……こんなことになるとは、思わなかった。
 いや、若干の予想はしていた。
 知盛の悪魔の微笑みは、悪いことを企んでいる時の顔である。
 弁慶の天使の笑顔より分かりやすくていいが、逃げようもないならどっちも一緒だ。

「うう、何でこんなことを……」

 知盛と待ち合わせ中である。
 夕暮れの街角で、望美はため息をついた。
 ―――現代に還る、と言ったとき、将臣と話したアレコレが走馬灯のように脳裏に甦る。
 生活に馴染めるかを心配した望美と違い、将臣はその手の心配を一切しなかった。
 将臣が心配したのは……。

「待たせたか……?」
「うぎゃあっ、あっ……知盛…」

 背後から急に声をかけられ、悶々と悩んでいた望美は思わず飛び上がった。
 臙脂のスーツを着こなした知盛は、望美の反応に不機嫌に顔を顰める。

「ぎゃあ?……いい度胸だな、望美……」
「ご、ごめんごめんっ……ちょっと考え事してたから……!」

 まさか、知盛について頭の中で罵詈雑言の限りを尽くしてました―――なんて言えはしない。
 望美は恐る恐る、知盛を窺った。

「まさか……もう、スイッチ入れない、よね?」
「入れて欲しければ入れるが……?」
「ないないっ!むしろずっと入れないで欲しい!」

 望美の過剰反応に、知盛は低く哂った。
 慣れた様子で寄越された知盛の腕に、望美はそっと掴まる。
 人波に従って歩きはじめる。
 浴衣の望美に気遣ってか、知盛の歩調はいつもよりも若干緩い。……そんなところが好き。
 多くを口に出す男ではないけれど。
 スーツの手触りと、布越しに感じる感触が知盛の男を伝え、望美は少し頬を赤らめた。

「何も、こんな……その、外じゃなくても……二人きりの時なら、私だって……」
「それでもお前は嫌がっただろう……」
「そ、それはだって……!」

 意地悪な返しに、望美は顔を真っ赤に染めた。
 当たり前だと思う!

「あ、あんなのどこで見つけたの?もう……余計な知識、身につけ過ぎだよ。将臣君の言った通りだ…」

 望美は、トホホ、とばかりにぼやいた。
 一瞬ピクリと知盛の腕が反応したのに、望美は気づかない。

「……ほう、兄上が……?」
「そう、向こうで――――あっ…」

 会場に辿り着いたとほぼ同時に、向こうの空に大輪の花火が上がった。

「見た?知盛!すっごく綺麗……!」

 周り中が足を止める。
 どうやらこれ以上は進めなさそうだ、と判断して、望美も足を止めた。
 知盛の返事の前に、二発目の花火が上がる。

「あ、またっ……ぁっ……!」

 望美は歓声を不自然に途切れさせた。
 ―――こっちも始まった。

「……っ、知盛……!」
「花火……見ないのか……?」

 よろけてしまった望美を支えながら、知盛は酷薄な微笑みを浮かべる。

「……っ見るよ!」
「上等……」

 気丈にも自力で立ち上がった望美に敬意を表し、知盛は掌中に秘められた玩具のスイッチを、また少し強めた。

「……っひ……!」

 ドーン!パラパラパラ……
 歓声と大きな爆発音が、望美の小さな悲鳴をかき消してくれた。
 そうでなければ、望美は走って逃げていたかもしれない。
 静音設計、というのは本当のようで、周りにはその音は聞こえていないようだ。
 誰も気づいていない。
 望美の中で今、何が暴れているのかを。
 知っているのは二人だけ。
 知盛と望美だけだ。

「……ぁっ……」

 知盛が。
 指を、震える望美の手に絡めてくる。
 花火を見ないのかと言った張本人は、花火なんか見ないで、望美だけを見つめてくる。
 悔しいから、望美は顔をぐっとあげて、花火の方を見た。
 空に咲く大輪の華。
 いつか熊野の空で見たものと、やっぱりよく似ている。似ているけど、違う。

「何を考えている……?」
「……ッア……な、にも……っ」
「嘘を吐くな……」

 低い囁き声は媚薬のよう。
 望美の中で盛大に暴れ始めた玩具より、ゆっくりなぞってくる知盛の指先に感じてしまう。
 大好きな指が手の甲を撫でてきて、指先にじわじわと進む。
 ゆっくりとした動きなのに、それは充分に夜の知盛を思い出させて、望美の脳髄を痺れさせていく。

「んっ、……ンンっ……」

 また、動きが変わった。
 声を堪えようとして、身体に力が入る。
 するとそれは、動きを速めた玩具を締めつけて、より明確な振動を伝えてくる。

「……ふっ…ン……」

 周りに人がいるのに、声が抑えきれない。
 吐息は艶に染まり、徐々に身体には力が入らなくなってくる。
 知盛に掴まるように縋ると、知盛がやけにのんびりした声をかけてきた。

「気分でも……悪いか……?」

 低く、響きのいいバリトン。
 気を引かれたのか隣の男が、不意に振り向いてきて、望美は思わず身体全体を強張らせた。
 その拍子に―――望美の秘所から溢れた蜜が太腿に一筋流れた。

「………っ」

 望美は蜜の流れる冷たさに慌てて、知盛から離れて座り込んでしまった。

(やあっ……!)

