その日、京邸はバタバタと騒がしかった。
「……朔、急にどうしたの?私も手伝おうか?」
「あら、望美」
来ていたのね、と、何やら走り回っていた対の少女は、はんなりと微笑んだ。
望美も微笑み返す。
だが、背後で朔を呼ぶ声が複数して、朔が疲れた溜息をつく。
「忙しそうだね……」
「ええ……」
朔が妙に遠い目になった。
望美は何となく理由を察知する。
―――景時さん、かな?
普段鷹揚で優しい物腰の朔は、実の兄である景時に対してだけはかなり手厳しい。
その日も、朔は苦虫を潰したような顔で溜息をついた。
「兄上がまた面倒事を背負い込んで……。明日の催事にここが使われるって、今朝言うんだもの。朝からこの通り、大わらわよ」
「催事?」
「ええ、明日で神無月が終わりだから、神様が出雲から帰ってこられるでしょう?」
望美は神無月、を自分の知る月日と照らし合わせた。
十月、末日。
陰暦と現代の暦は、一致するものではないのだが、望美はいいことを思いついた。
望美は上機嫌ににんまりする。
下剋上のチャンス到来☆
「そんな行事があるんだね」
「そうなの。だから望美、申し訳ないけど……」
「手伝うよ?」
望美の思いつきの本番は明日である。今日は暇。
その言葉に朔は凍りついた。
気楽に問いかけてくる大好きな対の気持ちは嬉しいが……
「え、ああ…うふふ、いいわ。また遊びに来て頂戴」
「え、でも……」
「遊びに来て頂戴」
「……はあい」
ニッコリ笑顔の朔には逆らわないほうがいいことは、望美の身にも浸みている。
素直に望美は京邸を後にすることにした。
翌日である。
望美にとってある意味本番!
望美は車宿りの近くで将臣が出てくるのを待ち構えていた。
和議後、将臣はなんと内大臣なのである。
何の冗談だと本人は愚痴っていたが、案外うまくやるんじゃないかと望美は思っている。
「あっ!」
―――将臣が帰ってきた。
いつもより早いのは、催事が御所ではなく京邸だったからかもしれない。
望美は身構える。
失敗は許されない。
例の呪文を懸命に復唱した。
(よし、いけるっ!)
将臣が疲れたようにぼやきながら降りてきたのを見計らって、望美は突撃した。
「お、望美。ただいま」
「お帰り、将臣君!と、とりっくおあとりーと!」
お菓子くれなきゃ、いたずらするぞ!
勿論、将臣が持ってないことを見越してである―――
将臣は僅かに沈黙した。
「Trick or Treat?」
かなり流暢な英語で返されて、望美は頬を赤らめる。負けた。
だが、このときの望美はこれでは引き下がらなかった。
「そ、そうだよ。将臣君お菓子なんか持ってないでしょ?」
そのためにわざわざ帰宅直後、まだ部屋にも戻っていないところを襲撃したのである。
これでいたずら決定!
下剋上は完成間近である!
目を輝かせる望美からは容易にその意図が読み取れる。
(いたずらねえ……)
可愛らしい少女――しかも恋人から聞くのだから、できれば色っぽい線でお願いしたいが、望美の考えるようないたずらは絶対違うだろう。
乗ってやるのもいいのだが、ここは違う方に乗ってやろう。
将臣がにやり、と頬を緩めるのに、望美は目をパチパチさせた。
(……ん?)
よくない予感がする。
「お菓子持ってればいいんだろ。ほら」
「えっ……」
望美の掌にぽんと乗せられたのは小さな包み。
開けてみると唐菓子がいくつか入っていた。
「景時の邸で催しがあったからな。そこでもらったんだよ」
それをくれた邸の主は疲れきった顔をしていた。
こってり絞られた後のような。
癒しにでもするのかもしれない。
望美は嬉しいが困った、という顔をしている。
(……可愛いよなあ)
それは、贔屓目なしにでも。
将臣の心に湧きあがるのは保護欲と独占欲―――
守りたいが、めちゃめちゃにしてしまいたくなる。
できればどちらも、自分だけの手で。
将臣は何気ない風に問いかける。
「で、望美?俺も言うけどかまわないよな?」
「へっ?」
「Trick or Treat?」
ぎく、と望美が如実に固まった。
逆襲が来るとは考えていなかった望美である。
「あ、その、えーっと……」
「お菓子、じゃなきゃ、いたずら」
にやにやにや。
分かっている笑顔に、望美は答えを窮する。
当然お菓子なんか持っていない。
「ほら、菓子出せよ?」
「も、持ってないの分かってるでしょ…!」
「当然♪」
将臣は悪気ゼロの笑顔で望美を覗きこみ、ひょい、とその身を抱え上げた。
「たっぷりいたずらしてやるよ」
「〜〜〜〜〜 !」
望美は真っ赤になってジタバタするが、この辺りにはもう誰もいない。
優秀な家人たちは、望美が走り寄ってきた時点でさっさと人払いをし始めたのだから。
「ま、将臣君!絶対いたずらの意図、違うから!ねえ聞いてるっ?」
「はいはい」
望美の懸命な叫びはあっさりと無視される。
いたずらには、相応の覚悟が必要なようである。