将臣は少し遠い目をした。
渡殿を風が吹く。
帰って来たのだ、京へ。
実感できたのは本当に、暫く経ってから。
ヤキモチも嬉しいな
――――と、将臣が感慨に耽る暇は、本当はあまりなかった。
「還内・・・ま、将臣殿!この文の返事は・・・」
「将臣殿、先にこっちを」
「将臣様、知盛様が起きてこられません・・・!」
立ち止まった将臣の耳にいくつもの声が飛び込んだ。
将臣は一瞬だけ感じた感慨を遠く思う。
しかも最後のはなんだ。
「知ったこっちゃねー・・・とは、言えねえんだろうなあ・・・・・」
ぼやくようにため息をついて、適当な順番でそれらに指示を出していく。
振り返った自分に向ける安心しきった目に苦笑する。
もう将臣と呼ぶのに。
還ってきた総領ではないと知っているはずなのに。
(最初から・・・・・・かな)
いつしか呼ばれだしただけだった。
それを積極的に否定しなかったのは将臣自身の選択だ。
平家を、守るために。
ふと、将臣は読んでいる途中の文から顔をあげる。
庭から軽やかな笑い声。
「・・・・ええ、先日の梅花祭での舞はとても素晴らしかったですね・・・」
「ホント?でもちょっと、とちっちゃったんだよ。知盛には笑われた」
「ふふ、私には、それもとても愛らしく見えましたよ」
―――重衡と、望美。
庭の向こうから、談笑しながら歩いてくる姿に、僅かに走る心の波立ち。
「―――将臣殿?」
「お、悪ィ。・・・・・・・そうだな、これは俺が顔を出す。忠度殿にも言っといてくれ」
「御意!」
「次はこちらを・・・・」
将臣は、なるべく気をそらそうと目の前に集中しようとした。
次々用事は来るのだし、片づける役割を望んで背負ったのは、自分。
それに、望美が重衡と連れ立つのは珍しいことではない。
望美はよく京邸から抜け出して、ここに来る。
和議の前夜に会ったらしい、知盛と重衡は望美を気に入ったようで、よく構っている。
特に、重衡。
「はい、・・・はい、分かりました!伝えてまいります!」
「将臣殿、尼君よりこれを」
甘い仕草、美辞麗句。
つか、そんなに触るな。触らせるな。
(ヒノエや弁慶で慣れやがったか・・・?)
もともと望美は恋愛には奥手。
鈍感だし、あの弁慶やヒノエやらの秋波にも堕ちてないんだ。
それは筋金入りで、それは誰よりも知っているつもりだけど。
それでもそんな無防備な女だったろうか。
「・・・・・ありがとうとお伝えしてくれ。次」
「は、こちらです」
笑うな。そんな嬉しそうに。
こっちを見ろ。
気づけ。
用事の隙間に、将臣は二人から目が離せない。
不意に、重衡の手が動いた。
「・・・・・・それでですね、言仁様のことですが・・・―――将臣殿?」
「―――ちょっとそれ貸せ」
将臣は紙を留めていた小さな重石をふっと取り上げ、腕の一振りで重衡に投げた。
重衡は背を向けていて、咄嗟に報告をしていた男が叫ぶ。
「ま、―――重衡殿っ!」
咄嗟に諌めるより注意を促す方を選択したものだろう。
しかし、慌てた男の声よりも早く、重衡は小さく振り向き、重石を簡単に受け止めた。
綺麗な笑みで振り返る。
「ちっ、勘がいいな」
「将臣殿、お疲れ様です」
揺らぎもしない微笑。
にっこりと微笑む重衡の奥で呆気に取られていた望美が、怒って猛然と歩いてくる。
「ちょ・・・っ、将臣君!危ないでしょ!しかも今、ちっとか言ったっ!!」
「私は大丈夫ですよ、十六夜の君」
「大丈夫だからいいとかいう問題じゃないです!」
郎党は呆然としているが、このくらい望美が怒るだろう事は予想していた将臣である。
重衡はむしろ引き留めようとその袖を引こうとしたが、望美はそれより早く将臣のいる渡殿までやってきた。
