛は不機嫌に眉根を寄せた。
踏み込んだ勢いのままで、知盛の腕は望美を攫った。

「随分無粋だね、知盛殿?」
「これは俺の室だ・・・・・・」
「俺の、神子姫だよ?」
「・・・・・・・・」

交錯する睨み合いを、米俵のように担ぎ上げられている望美は知らない。
ただ険悪なのは分かる上、とても苦しいので、ジタバタ暴れた。

「ちょっとー!降ろしてよ知盛っ!苦しいー!」
「・・・・・・だってさ?」

ヒノエが立ち上がる。
手にした暗器に気づきつつ、知盛が酷薄に哂った。
死神の微笑。
ヒノエは一瞬気圧される。
この瞬間、それが分かれ目だった。

「・・・・・っ、待て!」

ヒノエが我に返ったとき、もう知盛は歩き出していた。
言って聞く男ではない。
それなのに、それしかできなかった。―――させなかった。

望美はまだ騒いでいるが、並の者・・・・・・いや、余程の剛の者でも、あの微笑には勝てないだろう。
知盛を止められる者は望美以外に存在しないのかもしれない。






「・・・・・・・ここは・・・・・・」

あのまま牛車に籠められ、連れられた先は通い慣れた邸。
知盛の邸の一角だった。
ただし、部屋の調度が真新しい。

「まさか、私の?」
「ああ・・・・・・・」

朔が揃えてくれた物に似た道具類。
漂う薫りがあらわすように、それは僅かに大人びた意匠だった。

「知盛が、選んだとか?」

返ってきたのは沈黙。
だが、否定されない――――

望美は畳みかけた。

「ここは、通婚じゃないの?」
「・・・・・・そうだな・・・・・・・」
「じゃあ、どうして?」

―――ずっと、聞いてみたかった。
だが、聞くのも面倒だった。
聞いてまともな答えが返ってくるとは期待できなかったから。


(いつだってすり抜けてゆく)
(いつだって、捕まえられない)


それは、水面の月を掬うように。

知盛が僅かに哂った。

「クッ・・・・・・言わせたいのか?」

何者にも囚われず、捕まえられない女。
形だけでもと急いだと、――――この俺に?

艶と苛立ちの視線にも、望美は恐れずに真向かった。
機会はきっと、最初で最後―――

「聞きたい」
「・・・・・・・・・」

知盛が、詰まった。
望美が繊手を伸ばし、知盛の首筋を抱き寄せる。

「・・・・・・・言って」

望美の甘い声に、あるいはこのとき完全に、知盛は堕ちたのかもしれない。
気づけば、答えていた。

「・・・・・・お前が俺のもの、だからだ・・・・・・」

それも、名実ともに、と思うほどに。
実がまだ手に入らないなら、名だけでも。
知盛の欲した女は気まぐれで、いつ消えるともしれない天女だったから。


何故知盛が結婚と言い出したのか―――

分かってみれば、明快かつ単純な理由。
独占欲。
あるいは顕示欲?
どちらも無縁だったはずの男に、望美は苦笑する。
・・・・・・もっと早く、分かりやすく、言ってよ。

「・・・・・・私を、好き?」
「・・・・・・・ああ」
「そう、私も多分、好きよ」

簡単な言葉しか返さない望美に、知盛もまた、小さく哂う。
追うものなどなかった自分に、追わせる女。
知盛は目の前に微笑む弓張り月に口づけた。


―――――水面の月は、甘く揺らめく。