廻る、時空。
辿り続けた戦いの道。
何のために戦うんだろうって、少しだけ考えてしまったの。
見つけた宝物
何度も果てもなく巡れば、こんなことだって普通にあるわけで。
「神子殿ー!」
「言仁くん!」
帝を下りた平家の少年は、望美の姿を見るなり駆け寄ってきた。
小さな姿を抱き締めて、抱き上げると、いつもならお日様の匂いがする。
今日はあいにく、雨模様。
望美が言仁をくるくると抱き上げて回していると、奥からやんわりとした声がかけられた。
「あら……神子様、雨ですのにいらして下さったのですか」
「おばあさま!」
言仁が望美の腕の中から再び駆け出し、老尼君の手を引いて、渡殿に戻ってくる。
望美はぺこりと一礼した。
「お邪魔しています、尼御前。……約束でしたので」
「まあ、ありがとう。雨だから我慢しましょうねと話していたところだったのですよ」
尼御前のやわらかな風情は、どこか朔の微笑みに似ている。
優しい、少し寂しい、けれど穏やかな微笑。
憧れはするが、自分ではこうはいかない。
そうはなれないことを知っているから、望美はこっそり緊張した。
「こ、これぐらいの雨なんて、大丈夫ですよ!」
実際、京邸からここまでそう離れた距離ではない。
被きを頭から羽織れば、十分凌げる程度の雨でもあった。
そう気にされるほどのことでもないのだが……。
「まあ、ほほ……でもあまり濡れてはいけませんよ。部屋の中でお茶にいたしましょう」
「あ……じゃあ……いただきます……」
………こう、やんわりと言われるとどうにも断りづらい。
これが源氏の中なら、九郎が大きな声で怒って、譲あたりにも叱られて、朔にもお目玉で、望美だって対抗できるのだが。
「いこう、神子殿!」
「……うん」
小さな手に引かれて、逃げ場はどこにもなくなって、望美は初めて、平家の邸の中に入った。
これまでは、渡殿と庭にまでしか踏み込むことのなかった場所。
御簾をくぐると、そこには京邸にはない雅と、同じくらいの静けさがあった。
立ち働く女房たちが場を整えている。
その数は京邸とは比べ物にならないくらいに多いのに、やけに静かだった。
年嵩の女房が多いせいだろうか。
―――――将臣が守ろうとしていた人たち。
「……………」
思わず立ち尽くした望美に気づいたのか、尼御前が何か手配して、人払いをしてくれたようだった。
引き潮の波が引いていくように、女房の姿が消えていく。
後には、望美と言仁、尼御前が残されるばかりになった。
我に返った望美は、蒼白になった。
「あっ……す、すいません、私っ……」
「――――いいのよ。さあ、お座りになって」
やんわりと招かれて、逆らえなくて、でも、座れない。
……将臣が守ろうとした人たちは、そのまま、望美が屠ろうとしていた人たちだ。
今回は時の巡りが重なって和議になって、こうしているけれど、そうじゃない時空だって望美は見てきた。
老尼君の大事な家族を手にかけたことも、数知れずあるのだ。
いや、この先だって―――――
(廻らないと、言えるの?だって、どこを終わりにすればいいの?全然分からない)
もう、平家だけを悪だとは思えなくて、でも、源氏の陣からは離れられなくて。
時空の輪の中で、逃げ込むように和議を選んだこの世界で、私は、いつまで――――
「神子殿!」
「………言仁、くん?」
「神子殿も食べよう、うまいぞ!」
暗い思考の底に沈みそうになっていた望美を引き上げたのは、言仁の笑顔だった。
お菓子のかすを口の回りにいっぱいつけた、お日様みたいな笑顔。
たとえ天気が雨で、身体からお日様の匂いがしなくても。
「――――――うん」
望美が手を引かれて座った前に、そっとお菓子の載った高坏が押し出される。
そして、仄かな尼御前の笑顔。
「どうぞ、神子様」
「……はい、いただきます」
今度は望美も、臆せず微笑み返すことができた。
言仁がその横でにこにこと笑って、もう一つ、自分の分の菓子を手に取る。
尼御前が白湯を注ぐ音が、静かに響いた。
将臣の守りたかったもの。
そして、今度は望美も一緒に守れたもの。
――――――ずっと守りたかったもの。
それは、源氏も平家も越えた、こんな小さな日常だったのかもしれないと、不意に思った。
「……美味しいです」
「まあ、よかったこと」
ふと外を見て、尼御前が微笑んだ。
「………あら、雨が上がったようですね」
「本当だ。――――言仁くん、庭に出る?」
「よいのかっ?」
「うん、行こう!――――ご馳走様でした、尼御前」
飛び出していった言仁を追って、望美が席を立つ。
尼御前はそれを変わらぬ笑顔で見送った。
―――――夫の仇を討ち、夫の過ちを正してくれた少女。
応龍に守られた、雨上りの京の空は、夕焼けの色に染められる。
望美が白龍の神子の任を終え、帰還を決意するのは、この少し後のことになる。