 望美はいたたまれなくて身を縮める。
 そこに、振り向いた男が、ポンと肩を叩いてきた。

「あの……大丈夫ですか?つらそうだけど……」

 優しい声は嬉しいが、何も言えるはずなんてない。
 声を出せばどうしたって、甘く尖った吐息が洩れてしまうだろう。
 望美は懸命に首を振ったが、男はより一層心配になったようで、身を屈めて近づいてくる。
 その時―――

「……触るな」

 振動が、急に止まった。
 望美が泣きそうな顔で顔をあげると、知盛が不機嫌な顔で男を睨んでいて、望美に手を伸ばそうとしていた男は威嚇におされたように、一歩、下がった。

「や、あの別に―――…だ、大丈夫なら!」

 菫の殺気に曝されるのを恐れるように、男はまろぶように人混みの中、消えていってしまった。

「フン……」

 知盛は鼻を鳴らすと、おもむろに望美の両脇に手を入れ、望美を立たせると、自分に凭れかからせた。
 何事もなかったように前方を見つめる知盛に、望美は苦笑する。
 さっきの人には、悪いことをした。

「さっきの、知盛が悪いよ」
「悪いのはお前だろう……」

 理不尽な事を言いながら、知盛は望美の手を握り直す。
 拗ねたような横顔が可愛く思えて、望美はクスクス微笑んだ。駄々っ子みたい。
 だが、笑ってばかりはいられない。
 知盛は何でもないような顔をしているけれど、自分の体にはもう、火がつけられてしまっている。
 もどかしい焔。
 堪えることはできる。
 でも、堪えたくない甘い疼きが、望美の中に燻っている。
 もう動いていない玩具まで恋しがるように望美の中はさざめいている。

「知盛……っ」

 望美は小さく知盛を引いて、甘くねだる。

「足、痛い」

 本当は痛くなんてない。だけど、あからさまに言うことはできない。
 知盛は酷薄な微笑を浮かべた。

「ほう……花火はいいのか」

 あれだけ楽しみにしていたのに。
 弄るような声が、望美を困らせる。
 意地悪な恋人。
 もう、花火どころじゃないことも知っているくせに、わざわざそんなことを聞いてきて。
 でも、望美は、知盛が最終的に動いてくれることを知っているから、きゅっと袖を引いて、近寄ってきた耳元に希った。

「お願い……っ」








 眦を紅に染め、小さく震える望美を知盛は丁寧な仕草で抱き上げた。

「家に送るか……?」

 知盛の心音が聞こえる。
 望美は既に力の入らない右手でシャツのあたりをきゅ、と握って、知盛を詰った。

「……意地悪……」
「意地悪か……?」

 もう、スイッチは切られているから、感じるのは歩く知盛の振動と、心臓の音だけだ。
 どちらもいつもと何も変わらなくて、何だか物凄く、―――ずるい。
 望美はもう、こんなに……なっているのに。

「車、なんでしょう?」
「ああ…」
「……っ……いじわる……!」

 泣き出しそうな顔に、そそられる。
 さっきまでの熱が一気に甦り、知盛は望美の口を深く塞いだ。

「んんっ……!ンッ……ふ……っ!」
「俺を煽るのが、お前は本当にうまいな……」
「そ―――そんなのっ……」

 間近に光る菫の瞳は猛禽のような強い光を放ち、欲望の焔を揺らしている。
 これを見てしまったら、もう駄目だ。
 きっと自分も同じ、瞳の色をしている。
 だってもう、花火の音が気にならない。知盛のマンションまで待つこともできない。

「馬鹿ぁっ……!」
「クッ……俺にそんなことを言うのは……、お前くらいだな……」

 生意気な恋人の口をキスで塞ぐ。
 知盛は足早に車に乗り込むと、帯を解くより先に先客を望美の中から追い出した。
 座席の向こうに放りだす。
 知盛は乱暴なキスの雨を望美に降らせた。

「知盛……すきっ……!」

 高く啼く声が言葉よりも明確に愛を叫ぶ。
 知盛の背中のずっと向こうで、最後の花火が夜空に弾けた。