将臣は素早く指示を出し、呆然としている男をさがらせた。
男は慌てて頭を下げ、チラリと重衡の無事を確認してから去っていく。
「ちょっと将臣君聞いてるのっ・・・・・きゃ!?」
「聞いてるって。―――知盛は踏んで起こせ」
「え、は・・・はい・・・」
無理難題を押し付けながら、将臣は最後に残っていた女房に手を振った。
困った顔のまま、女房がさがる。
庭から米俵のように担ぎ上げられた望美は、驚いた子どものように黙ってしまった。
それをいいことに、望美を抱えたまま、将臣もその場をあとにする。
重衡と一瞬、目が合った。
☆
自室に着いたところで、将臣は適当に望美の靴を脱がし、とん、と下に降ろした。
望美が大きく息をつく。
「ふわぁ・・・・将臣君、力強いねえ・・・・・」
「そこかよ」
本当に子どものようだ。
驚きで、すっかり怒りを忘れたような望美に少し笑う。
自分でも気づいたのだろう、望美がハッとした顔で口元を覆った。
付け足しのように、小さく膨れた。
「もう・・・何であんなことしたの?」
「怪我もなかったんだから、いいだろ」
「そういう問題じゃないってば」
拗ねるように望美が言う。
二人だけなら、他のヤツの話題でも平気なのにな。
「・・・・・・よくないよ、ああいうの」
「分かってるって」
「分かってるなら何でやったのよ・・・・」
呆れるみたいなため息。
―――お前のせいだよ。
言いかけて、口を噤む。
俺たちは「そんな関係」じゃない。
「それよりなんだよ、今日は」
将臣が話題を変えると、望美がぱち、と目を瞬いた。
いささか強引な話運びを、将臣がするのは珍しい。
「・・・・・・どうしたの?」
「だから、お前が」
「私は将臣君に会いにきたんだよ。それより将臣君、何かあったの?」
将臣は口を噤んだ。
・・・・・・・色恋には疎いのに、望美はひどく人の感情に敏感だ。
(でも、鈍いんだけど)
そんなところが好きで、気にされたことが嬉しくて、少し恥ずかしくて。
将臣はゆっくりと、零すように苦笑した。
広がる呆れにも似た空気に、望美が口を尖らせる。
「何よう」
「―――お前さ、あんまり簡単に触らせるなよ?」
まるで子犬にでもするような仕草で、将臣が望美の頭に手のひらを弾ませた。
望美は何のことか分からず、ちょっと考える。
「・・・・・・重衡さんのこと?」
「それもだけど、全部」
「・・・・・・全部・・・・・」
もしかして、ヤキモチ?
一瞬望美はそう言いかけた。
でも、子犬にでもするような撫でられ方を思い出して、それはないかと思う。
自分たちは幼馴染なのだ。
(・・・・・でも、嬉しいかも)
ヤキモチだったら、いいのに。
でも、それでなくても、将臣が気にしてくれた―――今までも気にしていたことは本当のようだ。
望美は、顔に笑顔が浮かぶのをどうにも止められない。
急にニコニコと笑顔になった望美を、将臣は怪訝に見遣る。
「・・・・・何だよ」
「うん、気をつける」
「ホントかァ?」
うん、と望美が無邪気に微笑むから、将臣も苦笑して、この話を終わりにした。
望美が気をつけたところで、どうせ変わらないのだから、気にするだけ馬鹿らしい。
今は、望美が素直に頷いたことで、将臣は満足することにした。
その後は、いくつか源平の話をして、いつものように京邸まで将臣は望美を送っていった。
帰っていく背中に望美は少し、涙ぐむ。
遠い螺旋の向こう、ずっと敵としてしかあれなかった自分たち。
捨てるのも、捨てさせるのも嫌で、ここまできた。
「・・・・・・終わったら、還ろうね、将臣君」
呟いて、望美は少しだけ笑う。
平和の京。
二人の想いが叶うのは、もう少し先の話。